木戸葉三「谷の底では少年少女びょうびょうせり」(「不虚(ふこ)」17号)・・
個人誌「不虚(ふこ)」17号(発行・編集 森山光章)、森山光章「更なる〔終わり〕」では、アフォリズム風の言が並ぶ。例えば、
わたしは、すでに(・・・)〔死んでいる〕。わたしは、〔題目〕だけで、生きのびている(・・・・・・・)。そこには、〔死の生命〕 のみしかない。元より〔生死不二〕、〔死と生が交流しながら〕、〔生〕は成立する(・・・・)。わたしは、それを諾う(・・)だけである。
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合理主義は、〔存在〕の一部でしかない(・・・・・・)。不可視の(・・・・)、〔彼方〕の領域が(・・)、厳然(・・)と存在する。合理主義hさ、「危険な思想」である。合理主義は、尊い(・・)〔人間の生命〕を毀損(・・)する。部分観(・・・)でしかない思想が、タラズ(・・・)している。(中略)
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「吉本隆明」の言うごとく、〔高みから、非知に降りていく〕のではない。〔初めから(・・・・)非―智という糞(・)のなかにいる〕のである。これが〔仏教〕である。〔仏教は、不可触賤民(アウト・カースト)を生きる〕。「釈尊」の時(・)から、そうである。〔終わり〕の夜(・)の滅尽だけが(・・・・・)、ある(・・)。(中略)
重要なのは(・・・・・)、〔居場所〕を持つこと(・・・・)であり、〔他者〕から、優しさを受ける(・・・・・・・)ことである。〔他者〕から、優しさを受けたことがない人間(・・・・・・・・・・・・・)が、「犯罪者」となる。そこには、〔同苦〕のみがある。
あるいは、また、森山光章「〔自立支援〕批判」では、
1)序
現在の介護制度の思想的基底は、〔自立支援〕である。だが、わたしは、介護福祉専門学校に入学した当初から、この介護制度の思想的基底である〔自立支援〕に疑問を感じていた。
その思いの奥底を探ると、わたしが十五歳頃に胚胎した〔自立思想〕への疑問がある。(中略)〔自立〕を成す〈個我〉への認識が、劣悪(・・)であり、相対化(・・・)されていない。十五歳のわたしには、〔自立思想〕への〈個我〉への拭(ぬぐ)い難き侮蔑(・・)があった。相対化されない、単なる〈個我〉は、ファシズム(・・・・・)である。〈個我〉は、〔彼方〕へ相対化(・・・)されなければならない。(中略)
実兄の帚木蓬生は、〔QOD(クオルティ・オブ・デス)〕すなわち〔死の質〕を説く。彼は〔QOL(生の質)〕より〔QOD(死の質)〕の方が重要だと説く。わたしも、そう思う。
〔死〕の在り様は、「来世」の在り様と相即する。〔死〕の在り様が、「来世」を決定する。〔介護〕とpは、充実した(・・・・)〔死〕をサポートすることである。現在の〔介護〕は、〔生〕に定位するだけである。タラズ(・・・)である。なにも思考していない(・・・・・・・・・・・)。
さらに「後記」には、以下のように記されている。
何故かこの社会は最も愛される必要のある脱落者は最も愛されないようにできている。
人が人にとってのインフラである事の否定はもう人間である事の放棄に近いんだよ。
(山上徹也)
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〔根こぎ〕が、完徹している(・・・・・・)。〔終わり〕だけがある。〔存在論〕的〔終わり〕が基底(・・)となっている。〔恐ろしい〕時代である。
〔政治〕は、この〔存在論〕的〔終わり〕に降りてはこない(・・・・・・・)。タワケ(・・・)である。この〔存在論〕的〔終わり〕を、克服する(・・・)ことが〔政治〕である。「子供」政策などではない。〔悪魔〕が、タワケ(・・・)している。
わたしは、「山上徹也」被告に慟哭する(・・・・)。
とあった。本誌の他の記事は、前田俊範「対話の力信じ平和への道を」、「防衛費増強は便乗した感じ」。ともあれ、木戸葉三の句を二、三挙げておこう。
跳びこえて百年のちの小川かな 葉三
なぜか必死に霧の箪笥を運ぶ父
ねぎぼうず「それじゃみなさんさようなら」
撮影・芽夢野うのき「みどりなる雨の丈なり長考す」↑
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