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髙橋みずほ「一本二本細き線あり藍色の変異のというも江戸の朝顔」(『蠢く』)・・

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   髙橋みずほ第11歌集『蠢く』(短歌研究社)、栞文は今森光彦「低い眼差し」、その中に、  (前略) 生きものの中に自分の霊を同化させることができる力は、ある種のアニミズムであるように思う。日本人の子どもたちは、生まれながらに、この稀有な感覚を身につけているのである。  ただ、惜しいことに、この鋭敏な感覚は、大人になると影を潜めてしまう。雑念が多くなる、と言ってしまえばそれまでだが、ものごとを、科学的に解釈しないと社会の中で生きられなくなってしまうからだろう。  表現者は、だれもがそうだと思うが、この不思議な力を持ち続けるにはどうしたらよいか、と思案する。この短歌集の作者(髙橋みずほさん)は、風景に対して常に低い眼差しをもっていて、どうやら、自然の蠢きを鋭く感じとることができるらしい。 とあった。また、著者「あとがき」には、  言葉を短歌の形式に入れたときに、身体ごとぴったりとはまった感覚があった。それから、短歌を作り続けてきた。師・加藤克巳の作品に触れていつからか、言葉の柔軟性に気づくようになった。そして形式とは揺れ幅をもつ器であることを知り、その奥深さに佇んだ。それが言葉の魅力なのだと思った。長い時のなかでゆっくりと、言葉と真向う日々があった。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの歌を挙げておこう。    人間の内に深く刻まれてしずかに憩うような傷穴           みずほ    黄色い家が削れてく青い家のそのとなり赤い実のなる木もあって   子の惑い泣きだす前にふとよぎるみえないものを追う顔をする   靴とんがっている上向きに履きくたびれて空を見ている   青い海原がよせてきてとうめいな波影をおいてゆく   ふつふつとさる波につげて泡はやさしき丸みに消える   いさぎよく風のすじとなる灰となるうつくしき生かもしれぬ   同じ形の種なくて種にはたねの想いを固め   遺伝子が未来にうごきもどること獅子葉は今をしずかにつかむ   金の麦穂波の風はとおく光につなぐ人の温もり   なぜまわしながら走るのかまわせばしらずに走ってしまう   まわしつつスカラベ色を生んでゆく赤いスカラベ青いスカラベ   土色の地球のあわいをなぞりつつ今を丸めて未来にまわす   それでも回しつづける朝 (あした) になれば新たな陽玉が押しに来る  髙橋み...

佐藤りえ「発火して生まれ直してゐるところ」(『兎森縁起』)・・

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  佐藤りえ第二句集『兎森縁起』(青磁社)、その帯に、  ぺダンティックかと思えば世俗的/有季定型も言葉遊びもごちゃ混ぜの  幻想と写生が互いに隣り合う/白ウサギを追って穴に転がり込むように  読者を大人の骨休メの森に誘う一冊  とある。著者「あとがき」には、  武蔵野に移り住んで十余年が過ぎた。今住んでいる昭和の後半にひらかれたという宅地は、周辺に雑木林が点在するのどかな土地である。ムクドリやジョウビタキ、ヤマガラ、メジロなどの野鳥が日々頭上を飛び交っている。散歩の途中で雉に出会すこともある。  いつまでも続くかと思われたこうした光景は、少しずつ失われつつある。 (中略) 我が家にほど近いもっとも大きな繫りにも伐採の手が入り、木立の一部が向う側が透けてまいそうな程度にすかすかになってしまった。これでは兎一匹潜むのも難しいのではないか。変貌ぶりに狼狽しつつ、残った木々に鳥が集まるのを、二階のちいさな窓から眺めている。  とあった。目次のタイトルが面白い。 「春休み」「昼休み」「夏休み」「ずる休み」「食休ミ」「秋休み」「ひとやすみ」「羽休メ」「冬休み」 である。  ともあれ、以下に、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。   夢殿に囂 (かまびす) しくも浅き春          りえ    花屑に溺るゝさまの鏡石   金曜のまへの銀曜ある四月      良い娘は天国に行ける。悪い娘はどこへでも行ける。   どこかへ行かむ風船を乗り継いで    審判も汗拭いてゐる草野球   猫もはや昼寝の供に飽きてゐる   星鬻ぐ店もありけり草の市   永遠に鯨でゐるつてどんなふう   クランベリージュースかぶつて血の騒ぎ      「雪だるまゆうパック」なるものがあるといふ   冷凍の雪達磨くる此の世かな     麺または人撲つ音や二階より      悼 鬼海弘雄   王たちの肖像画揺るる野分中   健康と紙に書かれて文化の日      コペンハーゲン、ストランゲーゼ30番地   秋深みピアノの蓋に置いたパン   座頭市開始二分で燭を切り   キングボンビーかしこみ申す去年今年   はなびらにされてまことに良いにんじん   わだつみに春待つ不死の心臓は   佐藤りえ(さとう・りえ) 1973年、宮城県仙台市生まれ。       撮影・中西ひろ美「山百合となるまでは...

右城暮石「死者の霊安らか青田青山に」(「運河」8月号より)・・

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 「運河」8月号(運河俳句会)、特集は「暮石」。編集後記に、 白玉を抱き直立す雪持草      右城暮石         (『散歩園』 平成五年作) ◆右城暮石先生歿後三十年「特集 暮石」を企画しました (中略)   雪持草は里芋科テンナンショウ属。春、深く切れ込んだ葉を二枚出し、独特の形の仏炎苞を立ち上げ、初夏、餅を思わせる白い花穂を出す。(中略)  かつて本山町古田の暮石先生のお墓参りの途次、杉林の中にこの花を見つけた。夕闇が迫ると辺りの色彩は消え失せ、この花穂の白だけが残り、闇のなかで仄かに輝く。 (中略)  僕はこの作品の凛とした花の姿から、暮石先生の男の矜持、為人の一端を見た気がした。 お亡くなりになる二年前の作品である。(智行)  とあり、 特集「暮石」は、谷口智行選「暮石五十句」、「暮石先生の思い出 または暮石俳句への思い」の執筆陣は芳野正王、森井美和代、髙松早基子、松村幸代、瓜阪孝依、中畑隆男。アンケート「そうだ くさんがいた!」の応答者は五十五家、「わが胸中の暮石俳句」「自由投稿〈暮石先生!わたしの見付けたこの一句」34名など壮観の大特集。  愚生のアンケートへの応答は、「続く猛暑に…」、 炎天を来て大阪に紛れ込む  暮石は言う。「大阪はわが古巣であり、胸が深くて広い。駅から吐き出された途端に、開放感で気持ちがふくらんだ」(自注現代俳句シリーズ・右城暮石集』)。また茨木和生は、「僕の原点は大阪だよとことあるごとにいっていたことを思い出す。暑い大阪も苦にならなかったともよくいっていた」(『右城暮石の百句』)と。暮石は高知から十九歳で大阪に出てきて暮らした。二十一歳、「朝日俳壇」松瀬靑々選に〈短夜の土提の穂草は吹かれをり〉が初入選。同じ齢でボクは、警棒の雨に打たれた大阪、京都から東京に流れ着いていた。  と記した。ともあれ、本誌本号より、いくつかの句を挙げておきたい。      平成四年八月十二日中上健次死す    盆の月黒く崩れて来たる夢            茨木和生   一鵜行く太平洋を舐めながら           谷口智行   絶壁にロープ垂らせる若布とり          芳野正王    麦笛や華奢なる人のよき音色           藤勢津子     日が西に傾くを待ち練供養           森井美知代    小綬鶏の声を和生...

和田美代「原爆ドームこの肋骨とひびきあう」(『原罪のような夕日』)・・

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  和田美代句集『原罪のような夕日』(ジャプラン)、帯の惹句に、    原罪のような夕日が胸にある  不思議な模様の、昆虫網をもって、遠い地平線へ、  夕日をつかまえにいこうとする、俳人が、一人いる。 背には、「 新しい俳句の視水線 」とある。著者「あとがき」には、   令和七年七月七日で九十四才になります。四十七才で早逝の母へ「産んでくれてありがとう。お母さんの倍生きるからね」と心に誓った満願の日を迎えます。   夏になると幼い私を連れて湯治に行った指宿の海   ―-豊饒の湾母は銀河を耕して―ー  やりたいと思うことは後のばしにしまいで、その時に実行すること。この年令になってみないとわからない事が次々現れ、後もどり出来ないことを痛感しています。  とあった。ともあれ、以下に、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておこう。    凍みる日はからだの中に駅をもつ         美代    身の内の砂漠ほつほつと獣あるく    音楽流れみんな溺死の影をもつ   灯台はとてもおおきな風の耳   春二番 序列はとうに乱れている   地球儀をぐるりと廻して爆忌くる   いちばん先に夕焼けになりた放れ雲   先の見えない風へ身を投げにいく   生まれて来たことの積木くずしにあう   どの石とも違うこの石の心音   銀河から落ちて蛍になっている   私はもっているか虹のように消える人権   一滴の空の影として佇つよ  和田美代(わだ・みよ) 1931年、宮崎県生まれ。 ★閑話休題・・山内将史「種痘なき人類に土用波」(「山猫便り/2025年7月1日」)・・ 「山猫便り/7月1日」は山内将史の葉書通信。その中に、 (前略)  夕すすき太郎と次郎来る如し   高山れおな『百題稽古』  太郎と次郎は来ない。まだ一度も来ず、永遠に来ないかもしれない。でも夕すすきの道を見ると二人が来そうな予感がする。そんな感傷。 (中略)  「八十歳過ぎても幼稚やったらエライでえ」と永田耕衣に言われたっけ。  とあった。       撮影・芽夢野うのき「迷路の秩序トマトの花の黄の点々」↑

三枝昂之「檄詩一首 桜にわずかおくれつつ咲きたり誰の肩に散らむや」(「歌壇」8月号より)・・

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 「歌壇」8月号(本阿弥書店)、 【愚生注:昂之氏の名前の正しい漢字が愚生のパソコンでは出ません「昂」で失礼させていただきます】。 特集は「歌人たちはどう戦争を詠んだか」。ここでは、公開講座・講演録「協会賞歌集を読み返す3 ~いい短歌とかなんだろう? 歌人・歌集・時代/第二回 三枝昂之『水の覇権』・髙良真実/三枝昂之/司会・鶴田伊津」を少しだが、紹介したい。当然ながら、引用にも無理があるので、直接、本紙に当って、その全文を読んでいただきたい。 (前略) 髙良 この時期に篠弘さんが「微視的観念の小世界」ということを言います。それに対するカウンターとして鼓舞するような歌が七九年の「アルカディア」創刊号で語られていて、そういった歌を追い求める気持ちと「われわれ」の歌を求める気持ちは少し重なってくるかと思うのですが、「アルカディア」の座談会で、「ファシズムに陥らずにどうやってこれを実現するかが僕たちの課題だ」と語られていました。三枝さん自身はどういったかたちでそれを回避されようとしたんでしょうか。 三枝 難しいけれど大切な問いですね。ファシズムがあって、軍国主義があって、昭和の前期には政治的には非常にマイナーなキーワードがある。「われわれ」というのはある意味では非常に危ないカードであると心得ていた方がいい。けれど長いスパンで短歌をみると、あまりに古いことを言うとおかしいと思うかもしれないけれど、イザナミとイザナギの成婚の儀式、「あなにやし、「えをとめを」「えをとこを」という対話詩、それから「あめつつちどりましとなどさけるとめ」という片歌の問答などの発端があって、一人が問い一人が答えるという短歌の形式が生まれる。その短歌の構造的な特徴のなかには誰かと対話するという根っこが痕跡として残っているから例えば上の句と下の句という構造、どうして五七五七七で分れるか。そういう構造的なことを考えると短歌はどこかで他の人、他の世界との対話の要素を根底に持っていて、その要素は人を愛でる、国や山河を愛でるということにも繋がっていく。 (中略) それが歌の一番基本にある要素だと。こういうことは近代以降では忘れられていて、短歌の一三〇〇年のなかではそういう要素も自我の詩とか前衛短歌と横並びでちゃんと評価しておかなければいけないと思った。ファシズムや軍国主義という昭和の蹉跌を意識しておいくこと...

須崎武尚「雲の峰割って一光補陀落へ」(第187回「吾亦紅句会」)・・

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 7月25日(金)は第187回「吾亦紅句会」(於:立川女性総合センター アイム)だった。兼題は「海開き」と先般、亡くなられた牟田英子の追悼句を、ということであった。以下に一人一句を挙げておきたい。   芳一と七盛塚の鬼火盆             須崎武尚    麦稈ロールの丘に立ち晩夏かな         齋木和俊    山、羽球 (うきゅう) 、俳句を愛した夏の夕   関根幸子    選挙ポスターならぶ笑顔の暑苦し        渡邉弘子    こども等が我 (われ) 先沖へと海開き     三枝美枝子    遊歩道細きつなぎ目ねこじゃらし       折原ミチ子    山滴たる百名山へあと一歩          吉村自然坊    母あらば鱧の一品並ぶころ           西村文子    山よりも高い所に行ったのね          武田道代    あでやかに旅立つ友や二重虹          奥村和子    亡き友のメールは消せず走馬灯         佐藤幸子    おにぎりに海の香がしてセレトニン       笠井節子    緑陰の無言館佇みて無言           堀江ひで子   世を拗ねて曲つてしまふ胡瓜かな        田村明通    海開き神事の巫女の白衣 (びゃくえ) 立つ    村上さら    ざわざわと風を呼ぶなり柿若葉        佐々木賢二    虹渡り巡礼の旅今何処に            松谷栄喜      海開き潮湯治 (しおとうじ) とて明治の世    大井恒行   ★閑話休題・・ 杉本青三郎「炎天の点となるべく打って出る」(第169回「豈」東京句会)・・             有栖川公園にて、撮影・川崎果連↑         7月26日(土)は、第169回「豈」東京句会(於:ありすいきききプラザ)だった。以下に一人一句を挙げておこう。     箱庭のあなたをそっとつまみ出す        川崎果連    炎暑かなtattooの皮膚を着ています       早瀬恵子    インベーダーゲーム勝たねばならぬ敗戦忌   羽村美和子    身を任すしびれたゆたう蟬時雨        杉本青三郎    炎昼のコップの中の目玉かな          仲村初穂    想い出を海月の渦に落しけり         伊藤左知子 ...

各務麗至「この夏や日本武尊に出会ふとは」(「詭激時代つうしん」7より)・・

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 「詭激時代つうしん」7(詭激時代社・栞版)、その「近況から……」に、   六月五日に、日本文藝家協会の総会があり、その懇親会に、長寿会員を招待するという催しに本年喜寿の私にも案内が届いた。 (中略)  しかし、先の事が分かっていたのだろうか……、絶対に行くように、と、昨年の春先からその話やその用意もしてくれていた最中の家内の永逝だった。 (中略)  今回の招待状は、若い頃と違って優柔不断になってしまった私に、何してんの……、と、ばかり彼の世から一種の発破でも投げかけてくれたのだろうか。  先ず静岡の二男に相談して。  多度津や広島の息子たちからは、―-楽しんできて、との言葉が返ってきたのだった。 (中略) ―-私にとっては二十数年ぶりの上京だった。  家内が、わたしの事はもう安心して行って来いと言ってくれたようで、  それに、息子たち、東京でのホテルは今とても大変らしいけれど、静岡からなら一時間ほどだから、と……、計画してくれたのでした。   とあり、「覚書……」にも、 (前略) 妻である、岡田佐代子という同志であり最愛の同行者を失ったことは決定的だった。 (中略)  私の今回の東京静岡行きは、妻が亡くなって、自分がいたら不可能な、と、思っていただろう、そんな機会を作ってくれたようなものだった。  私も、心筋梗塞左心室三分の一壊死という持病があって、  妻は、―-お父さん、も、きっと今、が、年齢的にも動ける限界、と、思ったかも知れない。   とあった。ともあれ、本号の「ゆく春」「在らねば」「夏燦々」の句群から、いくつかの句を挙げておこう。   戦前戦後勿忘草やをちこちに          麗至   清流や男をあらふ夏はじめ   魂の在らねばあらね涅槃かな   青空のはるかはるかは星あまた   居るとゐないで空気が違ふ秋のくれ      *殊更に腎友会代表記帳二人並んだ夏が蘇る   出雲大社参拝記念記帳夏真中      *喜寿を祝され二十数年ぶりの上京   八重洲口東京會館夏迷路      *父の日に誕生日に喜寿にとの祝ひとか   この夏や日本武尊に出会ふとは   伊豆の踊子浄蓮の滝夏涼し      *文藝家協会も感謝だつたが   招待や妻ゐてこその夏なりけり   金目鯛海老蟹盛夏温泉宿       撮影・芽夢野うのき「魂飛ばす木槿の風にのせとばす」↑

片山由美子「蝶を呼ぶ現世になき花として」(『水柿』)・・・

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  片山由美子第7句集『水柿』(ふらんす堂)、「あとがき」には、  本句集には、二〇一九年一月から二〇二四年二月までに発表した作品の中から三八九句を収めました。 (中略)   先生からは多くのことを学びましたが、最も大切なのは俳句の格調ということだと思っています。 (中略)   私にとって俳句は、声高にものをいうためのものではありません。社会に向かって何かを主張するというものでもありません。平凡な日々の営みの中で、小さな発見や驚きをことばにするささやかな営みに喜びを見出してきました。 (中略)  しばらく前から、若冲の絵に俳句的なものを感じており、「俳句」(KADOKAWA)の巻頭五〇句の依頼があったときに、若冲の絵をヒントにまとめられないかと思いました。思いついたのは、頭の中で若冲の絵を3D化し、その世界に入り込んで俳句を作るということです。したがって、素材はすべて若冲の絵の中にあり、若冲が見たものということになります。 (中略)  「水柿」は色の名前です。その色の魅力もさることながら、ことば自体に惹かれて句集名にしました。美しいものはもちろん、人の喜びや悲しみに心を寄せつつ丁寧に生きることで、自分なりに納得のいく句を作り続けられたらと思います。  とあった。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。    胸もとにあばれる萩を括りたる        由美子    紅葉して楓 (ふう) はいよいよ風呼ぶ木   木も草も夢を見むとて枯れゆくか     みほとけの金わかたれて福寿草     九十四歳の母へ    この世まだ見るもの多し花明り      ひぐらしや錆ゆくものが家中に   含みたる海ほほづきに血のにほひ     ニュージーランドにて大石悦子さんの訃報を受く   片虹や人の訃胸に旅半ば    鏡花忌の雨音に覚めまた眠り   秋の初風貝殻の白じろと   白象の歩めば軋む夏の闇   秋風を聴く流眄の白孔雀   飛べぬ翅ひろげて蝶の湧きいづる   鰯雲いづこからともなく毀れ   ひらきたるひと齣を閉ぢ秋扇  片山由美子(かたやま・ゆみこ) 1952(昭和27)年、千葉県生まれ。        撮影・中西ひろ美「海の日やスポットライトは弾かれて」↑

宮崎斗士「原爆ドーム一は何乗しても一」(「俳句界」8月号より)・・

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  「俳句界」8月号(文學の森)、特集は「戦後80年/俳句の力、文章の力」。執筆陣は名取里美「戦争俳句30句を読む/戦争と俳句と不戦」、上野啓祐「著書を語る/『いまぞ熾(さかりつ)りつ 被曝と反核の俳人松尾あつゆき』」、「著書を語る/永田浩三『原爆と俳句』」、今泉康弘「読書感想/日本が戦った『最後の』戦争を繙く『日ソ戦争』麻田雅文著」、篠崎央子「未来への希望で溢れていた少女たちの、戦争の物語『女の子たち風船爆弾をつくる』小林エリカ著」、坂本宮尾「私にとっての戦争/旧満州からの戦後の引揚」、宮崎斗士「何乗しても」、柳元佑太「『物語』から『痕跡』へ」。もう一つの特集は「序文~言祝ぎの言葉」、総論は筑紫磐井「進むべき俳句の道―-虚子は序文にどう臨んだか」など。その中で、永田浩三は、 (前略) 今回『原爆と俳句』を著すにあたって、明らかにしたいことがありました。それは戦争時代の「前衛俳句」との連続性です。渡邊白泉、西東三鬼といった稀代の才能が、治安維持法などによって、一時は沈黙を強いられます。そして戦後、桑原武夫は「第二芸術論」のなかで、俳句はもはや現代社会を描く詩の器ではないと酷評しました。俳句に原爆など詠めるわけはないとも言いました。  いや、そんなことはない。かつて弾圧の対象となった「京大俳句」に参加した俳人たちは、『句集広島』『句集長崎』の中でリベンジを果たします。    広島や卵食ふとき口ひらく       西東三鬼    ひろしや死の影見よとマッチ擦る   仁科海之介  戦争の時代に、戦争の悲惨に向き合おうとした精神は、原爆を相手にするその時その真価が発揮されました。研ぎ澄まされた目で見つめ、言葉をつむぐ、その崇高な営為に頭を垂れ、涙が流れます。  と記している。また、筑紫磐井は、その結びに、  (前略) 序文とは、単に人や作品を紹介するものではなく、進むべき俳句の道―-俳句の理想を語るものであるべきなのだ。  とあった。ともあれ、本誌本号から、いくつかの句を挙げておこう。    島流しめいて沖まで施餓鬼舟            三村純也    春昼の地下鉄パリに行きさうな          すずき巴里    なにもかもなくした手に四まいの爆死証明    松尾あつゆき    バス停にバスの停まらぬ星祭            矢野玲奈    また眠る 朴の...

大井恒行「オオウミウマ乗るは弥勒の心映え」(「俳句四季」8月号より)・・

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                     16句「声のない番犬ーヒデキ・スエモリに捧げるー」↑  「俳句四季」8月号(東京四季出版)、特集は「なぜ、俳句をえらんだのか/私が俳句を選んだ理由」。リードに、 「『短歌や詩、小説あるいは音楽や映像など様々な表現形式があるなか、ご自身が俳句という表現形式を選んだ理由、俳句だからこそ表現できる、できた、と思うことについて自由にお書きください。」 というテーマで9人の執筆陣に書いていただいた」とある。その執筆陣は、石原ユキオ「俳句の辺境に住んでささやかに抵抗する」、岩田奎「円盤や棒を手に」、小川楓子「ヒップでホップな俳句」、小野裕三「完成と切迫性」、樫本由貴「以外なく」、関灯之介「身体性俳句論序説」、高崎公久「『蘭』へ入会のこと」、長島衣伊子「ひとすじに」、中村安伸「俳句というかたち」。愚生は、16句「声のない番犬に捧げるーヒデキ・スエモリに捧げるー」を寄稿した。ともあれ、以下に本誌、本号より、いくつかの句を挙げておきたい。    かげろうの蛇生 (あ) れており砂漠の汀 (みぎわ) 大井恒行   短夜のずいぶん奥で牛が鳴く            中内亮玄    歌ひつつ歩けど遠し芒原              森賀まり     海底に眠る青蚊帳潜る夜は            駒木根淳子    粛々と家族は減りぬ畳替              谷 雄介    目に前に白鳥はるかにオスプレイ          松下カロ    塔 (あららぎ) も廃船 (すてられぶね) も恒 (いつまでも)                           柳元佑太    急カーブとなればなるほどふつふつと曲りて嬉し曲がらねば死ぬ   髙良真実    大枯野生命あるもの眠らせて           吉田千嘉子    二万人踊り抜けたる大路かな          大和田アルミ    踏切の←も→も来て日永             斎藤よひら    赤とんぼ夕暮はまだ先のこと            星野高士    米寿の師へ白詰草の冠を              石川春兎    青き蚊帳月光満ちて泳ぎけり            浅井愼平   ぎちぎちの円座の涼しがらんどう          花谷 清    知らぬ子の声日乳張る青嵐      ...

望月哲士「向日葵の太陽黒きウクライナ」(『望』)・・・

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 望月哲士句集『望』(私家版)、その「はじめに」に、  入社した四月すぐに無理矢理句会に誘われて始めた俳句を退社f後は趣味として続けることになりました。今ではボケの進行を多少なりとも遅らせてもらえているのは俳句のお蔭と有難く思っています。 (中略)   なかなか思うような俳句は出来ないのですが、残された時間を考えますとそろそろ区切りをつけなければならないと思い、とりあえず遊び心で100句まとめてみました。   俳句は自ら注釈しますと余情を消すばかりでなく、作品の世界を縮めるという弊がありますが、この句集を手にして戴ける半分の方は俳句と無縁の方ですので、敢えて簡単な自注を付させて戴いております。  とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。     □齢を感じるこのごろ    おぼろ月減る反骨の骨密度            哲士     □何となくぼんやりとしていた昼下がり    日時計のあいまいな刻鳥帰る     □一途な努力はきっと・・・    地道という地図にない道梅ひらく     □傷心の少年に    躓き少年つつむ春夕焼     □改めて首の長さにビックリ   時折はキリンが食べる春の雲     □甘い話には・・・    緑陰や罠かもしれぬ椅子ひとつ     □ただでさえ暑いのに    炎昼や一心不乱に間違える     □少年の頃は宝と思っていたものも    抽斗の虹のかけらは何時消えし     □母は庭中をコスモスにしていた    コスモスの国に分け入り身に浮力     □こちらから海鼠に訊きたい    海鼠から訊かれて困る死生観     □まだ生きて年を越せる安堵感    天鬼暮に我が名未だなし晦日蕎麦     □しんしんと降る雪に皆それぞれの思いが    皆別のものを見てをり雪の奥  望月哲士(本名 望月謙一) 1938年11月生まれ。     撮影・中西ひろ美「なにもせずなにも願わず暑さかな」↑

髙橋比呂子「ねむらさきそのさき消してはならぬ」(「LOTUS」第55号より)・・

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高橋比呂子を送る「追悼句」↑  「LOTUS」第55号(LOTUSの会)、特集は、先般亡くなられた「豈」同人でもあった「高橋比呂子追悼」。その扉に、 LOTUS同人高橋比呂子(本名 碩子・ひろこ)は/去る令和六年一一月二二日逝去いたしました/ここに生前 俳句有縁の方々から賜りましたご厚情にお礼も申し上げます/深く冥福を祈りたいと思います          合掌 LOTUS発行人   髙橋さんは一九四七年(昭和二二年)青森県野内村(現・青森市)生/共立薬科大学卒 薬剤師/一九七一年頃から句作を始める 「十和田」「紫」「吟遊」を経て一九九三年「豈」入会また「未定」同人/「LOTUS」には第三〇号(平成二七年・ニ〇一五・四)より参加/句集に『アマテラス』『ふらくたる』『風と楕円』『つがるからつゆいり』『風果』があり 他に共著数冊  とある。記事は【高橋比呂子の俳句空間」として、酒巻英一郎「高橋比呂子百五十句撰」、また、無時空映「編集後記」には、古田嘉彦「高橋比呂子追悼」、三上泉「『まだ見ぬ世界への憧れ』高橋比呂子句集『風果』より」、無時空映「高橋比呂子の十六音」、三枝桂子「おーるすぱいすなみみょうりうけたまわり―ー『つがるからついり』の愉悦」、その他一句鑑賞など。また無時空映の「編集後記」には、  LOTUS54号は同人、奥山人の追悼号でもあった。今回の55号を発行するまでに、三枝桂子、九堂夜想、志賀康が退会し、その間に髙橋比呂子が逝去した。  とあった。愚生にとっては、昨年「秋田魁新報」に書いた高橋比呂子句集『風果』で喜んでいただいたのが最後になってしまった。哀悼!ともあれ、以下に本号より、いくつかの句を挙げておきたい。   うつぼぐさうつらうつらと春を漕ぐ       丑丸敬史    生類の記憶にかすか砂の月           表健太郎    森の奥水物語生まれそむ            熊谷陽一       眞夜にして   氣儘頭巾を   被りたる                  酒巻英一郎    氷柱の水を奏でておりしかな          曾根 毅    「あなたがたはこの世に属していません。」という    主イエスの言葉によって自由になる。もとよりこ    の世に適するようには作られなかった私だが。    トンボに似ていた頃の独り言全部      ...

杉本青三郎「滝音のはばたきやすい月あかり」(第71回「ことごと句会」)・・

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  7月19日(土)は、第71回「ことごと句会」(於:ルノアール新宿区役所横店)だった。以下に一人一句を挙げておこう。兼題は「転」。    見つからぬラップの切れ目初鰹        石原友夫    滴りになるにしくなくふくれゆく      杉本青三郎    問診表「転びやすい」に〇はせず       渡辺信子    蛇口から答弁らしき夏の水          江良純雄    父の日や懐中時計の蓋開く          武藤 幹    沈黙の猫の丸みにして端居         春風亭昇吉    ひまわりは怒りの顔をしていない       村上直樹    真夏日へ転がりおちてゆく指紋        林ひとみ    水切りのいちにっさんしごろくしち      金田一剛    老いてなお突っ走るひと雲の峰        杦森松一    揺らぐ世の振り向きざまに遠花火       渡邉樹音    躓くも転んでもこの夏が好き         照井三余    転轍機鉄路人無き夏の昼           大井恒行    ★閑話休題・・森澤程「隧道の無明角出す角出す蛞蝓」(「~ちょっと立ちどまって~」)・・ 「~ちょっと立ちどまって~」は、森澤程、津髙里永子の月に一度の「ハガキつうしん」。   冷房をとめる未来へ眠るため       津髙里永子       撮影・芽夢野うのき「魂飛ばす木槿の風にのせとばす」↑

藤田博「不戦充ち非戦となれや天の川」(『甲斐連山』)・・

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   藤田博句集『甲斐連山』(コールサック社)、解説に鈴木光影「天に続く郷土俳句は詩と俳句の境界を超えてゆく―藤田博句集『甲斐連山』に寄せて」、それには、   藤田博は山梨県甲府市に暮らし、これまで六冊の詩集と二冊の著作集を刊行してきた詩人である。本書は氏の第一句集だ。 (中略)   「俳句」というと、伝統的な師系を継ぐ師匠が主宰する結社の下で研鑽を積んだ、いわゆる「専門俳人」によって作られ、それを纏めたものが「句集」になると思われがちであるが、必ずしもしれだけではない。藤田氏のような詩人や俳句以外の表現者たち、いわゆる「専門外」の日人々によって愛好され作られる俳句、そしてそれを纏めた句集の成立過程も確かに存在してきた。 (中略 )そもそも俳句は、詩や文学の一部であり、同時に他の表現者をも内包した大衆のためのものである。師系や結社から生まれる俳句のあり方と、その範疇に収まらない多様な俳句のあり方が共存していることこそ、万人に開かれた俳句らしさなのである。   とあり、著者「あとがき」の中には、 (前略) 多様な連山に囲まれ、飯田蛇笏・飯田龍太を育んだ甲府盆地は、「声音 (せいおん) 」の海である。盆地の四季というめくるめく光と濃やかな且つ躍動感にっみちあふれた陰影に支えられながら。  俳句には「句会」という一つの王道がある。私はその王道を長らく外れてきたことを恥じる、ただ甲府盆地やその他の地での孤独な句作の歩みが、文学hさ「微力」ではあるが、決して「無力」ではないことのささやかな一助になっていればと願うばかりである。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。   人類の標 (しるべ) の廃炉燕来る           博    鯉のぼり峡 (かい) また峡に翻り   老梅の整ふ甘雨ありにけり   大和にもニライカナイや花木蓮   滴りて地下の奈落やティンダバナ   とぢひらく雨のとばりを燕かな   甲斐の根をつかみはなさず桃の花   土に目となりてゐたるや雨蛙   道造のみづいろのペン七月来   忘れ物取りにこの世に雲の峰   真間川を渡る登四郎梨熟るる   あたたかき冬木の影をたまはりぬ   ここへ散り込むここを諾ふ花の塵   一滴に散る木蓮もありぬべし      藤田博(ふじた・ひろむ) 1950年、山梨...

高野芳一「タクトなき協奏曲や蝉時雨」(第43回「きすげ句会」)・・

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   7月17日(木)は、第43回「きすげ句会」(於:府中市中央文化センター)だった。句会終了後は府中駅そばの福泰飯店に場所を移して、愚生の『水月伝』の第80回現代俳句協会賞受賞祝賀会を開いてくれた(ありがとう!!)。  ともあれ、以下に一人一句を以下に挙げておこう。    風死してはびこる草の息荒し          中田統子    歳月を抱き泰山木の伐られたる         山川桂子    酔ひ覚めの花火果つるや月ひとつ        新宅秀則    南無 阿弥陀仏日傘の中の炎暑かな       高野芳一    空蝉や背を裂き生命はい出づる         井上芳子    鳴きつづく命の魔法八日目の蝉        久保田和代    帽子にね蟬とまったよ山頭火          寺地千穂    法螺貝の野山震はせ梅雨明けぬ         濱 筆治    「沖縄へ!」ソーメンチャンプル糸となれ     井谷泰彦    カナカナカナ去にしひとの名告げる蟬      清水正之    夏草に光る宝石通り雨            大庭久美子    蝉時雨玉音の声テレビなり           杦森松一            いささかに蹌踉 (よろ) めく夏の自画像や    大井恒行  次回は、8月28日(木)、於:府中市生涯学習センター。兼題は「昭和」。           撮影・鈴木純一「選択肢ばかりが並ぶ光秀忌」↑

谷口智行「異界とは医界のことよはたた神」(『俳句の深層』)・・

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 谷口智行評論集『俳句の深層』(邑書林)、帯文に、  俳人協会賞受賞記念出版/しみじみと、ひたすらに、  光を発することのない海と山は夜空よりも黒い。それらが身ほとりに横たわっていれば、片闇を成していれば、その気配が体に馴染み、心が救われるのである。〈本文より〉  とあり、背には、「 俳句の奥処に潜むものを求めて 」とあった。その「自序にかえて 覚悟」には、  (前略) 「運河」は昭和三十一年、右城暮石先生によって創刊された。師系は松瀬靑々・山口誓子。結社の理念は、     季語の現場に立ち、外淡内滋、多作多捨を心がける  である。外淡内滋とは、表現は平明に、内容は深くということ。「滋」には潤う・育つ・深めるという意味がある。  暮石先生は創刊の言葉として、     運河は至極自由な集まりである。作品は各者各態であってよい。 と記している。暮石先生は青々から「自然鑚仰」の心を学び、弟子たちに「自然の他に何がありますか」と問うた。人間も自然の一単位でしかないという謙虚な教えである。 また、「あとがき」には、  (前略) そう、僕は悲しみと引き換えに書いている。畏れと魅惑、忘却と好奇心が綯い交ぜになった絶望的な悲しみと引き換えに。渾身に書き、喪い、損なわれ、途方に暮れる。  何からも慰められることはない。 『俳句の深層』は、ここ五年間の「運河」、総合誌、医師会雑誌などに書いたものを分類し、改稿した上で、まとめたものである。  俳句の地続きではない。俳句の深層である。  深層には、広大無辺の空洞、あるいは組み尽くすことのいできない無量の地底湖がある。そんな気がする。   とあった。ともあれ、本書中に引用された句を以下にいくつか挙げておこう。    海昇り来し太陽が熊野灼く         右城暮石   誓子忌に仰いでいたる山の星        茨木和生    鰹来る暮石和生の見し沖に         谷口智行    茶粥炊く丹波みやげの新米で        田中恵子    鱧の笛食べて先生思ひけり         冨田美子    骨軽く歯に当りたる鱧の膳         延永和枝    病む人に少しふくませ西瓜汁        安田徳子    砂浜に砂のとび来る盆踊          浅井陽子    その中の白衣も遺品熊楠忌         小畑晴子    土葬墓...

妹尾健太郎「スメナリ語伝ことさら鹹い夏の海」(『羽沖抄』)・・

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  妹尾健太郎句集『羽沖抄』(暁光堂)、著者の「後記」に、   句集名の「羽沖 (ハネオキ)」 は私の俳号であり、SNS上のハンドルネームでもあります。  私の句作には今世紀最初の十数年中断があり、ざっくり羽沖以前と羽沖以後に分かれます。本句集には羽沖以後の句を主体に二百八句を収めました。製作年の順序は不同で、四季および新年と無季の六章に分けています。    秋蝶の自覚をもって恥さらす  雑味の多さは自覚するところです。格低く駄洒落風味の句も自選して憚らないところがそのまま私らしさです。  口語と文語の混在、また仮名遣いの不統一についての自覚もあります。これは時を隔てた一句ずつが無理に規制し合わないことを優先した結果と云うしかありません。その時々において口語も文語も私には必要で、仮名遣いの新旧についても都度一句に相応しい方を選びたいと思うからです。  とあった。巻末には、けっこう詳しい年譜が付されている(羽沖の来し方が窺える)。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、くつかの句を挙げておこう。   火を水の瞼にこぼす青鞋忌           健太郎(羽沖)    春の影あなたのクローゼットからあなた    インキ壺よりも陽気な磯巾着   浮き物の金魚の開きたる両目   よひらよひらよひらくべくしてこのよ   海進の死する兆しの旱星   建て捨ての寺につくつく法師かな   いつもそう帰燕と思う消えてから   川底を流るる影の紅葉かな   声のする方に子居らず秋の暮   ほんものの水かなこんなにも澄んで   名づけずにわれからくらい漂わせよ   男瓦を乗せめがわらら冬うらら   そう呼ばれたくない時も冬薔薇   隕石の跳ね弾む橋閒石忌   まるまってみたいと思う氷柱かな   水鳥のことは水のみ知るところ   猿曳が曲り二匹の猿曲がる   風神が裸足でなくてどうします  妹尾健太郎(せのお・けんたろう) 1960年、岡山市生まれ。         撮影・中西ひろ美「朝市の小銭涼しき音こぼす」↑

山口昭男「片蔭に吸ひつくやうに歩みゆく」(俳句日記『花信草信』)・・

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  山口昭男著・俳句日記2024 『花信草信』(ふらんす堂)、その「あとがき」に、  この俳句日記をはじめるにあたって、いくつかのことを課してみることにした。  まず、俳句作品について。 ●虚子編の『新歳時記』(三省堂)に沿って季語を選び、なるべく重複しないようにする。 (中略)  次に、添える文章について。 ●子供時代や社会人になってからの体験や経験を書く。 ●爽波の言葉、裕明の言葉を書く。 (中略) ということで、一年間進めた。  俳句作品について、選んだ季語が難しかったり、その季語で作っても納得がいかない句になってしまったりと、立ち止まってしまうことが多々あった。それでも、忌日の季語を含めて新しい季語に挑戦できたことは一つの成果だろう。  文章については、どこまで踏み込んで書けばよいのかと迷いながらの一年であった。ただ爽波、裕明の言葉の重みを改めて感じることができ、日記に記すことができてよかったと思っている。  とあった。本書のなかの一例を抽いておくと、 十二月十七日(火)                【季語=冬の蠅】 〈天界の俄かに近し帰り花〉という小山田真里子の句を裕明は次のように評している。「『天界の俄かに近し」という十二文字と、『帰り花』という季語とは、イメージとして、それほど離れていんさいと思います。(略)季語が一句の中できっちりはまっていて、季語の働きに文句のつけようのない句です」(二〇〇五年「ゆう」一月号)。イメージが離れていない。心しておきたいことだ。 とあった。ともあれ、本書より、句のみになるが、愚生好みにいくつか挙げておきたい。    雨垂のつながつてゆく歌留多かな         昭男    鶴凍てて白紙のような水たまり    すすみゆく畦火に意志の生まれたる   春月や口づけ鹹いではないか   白濁の青年歩む花の昼   この花を現の証拠と言はれても   この鯰水が軽いと言うてをり   摺りおろす山葵真緑茅舎の忌    走行 (そうあん) や雲つぎつぎに影落とす   囲まれて菊人形は人を見る   時雨るるや煙草の箱に駱駝の絵   初雪のまことに空のにほひかな   新聞のチラシを歩く冬の蠅   むらさきに暮れてゆきけり裕明忌  山口昭男(やまぐち・あきお) 1955年神戸生まれ。            撮影・鈴...

井口時男「天皇(すめろぎ)老いし日や襯衣(シャツ)の襟垢染みぬ」(『近代俳句の初志』より)・・

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    井口時男評論集『近代の初志/子規から新興俳句・震災俳句・沖縄俳句まで)』(コールサック社)、その「あとがき」の中に、   俳句の道に足を踏み入れて十数年。『金子兜太 俳句を生きた表現者』につづく俳句評論集の二冊目である。子規から今日にまで至る近代俳句表現史の素描だ。  俳句にひどく遅参した身だからあちこち知識の「穴」が開いているだろう。だが、木の本数のみ数える「内側」の目には見えない森や山の形態―—危ない岐道や稜線や谷の位置、難所や崩れの所在等々―-はかなり明瞭に見えているだろう、とも思う。  本書での私の主張をキャッチフレーズ風にまとめておけば以下の通りだ。  虚子も碧梧桐もまちがった。「非空非実の大文学」という子規の「初志」を継承したのは昭和の新興俳句だった。  俳句は「雑 (ザツ) の詩」である。ゆえに、対象やテーマを狭く限定してはんさらない。森羅万象、人事百般、思想観念、喜怒哀楽の一切が俳句の対象。「花鳥」も「社会性」も言葉遊びも述志も、みんな雑の一つにすぎない。これこそ「俳諧自由」の精神である。  とあった。興味を持たれた方は、、是非、触接、本書を手に取って頂きたい。「 Ⅱ近代俳句史の陥穽--写生説ををめぐって 子規・碧梧桐・虚子 」の章の「 〇子規はただの『写生』ではなかった 」の部分を抽いておこう。 (前略 )「写生」の究極が実景の精細な再現描写だとすれば、むしろ俳句ほど「写生」に向かない詩形はないのである。だから、短すぎる俳句は、多様な風景の中から対象を限定し、他の一切は捨ててそれだけを抽出し、抽出したものを小さい定型の枠の中で組み合わせる、というやり方をとるしかない。つまり事実そのままを離れて、言語秩序としての作品世界を「虚構」し「構成」するしかない。それが、事実(現実)と異なる位相に作り出される「詩的現実」というものだ。  そもそも、子規が「写生」を主張したのは、あくまで、和歌俳諧の手垢の染みた出来合いの自然イメ―ジを打破して、新たな発見をするための手段としてだった。現実べったりの「写生」が彼の目的(理想)だったわけではない。  現に、奈良を巡って帰京した子規は本格的な俳句近代化論『俳諧大要』を書き出すのだが、そこでは俳句学習を三段階に分けて、最終三段階目にこう書いている。 「空想と写実を合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべ...

永井陽子「ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり」(『永井陽子歌集#(シャープ)』)・・

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 石川美南編『永井陽子歌集 #(シャープ)』(短歌研究文庫)、石川美南「編集ノート #」の中に、   歌人・永井陽子初めての文庫として,『永井陽子歌集 #(シャープ)』と『永井陽子歌集 ♭(ふらっと)』を二冊同時にお届けする。     「♯」には、歌集『モーツアルトの電話帳』(一九九三)を完本収録したほか、歌集『なよたけ拾遺』(一九七八)、歌集『樟の木のうた』(一九八三)、歌集『ふしぎな楽器』(一九八六)を抄録した。「♭」には、歌集『てまり唄』(一九九五)を完本収録したほか、遺歌集『小さなヴァイオリンが欲しくて』(二〇〇〇)。句歌集『葦牙』(一九七三)を抄録し、略年譜を付した。 (中略)    なお、    たれを想ひそむるにあらず落陽をこばみ一瞬まばゆき稲穂  については、元の歌集・全歌集では「落陽」が「落葉」となっていたが、校了間近のタイミングで、加藤隆枝さんより重要なご指摘をいただいた。なんと加藤さんの手元には永井陽子自身が鉛筆で書き込みを入れた『なよたけ拾遺』があり、そこでは「葉」が「陽」に訂正されていたのである。私は、上から散りかかってくる落葉に対抗する稲穂の歌かと思っていたが、改めて読むと、陽が落ちるのを拒んで光を放つと取ったほうがしっくりくる。本書では「陽」を採用することとした。 (中略)  あとがきに、「三十一音の短歌形式は、実にふしぎな楽器である。(中略)できることなら、この楽器の持ついちばん自然で美しい音を奏でてみたいと思う」とある。ごく初期から知雨いう傾向はあったが、『ふしぎな楽器』では、音楽との親和性がより高められている。 (中略)  本書から読み始めた方は、ぜひ「♭」も手に取っていただきたい。そして、永井陽子の歌業の全貌を知りたくなったら『永井陽子全歌集』(青幻舎)を読んでいただきたいと思う。  とあった。ともあれ、以下に、本集より、いくつかの歌を挙げておこう。   あまでうすあまでうすとぞ打ち鳴らす豊後 (ぶんご) の秋はおほ瑠璃 (るり) の鐘  新しい赤い更紗 (さらさ) のスカートをひるがへす風ども無作法  宇宙へと口のみ開けてたれさがりてんでだらしのないこひのぼり  十人殺せば深まるみどり百人殺せばしたたるみどり安土のみどり  つばさ持つものかもしれぬに馬はみな〈馬〉の活字に閉ぢ込められて  をとこよもぎ男葡萄に男郎花( ...