三枝昂之「檄詩一首 桜にわずかおくれつつ咲きたり誰の肩に散らむや」(「歌壇」8月号より)・・
「歌壇」8月号(本阿弥書店)、【愚生注:昂之氏の名前の正しい漢字が愚生のパソコンでは出ません「昂」で失礼させていただきます】。特集は「歌人たちはどう戦争を詠んだか」。ここでは、公開講座・講演録「協会賞歌集を読み返す3 ~いい短歌とかなんだろう? 歌人・歌集・時代/第二回 三枝昂之『水の覇権』・髙良真実/三枝昂之/司会・鶴田伊津」を少しだが、紹介したい。当然ながら、引用にも無理があるので、直接、本紙に当って、その全文を読んでいただきたい。
(前略)髙良 この時期に篠弘さんが「微視的観念の小世界」ということを言います。それに対するカウンターとして鼓舞するような歌が七九年の「アルカディア」創刊号で語られていて、そういった歌を追い求める気持ちと「われわれ」の歌を求める気持ちは少し重なってくるかと思うのですが、「アルカディア」の座談会で、「ファシズムに陥らずにどうやってこれを実現するかが僕たちの課題だ」と語られていました。三枝さん自身はどういったかたちでそれを回避されようとしたんでしょうか。
三枝 難しいけれど大切な問いですね。ファシズムがあって、軍国主義があって、昭和の前期には政治的には非常にマイナーなキーワードがある。「われわれ」というのはある意味では非常に危ないカードであると心得ていた方がいい。けれど長いスパンで短歌をみると、あまりに古いことを言うとおかしいと思うかもしれないけれど、イザナミとイザナギの成婚の儀式、「あなにやし、「えをとめを」「えをとこを」という対話詩、それから「あめつつちどりましとなどさけるとめ」という片歌の問答などの発端があって、一人が問い一人が答えるという短歌の形式が生まれる。その短歌の構造的な特徴のなかには誰かと対話するという根っこが痕跡として残っているから例えば上の句と下の句という構造、どうして五七五七七で分れるか。そういう構造的なことを考えると短歌はどこかで他の人、他の世界との対話の要素を根底に持っていて、その要素は人を愛でる、国や山河を愛でるということにも繋がっていく。(中略)それが歌の一番基本にある要素だと。こういうことは近代以降では忘れられていて、短歌の一三〇〇年のなかではそういう要素も自我の詩とか前衛短歌と横並びでちゃんと評価しておかなければいけないと思った。ファシズムや軍国主義という昭和の蹉跌を意識しておいくことは大切ですが、一方で「われわれ」とうものを大切にするという観点を抑えておくのはもったいない。自分がいて、家族がいて、風土を共有する人々がいて、その総体としての「われわれ」がいる。国、国家というよりも自分の土壌となった「くに」、よくいわれることですがネイションよりパトリ、そういう重層性を愛でることも短歌の大きな役割のひとつではないかと思っています。
とあった。他にシリーズで「小池光インタビュー⑦/言葉とことばの出会い―ー小池光戦後短歌史/聞きて・寺井龍哉」があり、「第22回 筑紫歌壇賞決定発表」等がある。
ともあれ、本誌本号より、いくつかの作品を挙げておこう。
高野老は出不精(でぶしやう)なれば一年に三百五十回家飲(いへの)みす 高野公彦
薯畑いちめん紫の花あふれ黄なるてふてふ乱舞してゐたり 時田則雄
にんげんはおそろしいから額縁のなかにゐるべし恐ろしきまま 川野里子
わが父の戦争われは知らぬまま 机上の小さき鍵よ 江戸 雪
英雄といへどシュワブは二十四にて戦死したりき基地に名を残し 栗木京子
降り注ぐ爆弾と焼夷弾の違い判然とせず読み進む「東京大空襲」 花山周子
爆音を浴びし身体(からだ)は紙のごとあゆみゆくなり嘉手納(かでな)の昼を
吉川宏志
皆殺しの〈皆〉に女はふくまれず生かされてまた紫陽花となる 大森静佳
出征する青年が描(か)きし新妻のからだ 目をつむる半永遠の皮膚 米川千嘉子
六月八日(日)
記憶にはふたつがありて思ひ出となれる記憶は良きはうのもの 永田和宏
目薬のしづくをふかくたたへたる近江遠江(あふみとほたうみ)ふたつのまなこ
小池 光
この紙は戦のたびに増えてきた今でも記者を「ヘイタイ」と呼ぶ 加古 陽
愛憎のの極みに震へ接吻とともに「ラビ(主よ)安かれ」とささやく 江畑 實
夏の光と夏の水滴(おおあくび)真昼の夢の鳥放たれる 東 直子
首都は驟雨 射手にならざる星々のさびしきながき伝令も零る 三枝昂之
「引つ越し」のサカイ」止まれり裏の家の木々のみどりに透ける向かうに 鶴岡美代子
見えざりし右目が明るく見え来ると右眼の耳が聞きし喜び 馬渕礼子
撮影・中西ひろ美「ドリアンの笑いと怒りもう晩夏」↑
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