投稿

5月, 2023の投稿を表示しています

金子敦「虹の根をこれから掘りにゆくところ」(『金子敦句集』)・・・

イメージ
  現代俳句文庫88『金子敦句集』(ふらんす堂)、解説は杉山久子「新しい音楽」、仲寒蟬「美しい猫」。杉山久子は、その結びに、   最後に、敦句の新しい展開を予感させる、痛みと救いを思わせる静謐で美しいこの句を。   鉄条網ひとつひとつの棘に雪  これから生まれる新しい音楽を楽しみにしている。  とあり、また、著者「あとがき」には、   初めて俳句を詠んだのは小学五年生の国語の授業の時。教室の後方の棚に鳳仙花の鉢植が置かれていた。「ほうせんか花が咲いてもまだ伸びる」という句を出したところ、担任教師からお褒めの言葉を頂いた。「金子君は、毎日よく花を観察していますね。じっくり観察するのは、俳句を詠む上でとても大切なことです。」と言われて感激した!この言葉が無ければ、俳句とは全く無縁だったかもしれない。不思議なものである。  とあった。そして、エッセイ「ターニングポイント」の中に、   幼い頃から虚弱体質だった僕は、夏の暑さが極端に苦手で、毎年夏になると体調を崩していた。二十代前半の頃、ことさら酷い夏ばての為、食欲が全く失せてしまったことがある。食べなければ快復出来ないと思いつつつ無理に食べると、激しい吐き気に襲われてしまう。固形物を全く胃が受け付けないので、温めた牛乳に柔らかいパンを浸して、ほんの少しずつ口の中へ流し込むという食事を続けていた。 (中略)   その瞬間、暗闇の中にぱっと光が差し込むように、言葉の断片が頭の中に浮かんだ。僕は即座に手元の新聞の僅かな余白にその言葉を書き留めた。   五月雨やホットミルクの淡き膜     (中略) とても不思議なことだが、毎日俳句を詠むようになってから体調も少しずつ回復して、固形物も食べられるようになったのである。 (中略)   夕立の匂ひのしたる葉書かな  この句を書き留めた瞬間、それまでは固く閉じていた蕾が、いきなりぱっと開花したような感じがした。単なる写生ではなく、それに抒情を加えた句が詠みたかったのだということに気付いた。 (中略)   星釣に行かむ白露のみづうみに  この句が頭に浮かんだ瞬間、静まり返っていた夜空に、大きな打ち上げ花火が色鮮やかに広がったような思いがした。それは、俳句というジャンルであっても、メルヘンやファンタジーの世界を詠むことが出来ることを確信したからである。従来の古臭い俳句観からやっと解き放たれた

松本余一「陽炎より銀輪歪みやつて来る」(『懺悔室』)・・

イメージ
 松本余一第4句集『懺悔室』(俳句アトラス)、跋文は林誠司「覚悟の詩」、その中に、   昨今、私は、俳句の“多層性“に注目している。人生がそうであるように、俳句を作る時も、嬉しいだけ、悲しいだけだったりすることは稀なのである。嬉しさと切なさの交差、希望と不安の交差、強気と弱気の交差などなど…。その交差が詩情を大きく深くする。余一さんが本音で吐露する作品は生きていく上でのさまざまな感情が一句の中で交差している。私の先師・角川源義先生は俳句に“陰陽の転換“を求め、これを“もどき“と定義した。「二句一章の方法は、陰中陽を求め、明中暗を探るものであり、相反する性格が結ばれて一章の俳句に結晶するところに意味があり、俳諧の転生があるはずだと思う。こうした人生諷詠の道こそ、救いが見出されるわけである。」(角川源義「これからの俳句」)。余一さんはこれらの方法を風狂の姿勢で会得している。 とあった。また、著者「あとがき」には、   俳句は明るく仕上げる方がよい。みじめな暗い句より狂喜の方が楽しい。しかし、私は前向きに、あるいは楽しい人生を目標に、「生きていてよかったと思える老後」のために、生きて来たのでは決してない。選ぶ余地のない、仕方のない、そしてぎりぎりのところを生きてきた、と言ったほうが当たっている。 とある。集名に因む句は、    懺悔室ここまで来れば秋風やむ       余一 であろう。ともあれ、集中より、いくつかの句を挙げておきたい。    しやぼん玉百も吹き出す日のひかり       長生きは神の凄業春のどか   緑さす信号待ちのスクワット   さくらんぼ口の中では暗すぎる   生きてゐる人だけ乗せる蓮見舟   からだから抜け出た手足阿波をどり   朝顔のきれいなままの蔓伸ばす   ホバリング出来る雀や暮の秋   人去れば道消えてゆく芒原   貰つてと言はれ鳴きだすちちろ虫   逝くが怖きか吾も付きあふ冬の旅   雪吊を見に来る星の集まりぬ      松本余一(まつもと・よいち) 昭和14年、東京都小金井市生まれ。 ★閑話休題・・河口聖・樋口慶子展「Prelude—未生の絵画ー」・・  川口聖・樋口家慶子展「Preludeー未生の絵画ー」(於:ギャラリー絵夢)、5月31日(水)まで(最終日は17時まで)。ギャラリー絵夢は、新宿駅中央口徒歩3分、地下鉄新宿三丁目A1・A5

小川晴子「来し方に忘れ物あり春惜しむ」(『榾明り』)・・

イメージ
 小川晴子第4句集『榾明り』(角川書店)、帯文は寺井谷子。それには、    母の文読む祖母正座榾明り  小川晴子さんに初めてお目に掛かった時、その笑顔に見惚れた。「笑」という字には「花が咲く」の意があるが、誠に鮮やかにそのことを実感させられた。眼前に咲く花は向き合った者を幸せにする。それでいて凛としている。「俳句の家」に生まれ、俳句と共に歩く――なかなかに容易ではない、と似た環境で育った私には「前略」の感覚で伝わる。  『榾明り』はその覚悟と自負と、注がれた豊かな愛への感謝を照らし続ける。 とある。また、「あとがき」の中には、  私は一九四六年一月一三日に俳人の御園生岬風先生のお世話になり、美しく晴れた夜明けに生まれました。晴子と名づけてくれたのは祖母です。その年の四月に成城の人間国宝・富本憲吉さんのお宅から出た時に祖母が詠んだ句が〈外にも出よ触るゝばかりに春の月〉だったといいます。毎年「せたがや梅まつり」が開催される羽根木公園にはその句碑があり、梅まつりは本年で四十四回目を迎えました。毎年の俳句講習会を汀女、濤美子、私と受け継いで参りました。 (中略)   二〇一七年夏に母が急病で倒れてから、結社の進むべき道を模索しながら「One for  oll  All  for  one」の精神で只管 (ひたすら) に前のみを見て参りました。  とあった。 愚生は、もう十数年前のことになろうか、母君の小川濤美子のご自宅で中村汀女についてのインタたビューをしたことがある。その折、「風花」発行所とご自宅を間違え(確かに、ごく近所だけれど、たどり着く路地の道筋がちがう?)一時間以上遅く参上することにハメなり、当然ながら、ご立腹だった。そこは、ひら謝り。それでも、予定の時間をはるかにオーバーして様々な世間話もうかがうことができ、帰りには、中村汀女全句集をお土産にいただいた。実にさっぱりした気持ちのいい魅力的、素敵な方という印象だった。その母・濤美子を詠んだ悼句がある(『今日の花』所収)。      四月二十日、母濤美子逝く、享年九十三     ありがたうあなたの娘で夜半の春     小川晴子   ともあれ、愚生好みに偏するが、以下に本集より、いくつかの句を挙げておこう。    五年日記の三年真白の初日記   薄氷も川原の石も光りをり   傘福てふ幸をあまねくつるし雛   後の月みな

ニコライ「遠い戦争/蚤の市に/針一本の時計」(『俳句が伝える戦時下のロシア』)・・

イメージ
 馬場朝子編訳『俳句が伝える戦時下のロシア―ーロシア市民、8人へのインタビュー』(現代書館)、馬場朝子の「はじめに」に、   二〇二二年二月二十四日、ロシアが突然ウクライナに侵攻、戦争がはじまりました。長年、ソ連・ロシアと関わってきた私にとって、思いもよらないことでした。 (中略)  ロシアで俳句?  意外かもしれませんが、実はソ連時代から俳句は親しまれています。五、七、五の世界最短の定型詩は、一九三五年、ソ連時代に「おくのほそ道」が翻訳され、学校で俳句が教えられることもありました。 (中略)  二〇二二年夏から秋にかけて行ったインタビューは、大変微妙なものでした。ロシアでは侵攻後、新しい法律ができ、たとえば、ウクライナへの侵攻を「戦争」と呼ぶことも禁止されています。政府は今回の侵攻を「特別軍事作戦」と規定しているからです。日本からのインタビューに応えること自体、リスクを伴います。 (中略)  戦争は、攻められた国に塗炭の苦しみを与えています。一方で、侵攻した国に住むひ人びとも、その苦しみから逃れることはできません。ロシアの俳人たちの話を聞き、戦争というものの非人道性を突きつけられた思いがしました。 (中略)   ロシアのウクライナ侵攻は決して許されない、ロシアに住む普通の人たちの声、その思いが凝縮された俳句に、耳を傾けていただきたいと思います。  とある。また、アレクセイはインタビューの小見出し「情報戦争への対処法」の中で、  いまは、自分の子どもたちと散歩したり、絵を描いたり、何かためになることを書いたりして、フェイクニュースに自分のエネルギーを使わないほうがいいです。フェイクニュースに対してできることは二つの方法しかありません。それをよく調べて否定するか、それらを読まないかです。私はいま、自分の周りにある生活をできるだけ良いものにしようとしています。 (中略)  ですので、俳句は、嫌なことから気をそらすということではありませんが、ほかのものを見て、世界の変わらぬ美しさを目にするのを手助けしてくれます。たとえこの出来事の中で私たちが苦しんでいたとしても、です。  とあった。  モスクワ市内に貼られた反戦ビラ。〈ウクライナとの戦争にNOを。政治家は権力争いをし、帝国を見る。そして国境をはさむ二つの国の市民たちが苦しんでいる。〉↑  モスクワの残雪の上に書かれた「戦

伊藤伊那男「桃咲くや嫁す日も父は酒臭し」(『神保町に銀漢亭があったころ』)・・

イメージ
   堀切克洋編『神保町に銀漢亭があったころ』(北辰社)、巻末に「クラウドファンディング支援者・結社一覧」があり、執筆者などの索引も付されいる。総勢130名ほどであろうか。  巻頭、巻尾は、伊藤伊那男「亭主まえがき/『銀漢亭』閉店顛末記」と「亭主あとがき/神保町に『銀漢亭』があったころ」に堀切克洋「編者あとがき」。内容は、各人の銀漢亭にまつわる思い出話と執筆者略歴がそれぞれ付されている。その「まえがき」には、    二〇二〇年五月末で神田神保町の酒場「銀漢亭」を閉店した。二〇〇三年五月六日に閉店したので、丸十七年をこの酒場と共に歩んだことになる。私が五十三歳の時であった。 (中略)   儲けは少なかったが、私の俳句人生にとっては極めて有意義であったことになる。当初は立ち飲み屋であったが、お客に俳人仲間が増え、椅子も入った。途中からはほとんどの客が俳人という特殊な店になっていた。  とある。愚生が最初に銀漢亭に行ったときは、立ち飲みであった(今は一滴も呑まない愚生もまだ、少しは呑んでいた頃だ)。それも俳人とではない。銀漢亭のすぐ近くには、図書新聞があり、何より、洋書センターの解雇撤回闘争支援の行動で、近くの出版社や某銀行支店への抗議行動、さらには、書店労働者組合の連絡組織がまだ存在していた頃で、岩波書店の子会社・岩波ブックセンター(当時は信山社)にも、よく顔を出していた。沖積舎も近くに引っ越してきた。15年以上前のことだ。  俳人で賑わうようになった銀漢亭で覚えているのは、何かの会の帰りで、眞鍋呉夫と正木ゆう子の三人で行ったのだと思う。もちろん、主役は眞鍋呉夫である。「俳句界」の編集長だった林誠司とも行った。本書に登場するのは、殆どが俳人であるが、挨拶句がほとんど無いのは少し寂しい。よって俳句は掲載が少ない。とはいえ、さすがに伊藤伊那男のみは、「一句一菜」の各月のメニューが写真入りで句が添えられているのは花。5月のメニューは身欠鰊の山椒漬に「 山国へ身欠鰊となりて群来 (くき)」の句が添えてある。ともあれ、本書中の一人一句を挙げておきたい。   知命なほ草莽 (そうもう) の徒や麦青む    伊藤伊那男    綿虫やいろはを書いて庭の隅          片山辰巳    亀鳴くや胡麻ほつほつとがんもどき      太田うさぎ    夜焚火や傷あらぬなき漁師の手    

西谷裕子「天上へゆっくりいそぐかたつむり」(『記憶の糸』)・・・

イメージ
    西谷裕子第3句集『記憶の糸』(七月堂)、帯文は皆川燈、それには、   さびしがりやの小鬼が一匹/身のうちに小さく跨っている  ひとりぼっちに慣れたふりをして/しあわせとうそぶきながら  致死量の花びらを浴びて……/やさしさが重いのだ  からまりあった記憶の糸を/俳句という小さな器に入れて  そっとほぐしていくと/さびしさの五段活用のその先に  懐かしい故郷が見えてくる    とあり、著者「あとがき」に、  (前略) 前句集『ポレポレ』を出してから、十五年という月日が流れた。あとがきに、「今の思いを今の生きたことばで、新しい器に盛る」「一句で独立しつつも、物語の断片でもある、そんな俳句を目指したい」と記したが、それがどこまで追求できたか、はなはだ心もとない限りである。  選句にあたり、改めて時系列で読み返してみて、自分でも驚いたことがある。言葉や詠み方は違っても、根本的には同じところを堂々巡りするばかりで、そこから一歩も抜け出せていないのである。それには思い当たることがあって、ずっと持ち続けている思い、心のつぶやきを俳句に託してきたからにほかならない。まさに俳句は私の心の灯であった。 (中略)  見つからない答えを探してこれからも果てしない旅が続くに違いないが、道中の荷に新しい句帳を忍ばせて、こんどこそポレポレと歩いていこうと思う。 とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。   いとおしいもののひとつに白骨       裕子    雨の日はすみれたんぽぽ休業です   おもい 重い おもい 初雪   しあわせのいすとりげーむ鳥雲に   仮想敵水鉄砲で撃退す   あうんのあわいにあわゆき   過ぎてゆく刻に遅速や白蓮 (はちす)    つりはしをゆくきさらぎのやじろべえ   今生の息吹き入れて紙風船   薄氷を踏まねば行けぬハライソは   送り火やついに終生語らずに   了解。たったそれだけ藤は実に   海に暮色種無し柿に種のあと   秋霖のお手玉おはじき長廊下   さざんかさざんかその先に光明あるか   向日葵はおそろいがキライなのです  西谷裕子(にしたに・ひろこ) 1948年、愛知県生まれ。    撮影・芽夢野うのき「キンシバイこの世の径へよう来たと」↑

久光良一「死に方は選べない いい生き方を生きるだけ」(『泣かせ節』)・・

イメージ
    久光良一第5句集『泣かせ節』(文學の森)、著者「あとがき」に、   令和二年三月に妻が急逝しました。その時に作りかけていた第四句集は令和元年までの句をまとめたものでしたので、妻の死に関する句は載せておりません。したがってこの句集は、妻を失って一人になった男が、妻の死を乗り越えて生きてきた三年に及ぶ過程の記録ということになってしまいました。  人生いつ何がおこるかわからないということ、そして何があっても生きている限りは、しなければならないことをしながら、前に進んでゆくしかないということがわかった三年間でした。 (中略)   自由律俳句は詩の極限です。私はその極限をきわめるためにも、生きている限り詩情を持ち続けることをモットーにして、これからも探究を続けてゆくつもりです。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、以下にいくつかの句を挙げておきたい。    もう走れぬ体にあるという自由          良一    杖の音が聴きたい お帰りと言ってやりたい   何もいいことない日の天気だけやけにいい   何をしてもいい時間を何もしないで過ごす   ほどよい距離とはさびしい距離である   がんばるなと言われてもがんばらねば生きられぬ   生き上手にはなれぬがせめてなりたい死に上手   父の日は父の遺影をおがみわたしも父である   人は冗談のように逝き空晴すぎている   よく働いた骨を残して妻よお疲れさま   とりあえず靴を履こう 陽が照りだした   もういない妻の杖の音がきこえる月夜   戦争がまだそこにある父の遺影   ありあまるとおもった時間がもう足りぬ   わたしも難民だった遠い日の引揚船   戦争とは何 父の遺影が読み解けぬ   知らぬがホトケという仏になって生きている      久光良一(ひさみつ・りょういち) 1935年、朝鮮安南道安州邑生まれ。       撮影・中西ひろ美「はたた神ギンギンの近未来きたれ」↑

土屋幸代「氷りたるものをつたひて氷りけり」(「円錐」第97号)・・

イメージ
   「円錐」第97号(円錐の会)、メインは第7回円錐新鋭作品賞の発表である。他に、エッセイ「詩歌逍遥」に摂氏華氏「変容する『私』―—鴇田智哉と東日本大震災」、「省耕迂読(せいこううどく)」第2回に、山田耕司「論より証拠」、今泉康弘「キノコの詩学」第3回と「プーチンが恐れる男についての映画——『ナワリヌイ』を見て考えたこと」。その「論より証拠」の中で、山田耕司は、  (前略) 句会の恐ろしいところは、自分が面白いと思った句を「どう面白かったか」と説明しなければならないところであるともいえよう。俳句の面白さは説明できる、という前提が、どうにも、俳句の俳句らしさをすり減らしてしまう可能性がある。  評論より、作品。あれこれ言うよりも、ズバリと作品を出して見せること。それが「論より証拠」の俳句的な実践ということになろうか。 (中略)  分け続ける、言葉で俳句作品の魅力を語り続けようとする。その行為において、いかなる分析にもあてはまらないような異物に出会った時に、なお、その対象を含めて語り直そうとする者こそが、「どうしてこの作品が新しいと言えるのか」を説明することが可能となるだろう。  「論より証拠」。この格助詞「より」を、「出藍=青は藍より (・・) 取りて藍より青し」の「より」として解釈してみよう。論があるからこそ、証拠の証拠たる所以が見顕される。現代に至るまでの俳句とは、そのことを信じるものによって導かれたものではなかっただろうか。そのふるまいがたとえ名句を生み出さなくても、名句を見逃さないという矜持とともに。  と言う。至言である。ともあれ、以下に、新鋭作品と同人同人作品から一人一句を挙げておこう。   梅東風や子が頭を入るる鯨幕       土屋幸代(澤 好摩・花車賞)   金に目がない死にたくない詩人然として  吉冨快斗(山田耕司・白桃賞)   卯の花腐し街に居坐る不発弾       池田宏睦(今泉康弘・白泉賞)  煙より急に火の起つ野焼かな       澤 好摩  かげろふのかげろふだけとなりにけり   大和まな  去年今年棒を拾ひて持ち歩く       摂氏華氏   選らずとも白の残りし雛あられ     和久井幹雄  女正月AI仕込みのペットゐて       栗林 浩   昨日を忘れ今日を惑ひて冬も春     荒井みづえ  クリスマスエントランスのオルゴール

木戸葉三「谷の底では少年少女びょうびょうせり」(「不虚(ふこ)」17号)・・

イメージ
 個人誌「不虚(ふこ)」17号(発行・編集 森山光章)、森山光章「更なる〔終わり〕」では、アフォリズム風の言が並ぶ。例えば、  わたしは、すでに (・・・) 〔死んでいる〕。わたしは、〔題目〕だけで、生きのびている (・・・・・・・) 。そこには、〔死の生命〕 のみしかない。元より〔生死不二〕、〔死と生が交流しながら〕、〔生〕は成立する (・・・・) 。わたしは、それを諾う (・・) だけである。     *  合理主義は、〔存在〕の一部でしかない (・・・・・・) 。不可視の (・・・・) 、〔彼方〕の領域が (・・) 、厳然 (・・) と存在する。合理主義hさ、「危険な思想」である。合理主義は、尊い (・・) 〔人間の生命〕を毀損 (・・) する。部分観 (・・・) でしかない思想が、タラズ (・・・) している。 (中略)     *  「吉本隆明」の言うごとく、〔高みから、非知に降りていく〕のではない。〔初めから (・・・・) 非―智という糞 (・) のなかにいる〕のである。これが〔仏教〕である。〔仏教は、不可触賤民 (アウト・カースト) を生きる〕。「釈尊」の時 (・) から、そうである。〔終わり〕の夜 (・) の滅尽だけが (・・・・・) 、ある (・・) 。 (中略)  重要なのは (・・・・・) 、〔居場所〕を持つこと (・・・・) であり、〔他者〕から、優しさを受ける (・・・・・・・) ことである。〔他者〕から、優しさを受けたことがない人間 ( ・・・・・・・・・・・・・ ) が、「犯罪者」となる。そこには、〔同苦〕のみがある。  あるいは、また、森山光章「〔自立支援〕批判」では、  1)序  現在の介護制度の思想的基底は、〔自立支援〕である。だが、わたしは、介護福祉専門学校に入学した当初から、この介護制度の思想的基底である〔自立支援〕に疑問を感じていた。  その思いの奥底を探ると、わたしが十五歳頃に胚胎した〔自立思想〕への疑問がある。 (中略) 〔自立〕を成す〈個我〉への認識が、劣悪 (・・) であり、相対化 (・・・) されていない。十五歳のわたしには、〔自立思想〕への〈個我〉への拭 (ぬぐ) い難き侮蔑 (・・) があった。相対化されない、単なる〈個我〉は、ファシズム (・・・・・) である。〈個我〉は、〔彼方〕へ相対化 (・・・) されな

宗田安正「YASUMASAと箪笥に呼ばる春の暮」(「五七五」11号より)・・

イメージ
    「五七五」11号(編集発行人:高橋修宏)、特集は宗田安正。その「編集後記」に、 (前略 )そのひとつは (愚生注:エピソード) 、何かのたびに宗田氏が「表現するって、ほんらい恥しいもんだから」と、呟かれていたことだ。むろん、その言葉は、自らの俳句や批評にも向けられていたが、いま想い返すと、それに止まらない彼の表現をめぐる自他への倫理であったろう。 (中略)  また、ある賞で寺山修司の俳句を巡る論作が発表されたときも、「あれは、僕のパクリだね」と言ったきり、黙ってしまわれた。その後、宗田氏から寺山論(今号掲載)のコピーが送られてきたが、それ以上は、おたがいに語ることはなかった。  とあった。この掲載された論は、 宗田安正「寺山修司句集の構造―—なぜ〈青春俳句〉でなくてはならなかったか」 (「俳句空間」第6号、1988年9月刊)である。「俳句空間」第6号(弘栄堂書店版)は、愚生が澤好摩の書肆麒麟から引き継いだ雑誌で、第6号(寺山修司特集)が、リニュアールしての新装版だった。寺山修司の100句選を三橋敏雄にお願いし、インタビューを福島泰樹にお願いした。また、寺山作品掲載のための著作権料の交渉を、寺山ハツにお願いするのに、何の面識も無かった愚生は、幾人かの方に仲介の労をとっていただいた記憶がある。記事中、宗田安正の寺山修司論は、寺山修司の俳句の創作時期や発表時期などをたどり、その全容をあきらかにしたものだった。蛇足ながら、この新装版「俳句空間」は、全国発売のため、書店営業も愚生がした(ようするに、愚生一人で何もかも行う、というのがわが社・弘栄堂書店で引き受ける際の、会社側が出した条件だった。加えて、愚生が吉祥寺店から小岩店に転勤・隔離就労することも含まれていた)。再出発の第6号「俳句空間」・寺山修司特集は、初刷り2000部で、「俳句空間」誌の中では、売り上部数が最も多かった号である。  本誌本号の他の執筆陣は、 筑紫磐井「宗田安正氏の業績―—龍太と修司の最大の理解者」 、 高橋修宏「私神話のトポスーー宗田安正論(抄)」・宗田安正十句選 。 増田まさみ「裂目(クレバス)から洩れる――高橋修宏句集『虚器』に寄せて」、今泉康弘「蒼ざめた龍を見よ――木村リュウジ試 論(3)」 。ともあれ、本誌中より、宗田安正の句をいくつか挙げておこう。   天秤の跳ねて枯野も傾けり    

伊藤左知子「即答とならぬ数秒豆ごはん」(第156回「豈」東京句会)・・

イメージ
  本日、5月29日は、隔月開催の第156回「豈」東京句会(於:白金台いきいきプラザ)だった。「豈」の句会史上初の日曜日に開催された。これも、担当者曰く、土曜日の会場確保が難しくなっているとのことだった。今や「豈」も、リタイヤ組が多いので、会場が確保できれば、いつでも開催可というところだろうか。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。    塹壕をお花畠へ掘りに行く       川崎果連   千年のうたたねケサランパサラン   川名つぎお    いつの間に丸めこまれる茂りなり   杉本青三郎    道草に人をたよりの業平忌      小湊こぎく    青臭き惑星およぐ黒たまご       早瀬恵子    朧の夜よく振ってください      羽村美和子    白よりも白い白です梅花空木      金田一剛    冷汁に飯ぶっこんでかっこんで    伊藤左知子   戦争に注意 白線の内側へ       大井恒行  次回は、7月29日(土)午後1時半~,於:白金台いきいきプラザ。 ★閑話休題・・オレク「母は息子のもとへ ウクライナの地に 頭垂れ」(「相子智恵の俳句の窓から」東京新聞夕刊・5月20日付)・・  「相子智恵の俳句の窓から」(「東京新聞夕刊」5月20日付)で、相子智恵は「俳壇」5月号の仁平勝、筑紫磐井、堀田季何の鼎談「『俳壇無風論』をめぐって」の堀田季何の発言を引用して、 〈 (前略) 今はまだ言語的バリアと地理的バリアがありますが、ネットの普及などによってこれらの障壁が無くなり、これもフラットに、近い関係になっていくのでは〉と述べる。  それを実感したのがNHKのETV特集「戦禍の中のHAIKU」でロシアとウクライナの俳人に取材した馬場朝子が、放送内容に加筆して出版した『俳句が伝える戦時下のロシア ロシア市民、8人へのインタビュー』(現代書館)だ。 (中略)  また、家族や友人との間で分断が起きていることを〈ロシア世界 家庭の出合いは 前線に〉と詠み、〈この出来事 (・・・) に関する意見が出てきたとたん、当然ながら、議論が燃え上がりはじめます。「前線」が発生して、戦いがはじまるのです〉と語る。ロシアでは侵攻を「戦争」と呼ぶことが法律で禁止され、「この出来事 (・・・) と語るのも重い。 (中略) 〈特殊軍事作戦 サラダに油 少なめに〉と詠んだ歴史学者べーラは

杦森松一「トマト切り沈みゆく刃の軽さかな」(第49回「ことごと句会」)・・

イメージ
  本日は、第49回「ことごと句会」(於:ルノアール新宿区役所横店2F)、兼題は「鏡」。一人一句を紹介しておこう。   笑み返す嘘つき鏡手なづけて        江良純雄    蜥蜴の子空に半身を反り返す        渡邉樹音   新茶来る後期高齢祝 (しゅく) とあり    武藤 幹   暗がりに山車の灯高く白狐舞い       渡辺信子    ナメクジの道なき道の道しるべ       杦森松一    鏡のうら小さな暗黒星雲          金田一剛    鏡台に映る紅色夏萌ゆる          照井三余    人死んで投げ入れ堂の岩の春        大井恒行 次回、第50回は、6月17日(土)、於:ルノアール新宿区役所横店2F。       撮影・中西ひろ美「うすうすと木の花は立夏の中に」↑

川崎果連「なじょすっぺ処理水流す夏の海」(現俳協講座・第2回「金曜教室」)・・

イメージ
  本日、5月19日(金)は、現俳協講座・2023年度第2回「金曜教室」(於:現俳協会議室)だった。前回出していた課題は「方言で句を作る」。それぞれ、面白い作品が出来ていた。  分かりにくい方言には、注を付けてもらった。なかにアイヌ語(方言ではないが)を駆使して作句した人もおられた。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。  (神へ祈る)(赤い歌) (よ)(風が燃える)    カムイノミ フレシノッチャ ナ レラウフイ    林ひとみ   いかづちや戦争いけん核いけん (いけん=ダメ・良くない)  村上直樹   くらっしぇーラムネつかんで子等の声 (くらっしぇー=くださいね)宮川 夏   わやしとるじゃんサミットの冷奴 (ぐちゃぐちゃにしとるね) 川崎果連   めごえなづのぼうすばまぶだまで          山﨑百花   「かなんなぁ」独り言 (ご) つ祖母夕涼み      武藤 幹  夏空の村一番のてなわん子 (てなわん=気が強い) 杦森松一   諍 (いさか) いも好きやねんとう大白鳥       赤崎冬生   ハイヒールに抜かれずつねえ春惜しむ (ずつねえ=苦しい) 石原友夫   桜桃忌部活の空のあずましき            白石正人   今日のご飯少し強 (こわ) いと祖母が言い      植木紀子   ぬばたまの黒き菓子食む隠元忌           岩田残雪    生きてまたのんたねえたに心太 (のんた=のぉあんた、ねえた=ねぇあなた)大井恒行  本日は、最期の20分間で、1983(昭和58)年に、高柳重信によって録音された、病床の折笠美秋を励ます高屋窓秋の声を聞いていただいた。次回(6月19日・金)は、この時(赤尾兜子を偲ぶ会・大阪)での、出席者による折笠美秋へのお見舞い、励ましの声=和田悟朗・小泉八重子・鈴木六林男・宗田安正・三橋敏雄、高柳重信のアカペラ「サイパン島玉砕の歌?」などを聞いていただこうと思う。句会の方は、雑詠2句の持ち寄り。       芽夢野うのき「勝てないわ黄の薔薇にも髪膚にも」↑

米岡隆文「うなされているのかひきがえるなのか」(個人誌「非」創刊号)・・

イメージ
  米岡隆文個人誌「非」創刊号、その「まえがき」に、 (前略) 「ひ」は「非」であり「否」であり「火」でもある。また、「日」でもある。  基本は俳句と評論、アンソロジーの個人誌である。  とある。内容の項目をあげておくと、 ・「アンソロジー『三千世界の俳句』室町~江戸期233句」、米岡自身の・「俳句作品 2021~2023」、・「評論『二人の阿部氏の俳句』」、「俳句(的)喩の提唱」 である。ここでは「 『俳句(的)喩の提唱 」の部分を紹介しておこう。  (前略)  致死量の月光兄の蒼全裸 (あおはだか)   藤原月彦  この句は初めから、「致死量の月光」九音で上句、「兄の蒼全裸」八音の構造を取っている句である。つまり、作者は中間切れを意図してこの作品を提示したということになる。 (中略) 上句をA、下句をBとするこれはA=Bの世界である。つまりAはBのBはAのお互いが喩であるという関係性である。「致死量の月光」はすなわち「兄の蒼全裸」であり、「兄の蒼全裸」は「致死量の月光」である。全く違った二つの世界が十七音数律の中で出会い新たな関係性を構築する。これが私の言う俳句的喩である。現代俳句はとうとうこのような高みに到達したのだ。  と述べ、    何も書かなければここに蚊もいない    福田若之  おっしゃるとおり。俳句とはそう言うものであり、書くと言うことはそう言う事である。福田若之は若手のなかでも書くことにこだわり続けている作家である。この句も十七音数律全てを使ってひとつの事を述べている。意味上、上句九音下句八音に受け取れる。「ば」が小切れをなしており、二つの世界に分かれる。それにしても「蚊」という季語の表出を見よ。花鳥諷詠作家には絶対詠める代物ではない。まるで、この俳句にへばりついているようではないか。 とあった。論の結び近くには、   話を短歌的喩にもどすと、隆明の考察によれば、直喩や暗喩は勿論、像的な喩・意味的な喩・円環的な喩をも含むということである。形式的には、 a 五七五七七の五七五を上句下句に分けて、上句は一首の価値を作るとともに下句の意味的な喩や像的な喩となるタイプ b五七五七と七にわかれて、終わりの七で意味的な喩や像的な喩へ転換するもの c 五七五七七の最後の七の中の三音・四音・五音・六音でおいつめられた形で意味的な喩や像的な喩へ転換するもの  一首

堀田季何」「角砂糖踏みしめ蠅や王の気分」(『俳句ミーツ短歌』より)・・

イメージ
 堀田季何『俳句ミーツ短歌』(笠間書院)、副題に 「読み方・楽しみ方を案内する18章」 とあり、帯の惹句には、      俳句と短歌を、もっと自由に楽しむために/古典的名作から自由律、AIまで  俳人であり歌人でもある著者による、俳句と短歌の両方を  より深く味わうためのガイド。  「俳句と短歌の違いは?」  →『切れ』の違い  「季語を入れて字数を守ればいい?」  →どちらもない作品もあり  「内容は実際の経験でないとだめ?」  →想像上の出来事でOK  ……などなど、  気になる疑問に応えます! 「はじめに」には、  (前略) 本書『俳句ミーツ短歌』は、俳句や短歌の様々な側面を紹介することで、また、俳句と短歌の接点と違い(あ、俳句ミーツ短歌!)を紹介することで、誰でも俳句や短歌について「わかった気になれる」一冊である。「わかった気になれる」というのは、専門の学者と渡り合うのは無理にしても、それ以外の人たち相手には大いに語れるくらいの盛りだくさんな内容が、わかりやすく詰め込まれている、という意味である。 (中略) 学校で教えていたことの間違いを指摘する箇所もあるし、俳人や歌人によっては否定したくなるような箇所もある。    また、「おわりに」では、   本書は、俳誌「楽園」に連載されていた好評企画「呵呵俳話」の何話かを基に、大幅加筆したものである。「呵呵俳話」自体は、筆者が口頭で俳話(俳諧・俳句に関しての談話)を行い、それを同誌編集部の山崎垂さんが記録して文章化し、さらにその文章を筆者が適宜修正して出来上がる。 (中略) 口述筆記と大きく異なるのは、リサーチ力に長けた山崎さんが、舌足らずだった部分や引用したい文章などを常に補ってくださる点である。  とあった。ブログタイトルにした句「 角砂糖踏みしめ蠅や王の気分 」(他に3句あり)の句には、   このような雑の句で重要になるのは、季題・季語の本意本情でも季感でもなく、季語的なイメージの喚起力を持つキーワードです。  と記されている。本文を何カ所も引用紹介したいのだが、愚生のブログはこれが限界、直接、本書にあたられたい。各章の目次をみるだけでも、優れもの、だと知れるだろう。各章の目次を以下に挙げておきたい。巻末に各章ごとの出典が明記されている。   第一章 日本短詩の変態― —和歌から俳句、川柳へ  第二章 言葉はど

道上チヨネ「動く星 子に指さして 夏の海」(『拝啓、おふくろ』)・・

イメージ
  道上洋三著『拝啓、おふくろ』(光文社)、カバー表3裏に、著者略歴があり、「 道上洋三(どうじょう・ようぞう)/1943年3月10日生まれ、5歳まで租父母の下、広島県甲奴郡上下町〔当時〕で過ごす、小学校1年から母チヨネと共に山口県熊毛郡に移り住み、18歳まで田布施町や平生町で育つ 」とあり、愚生と同じ山口県で育ち、18歳で故郷を出たこと。愚生は、先月の現俳協「金曜教室」で、方言で俳句を作るという宿題を皆さんに出しておいたので、山口の方言をあたらて思い起す必要もあって、思わず、本書を手にしたのである。「まえがき」と「あとがき」には、2021年に9月に脳梗塞を発症して、現在、リハビリ中の著者、そして妻・道上瞭子、ご子息・道上拓人が執筆している。妻・瞭子の「まえがき/この本のこと」には、   これまで彼は番組で、リスナーの皆さんの人生のありのままに触れてきました。今度は皆さんにこの本で、道上洋三の人生のありのままに触れていただくことになると思います。  「おはようパーソナリティ道上洋三です」は終ってしまいますが、やがて彼がラジオのスタジオに復帰したとき、リスナーの皆さんと彼がより深く結びつくきっかけになると、考えています。  とあり、また、「あとがき/義母チヨネさんのこと」の中に、 (前略) おばあちゃんは俳句を嗜んでいました。暇があれば、広告の裏や封筒の裏に俳句を書いていました。トラを詠んだ句もあります。    留守居番 猫と二人の 昼寝かな  トラは二十一年、うちで暮らし、おばあちゃんが亡くなってから後を追うように逝きました。    とあった。そのおばあちゃん(道上洋三の母)は明治42年生まれ、享年92。話は飛ぶが、道上洋三は大の栃錦ファンだったらしい。愚生もそうだった。最後に、いわゆる山口弁の会話部分を引用しておこう。   「何しちょるん?」 (中略)   「その魚はメダカじゃね。メダカをとっとるんじゃね?」  「うん、メダカとっちょる」 (中略)  「バケツがいるね。ちょっと待っちょってね」  道上洋三は坪内稔典の一年先輩らしい。道上の番組のライターをしていたことがあるという。 ★閑話休題・・春風亭昇吉「お前しかおらん改札若葉風」(TVプレバト・浜田雅功60歳誕生日記念・浜田杯)・・   先週5月11日(木)のTVプレバトの録画を、愚生は、前立腺がんの疑いによる

杉﨑恒夫「星のかけらといわれるぼくがいつどこでかなしみなど背負ったのだろう」(『パン屋のパンセ』)・・

イメージ
 杉﨑恒夫歌集『パン屋のパンセ』(六花書林)、栞は、井辻朱美「〈世界〉の化力」、松村由利子「焼きたてパンの香りのように」、穂村弘「胸という一枚の野を」。跋はご子息・杉﨑明夫「『パン屋のパンセ』発刊に寄せて」。  愚生が、杉﨑恒夫の短歌を知ったのは、東京新聞(2023年4月24日付夕刊)の「一首ものがたり」である。そして、その歌集は、愚生の昔から知り合いで若き友の宇田川寛之の六花書林から2010年4月に刊行されたものだった。新聞記事には、 (前略) 〈さみしくて見にきたひとの気持ちなど海はしつこく尋ねはしない〉は、今年から中学校の国語教科書に採用された。  「杉﨑さんの歌は本当に分かりやすく、でも情報量が多い。やさしいテニスのコーチのような球筋なんです」。同人誌「かばん」の同人で、井辻朱美(六七)とともに歌集に収録する歌を選んだ高柳蕗子(六九)が言う。  とりわけ人気があるのが、宇宙や星をモチーフにした歌だ。〈星空がとてもきれいでぼくたちの残り少ない時間のボンベ〉〈晴れ上がる銀河宇宙のさびしさはたましいを掛けておく釘がない〉。経理部長などとして東京・三鷹の東京天文台(現国立天文台)に勤めた杉﨑は、夜空を眺めるのが好きだった。 (中略)  確認できた限りでは、吉植庄亮 (よしうえしょうりょう) が主宰していた『橄欖』一九四二年五月号の「日日雑詠」八首が最も古い。以後、戦前に発表した歌は晩年とは異なり、生活を素直に詠んでいる。その中に〈病ひよき朝は自ら机拭き春蘭 (しゅんらん) の鉢を置きてすがしむ〉〈男といふ男が召され征 (ゆ) く時を労 (いた) はられつつ生きをり吾 (われ) は〉〈退院の別れを云へば病床のその手が強く握り返しぬ〉〈給配の交付を願ふ届書に我は無職と書く他なし〉といった歌がある。 (中略) 明夫によると、結核のため片肺を失っており、一時東京の結核病棟で療養していたとみられる。戦後も病を引きづり、『橄欖』四七年七月号には〈額椽 (がくぶち) のガラスに映り病床の我はみじめに飯くふものか〉といった作品が見られる。  とあった。また、井辻朱美の栞文には、    休日のしずかな窓に浮き雲のピザがいちまい配達される  詩歌とはこんなふうにひとつの窓、フレームを作るところから、始まる。雑多な混沌を片寄せて、まず何もない空間をこしらえる。きれいになった場所にモノを置