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大井恒行「晴れゆけば元旦にこそかの龍を」(新年詠)・・

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 謹賀新年!     晴れゆけば元旦にこそかの龍を       大井恒行              2024年元旦              本年もよろしくお願いいたします。 ★閑話休題・・能村登四郎「火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ」(『戦後俳句史 nouveau1945-2023/―三協会統合論』より)・・  筑紫磐井著『戦後俳句史 nouveau1945-2023/―三協会統合論』(ウエップ)、まず。帯の惹句に、金子兜太へのインタビューとともに、「 戦後俳句ー世紀を見据える力動史 」とあり、 筑紫磐井:戦後の俳句史はまだ語られていないところもあると思うんですけれども…… 金子兜太:おれはね、あんたがそれを言い出すと怖いんだ。ほんとに怖いですよ。何かあんたから出てきそうな気がしてね。この人から、新しい俳句史が。  とある。また「はじめに」には、 ●寺山修司の言葉  「俳句は、おそらく世界でもっともすぐれた詩型である」  これは寺山修司の言葉である。(『黄金時代』昭和53年「あとがき」)。世界で最も短い詩型ではない、 ―― 世界でもっともすぐれた詩型だというのである。、もちろんそこに論理的な証明はない。しかし、戦後生まれお俳人たちにとって、それは無限の可能性に満ちた言葉であった。事実、俳句に始まり、短歌に転出し、様々なジャンルに挑戦した後、最晩年に俳句に復帰しようとした寺山の人生を見て納得できる言葉であった。 (中略)  寺山の言葉に、私は明治の子規の言葉に虚子が衝撃を受けたように、戦後世代として衝撃を受けたのである。 (中略)  私の戦後俳句史の出会いは、楠本憲吉『戦後の俳句』に始まる。青木氏がいうような 全時代を覆う通史の必要性はこれを読むことによって納得できた。のみならず、『戦後俳句』は血湧き肉躍る歴史の書き方を示してくれたのである。本書は、楠本の『戦後俳句』を継いだものとして読んでいただいてもよいかもしれない。しかし、一方で、『戦後の俳句』が十分でないと感じた点もある。 (中略)  ●通史の新しいポイント  以下本書で掲げた内容を概観する。基本的には俳句史における主要な項目をあげたが、それぞれのクロニクル的な平板な記述ではなく、なぜその運動が起こらねばならなかったかの因果関係を究明することに主眼を置いた。 (中略)  なお脇道にそれるが、反「第二芸術」の立場か

高柳重信「この河/おそろし/あまりやさしく/流れゆき」(『俳句500年 名句をよむ』より)・・

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    藤英樹著『俳句500年 名句を読む』(コールサック社)、帯文は長谷川櫂、それには、   古今の名句を知らなければ一歩も進めないのが俳句。  たしかな選句と深い読みが生んだ必読の書である。  とあり、著者「あとがき」には、   本書は、所属する俳句結社「古志」の二〇一七年十月号~一八年一月号、一八年七月号~十月号、二一年五月号~八月号に連載した文章に加筆したものです。  とあった。一ぺージずつに配された句(名句)を、「 第一部 おおよその俳諧 」、「 第二部俳諧から俳句へ 」、「 第三部 俳句の多様化 」と読み進むうちに、俳諧・俳句の歴史がわかるという仕掛けになっている。故人の俳人ばかりを扱っているので、著者は存分に筆を振るえたとおもうのだが、田中裕明とほぼ同時代を閲して、双璧と言われた攝津幸彦の句が漏れているのは、いささか本著の価値に惜しまれる。  一例に、高柳重信の別号「蟬翁=蟬夫」の句を引いておきたい。     さびしさよ馬を見に来て馬を見る     重信『山川蟬夫句集』  重信の不思議でおもしろいのは「ほとんど詠み捨て」と言いながら、一行句集も二冊上梓しているところだ。 (中略)   『山川蟬夫句集』は春夏秋冬と雑(無季)に分けられ、通読すると、蟬夫(重信)の句作の真骨頂はどうやら雑のほうにあるらしい。  掲句は競馬場での吟であろうか。「さびしさよ」は鞭を入れられる競走馬への哀憐か。「馬を見に来て馬を見る」に言うに言われぬ可笑しみと哀しみが感じられる。雑の最後に置かれた句は「友よ我は片腕すでに鬼となりぬ」。俳句の荒野を耕した彼の壮絶を思う。  とあった。ともあれ、「第三部 多様化」の中から、句のみなるがいくつか挙げておきたい。    すばらしい乳房だ蚊が居る           尾崎放哉       どうしようもないわたしが歩いてゐる     種田山頭火    夢の世に葱を作りて寂しさよ          永田耕衣    おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ      加藤楸邨    あをあをとこ世の雨の箒草 (ははきぐさ)   飴山 實    大寒の一戸もかくれなき故郷          飯田龍太    冬滝の真上日のあと月通る           桂 信子    空へゆく階段のなし稲の花           田中裕明    最澄の瞑目つづく冬の畦 

安井浩司「ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき」(「俳句」1月号より)・・

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 「俳句」一月号(角川文化振興財団)、角谷昌子「連載 俳句の水脈・血脈―平成・令和に逝った星々」の第31回は安井浩司。その中に、 (前略) 山上のみが浄化されるや蛇の声      空 (から) 蛇のみが新しの蛇熟知して      広目の少年もまた蛇のすえ  (中略)   浩司作品には、繰り返し登場する生きものがいくついもある。その中でことにおびただしい数の蛇が印象に残る。蛇はエデンの園で人間に誘惑の言葉を囁いた悪魔的存在ばかりか、とぐろを巻く姿は、禅の円相の悟りや仏性、真理、宇宙をも表す。また、己が尾を嚙んで円環を造るウロボロスの蛇の世界の合一性、さらにはニーチェの永劫回帰さえも思わせる。蛇の円環は洋の東西を問わず、混沌と調和の属性がある。  蛇は作者の変身した姿であり、作品の時空における自身のアバターだ。彼は発想の典拠を明らかにしないが、蛇の作品の中で、〈浄化〉される〈山上〉は聖書のキリストの「山上の垂訓」を踏まえるか、〈広目の少年〉は、仏像の広目天で、特殊な眼力を備えた神将であり、作者は真理」を見抜く目を蛇の末裔である少年に与える。 (中略)  浩司は、重信に学ぼうと思って「俳句評論」に参加したが、重信の根源的なものをどこかで否定していたと述べる。そして重信が自分の多行中心の前衛俳句を「敗北の詩」と予想して悲観的だったとも証言する。  浩司は、親しかった郁乎や重信の作品さえ厳しく批評し、尊敬した耕衣の俳句や言葉にも安易に迎合せず、独自の世界を築いてゆく。 (中略)  耕衣は、吉岡実の評価した浩司の句〈遠い空家に灰満つ必死に交む貝〉〈雁よ死ぬ段畑で妹は縄使う〉(『青年経』)などの作品を「超関係的関係」や「カオス」の不思議さを抱くと高く評価した。   椿の花いきなり数を廃棄せり   『中止観』  (中略)  浩司は「季語は季語という名を借りた絶対言語」であり、定型よりも季語を詩の言語として尊重すれば、季語は俳句作品を救済するとの述べる。彼にとって季語とは単なる歳時記の言葉ではなく、俳句と闘った末に得た、「極めて肉体的」な血肉を分けた運命的言語だ。    そして、 「酒巻英一郎氏(「LOTUS」発行人・事務局)に聞く」 には、    浩司の極私的詩史における最大の謎と言えば、やはり三十三歳から始まる詩の女神との飛騨高山への出奔を見逃すわけにはゆくまい。時を同じくして歌

橋本直「狼を祀る声なき狼を」(「現代俳句」2024年1月号より)・・

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「現代俳句」2024年1月号(現代俳句協会)は、本文活字のポイントを上げて、老生には読み易くなったリニューアール版である(WEB版『現代俳句』も開始)。 巻頭は、理事長・中村和弘「俳諧自由こそ尊し」。論考は、筑紫磐井「 現代俳句・季語は生きている 」と井口時男「 新興俳句逍遥(9)/西東三鬼のイロニーと黒い笑い 」。筑紫磐井は、中見出し「 一 季題と季語 」の中で、   もともと、自由律俳句・新興俳句以前にあっては季節のことばは不可欠と考えられ、それを季題・季語と呼んでいた。発生的に言えば、「季題」は明治三十六年六月のい秋声会機関誌「卯杖」で森無黄が題詠研究の過程で提案したものであり、「季語」は明治三十六年六月に短歌雑誌「アカネ」誌上で荻原井泉水・大須賀乙字によりドイツ言語論を参考に提案されたものであった。 (中略)  「季題派」はホトトギス・虚子であり、題詠を主とする詠み方、「季感季語派」とは馬酔木・新興俳句(有季新興俳句)の作家であり嘱目・自由な想像による詠み方をする俳人であった。  実は虚子の俳句は九九%題詠句会による詠み方であった。虚子の代表句集『五百句』『五百五十句』等をみてもそこに記載されている出典の殆どが題詠句会である。 (中略)  ホトトギスから独立した馬酔木も、その後の新興俳句も、花鳥諷詠の題詠という詠み方を軽蔑していた。あるがままの自然や現実から隔離された観念だからだ。   そして「 二 季感季語と無季 」では、   (前略) しかし特に顕著なのは、季節感を優先するため、季語は季節感に対し補助的な扱いになることである。そのため季重なりが顕著にみられるようになった。 (中略)    白樺に 月 照りつつも馬柵の 霧      秋櫻子     葭切 のをちの鋭声や 朝ぐもり     蟬 鳴けり 泉 湧くより静かにて     特に季感季語派の季重なりは当季ばかりではない点に特徴がある。と言うより季感季語派は春夏秋冬という単純で規範的な季節感(四季)ではなく、人間が肌身で感じる自然な季節感(微妙に異なる多数の季節)を尊ぶから、季ずれが生じるのである。その意味では、季感季語派によって初めてありのままの季節が発見されるようになったと言える。 (中略)    頭の中で白い夏野となつてゐる    高屋窓秋    我が思ふ白い青空と落葉降る  新興俳句の金字塔とさ

岸本マチ子「足くんで白いふくろうになっている」(「WA」新第11号・通巻第105号より)・・

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 「WA」新第11号・通巻第104号(WAの会)、特集は「岸本マチ子追悼」、上地安智「岸本マチ子セレクション50句」、各同人などによる「感銘の一句」と「マチ子先生を偲ぶ」。それらの中から、以下に、本誌本号より岸本マチ子句をいくつか挙げておこう。   うりずんのたてがみ青くあおく梳く        マチ子    春の野に機関銃んど磨いている   ガムランの死後かも知れぬ闇に触れ   いつも断崖おんおん裸身みがくなり   ずーっと異端これからも異端羽抜鳥   八月は青の深部にきのこ雲   面罵すりこおろぎもいて一人なり   冬銀河きのう乗るはずだったのに  思い起こせば、攝津幸彦がまだ健在だったころ、岸本マチ子は「豈」同人であった。たぶん、最初に最後だった、本郷の旅館に一泊しての同人総会に、はるばる沖縄から参加されたのであった。その折、すでに一番年長にして姉貴分だった彼女が、出席者のなかで、もっともエネルギッシュで元気だったことを覚えている。そして、すぐに1994年下半期・第44回現代俳句協会賞を高野ムツオととも受賞されたのだった。「豈」同人の女性俳人では、池田澄子に次ぐ二人目の快挙だった。もう30年近く前のことだ。ともあれ、本誌より、以下にいくつかの句を挙げておきたい。    404not  found 虫しぐれ          赤城獏山    楼門に鴉あつまる秋の暮            伊波とをる    カンナ咲くもっと戦後であっていい        上地安智    老ゆる日の良きことのあり実むらさき      荏原やえ子    結願の道足ばやに秋の晴             大島知子    存分に生きて銀河へ導かれ           大城あつこ    語部 (かたりべ) も戦の動画山守 (やもり) 鳴く                         親泊ちゅうしん    石投げれば石が鳴きだす原爆忌          加用 伸    七月にマチ子先生逝きました           金城英子    天の川 (ティンガーラ) 命名見事島言葉      金城悦子    冥銭 (ウチカビ) や亡夫が筆頭口ごもる      金城幸子    百年のフィルム再生震災忌           具志堅忠昭    忘れるも良しとし生きる冬日和          桑江光子    

福島泰樹「風景は消えそれを眺めた人も消え歴史を問うに『シャボン玉消えた』」(『大正十二年九月一日』)・・

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 『大正十二年九月一日』(皓星社)、著者「あとがき」の中に、  (前略) 私の短歌デビューは、一九六九年秋刊行に歌集『バリケード・一九六六年二月』であった。標題に年月を標すことを以て決意表明とし、スタートを切ったのである。さらに時代への想い立ち去り難く、第二歌集を『エチカ・一九六九年以降』と命名、跋に「歌は志であり、道であろう。更に私はエチカという一語を付ける加える」と書き記した。以来、俺の歌は時代と共にあるという思いは、いまも変わることはない。そして処女歌集刊行以来五十有余年の歳月を経て、茲に「年」「月」を加え「日」を標した歌集『大正十二年九月一日』を刊行する。つまり私は、本歌集をもって振り出しに戻ったのである。これからも歌への志を。枉げずに生きてゆけという自戒をこめてである。 (中略)   毎月十日、吉祥寺「曼荼羅」での月例「短歌絶叫コンサート」も三十九年目を迎えた。 (中略)  死者は死んではいない。「死者との共闘」がスローガンとなってすでに日は久しい。六〇年安保闘争の死者樺美智子も、学生歌人岸上大作も、大正という時代を烈しく生き、虐殺、刑死、牢獄死など非業の死を遂げた大杉栄も、古田大次郎も、中浜哲も、村木源次郎も、和田久太郎も彼らは皆、自らが残した言葉の中に蘇生し、生々しい言葉を、「絶叫という媒体を通して、私たち生者に投げかけてくるのだ。それが「短歌絶叫」であり、「死者との共闘」である。  経産省前を道場と定めた、日本祈祷團「死者が裁く」の、反原発月例祈祷法会 (ほうえ) もこの八月二十七日、八年目を迎えた。 (中略)  歳晩刊行の歌集『百四十字、おいらくの歌』の跋文を書いたのは、昨年九月三十日、以後の一年を少しく書き記すなら……  毎月、不忍池畔での「月光歌会」は、三十六年四百三十七回を数えるに至った。 (中略)  再び、中浜哲が牢獄で書き遺した詩を引こう。  「追憶は追憶を生み育み/追憶は又新しく追憶をい生む!」(「黒パン黨實記」)。私もまた時代と人への追憶を更に激しくしてゆこう。死者との共闘、そう死者は死んではいない。今日、瀧口法難会!  とあった。そうだったのだ。愚生が歌集『バリケード・一九六六年二月』を手にしてからも50年以上が経ったのだ。そう言えば、愚生が27歳の時、第一句集『秋(トキ)ノ詩(ウタ)』(私家版・自筆50部・1976年12月)を出し

澤好摩「うららかや崖をこぼるる崖自身」(「俳句界」1月号より)・・

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 「俳句界」1月号(文學の森)、特集は「一生俳人~生涯追い求めたもの」。執筆陣は、森澄雄(上野一孝)、佐藤鬼房(渡辺誠一郎)、金子兜太(堀之内長一)、鈴木六林男(次井義泰)、和田悟朗(久保純夫)、岡本眸(松岡隆子)、鍵和田秞子(依田善朗)、岡田日郎(鈴木久美子)、澤好摩(山田耕司)。その澤好摩について、山田耕司は「 詠まないことの一貫性 」と題して、  (前略) その生涯を通して貫いたものは、あくまでも個人として言葉と格闘する行為であった。「個人」としての格闘とは、個人的境涯を詠む行為を指すものではない。自己の人生であれ、社会的な問題であれ、何事かを伝えるためのウツウツとして俳句がふるまうことを用心深く排除するのが、澤好摩もこだわりであった。  自分を詠まない。時代を、詠まない。  先人の遺した「俳句らしさ」詠まない。  そんなシバリをかけつつ、自己作品を厳しく添削する澤好摩は寡作多捨の作家であった。    とあった。本特集の中には「私が追い求めるもの」のテーマに基づいて、池田澄子「 未知の俳句をこそ 」、坪内稔典「 うふふふふ 」、高野ムツオ「 表現の根拠 」、横澤放川「 歩まんず 」、鳥居真里子「 映像に舞うことのは 」、 岩田奎「 徳と毒 」がエッセイを寄せている。この中では、もっとも若いと思われる岩田奎が、   俳句においてこのような問いが難しいのは、澄むと濁るとのダブルバインドによる。 (中略)   澄むことをはなから目的とした座はどこか嘘くさいし、貧しい気がする。しかし、濁ることの味わいに泥 (なず) み、高踏を忘れた存在もまた空しい。澄みつつ濁り、濁りつつ澄む。おそらく澄むことによって濁るよりも濁ることによって澄むほうが筋のよい戦い方になるのではないかといまは思っている。  と、ダブルバインドの二語の選択については、無条件で同意できないが、さすがに未知なる俳句への真っ当さがあるように思えた。ともあれ、本誌本号より、いくつかの句を挙げておこう。    どの子にも空は胸かすいかのぼり      横澤放川    草餅や予定なき日も見る手帳        星野高士    鈴の音をとほく冬木の桜かな        髙田正子    三月の甘納豆のうふふふふ         坪内稔典    吹雪く木やここは暗室誰もくるな     鳥居真里子    金賞の菊に奢りのな

詠み人知らず「父親(おや)のない子が親分(おや)を持つ小春かな」(『任侠俳句』)・・

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 吉川潮・藤原龍一郎『任侠俳句/八九三の五七五』(飯塚書店)、「まえがき」は吉川潮、それには、   ヤクザが俳句を詠むのをいに思う方が多いだろう。私に教えてくれたのは、ヤクザの足を洗って堅気になったA氏である。私が任侠小説を執筆した際、編集者に紹介してもらったどうせだいの方だ。 (中略) 句作を見せてもらったが、ヤクザならではの視点で日常をスケッチした句や獄中で詠んだ句に、感心しきりであった。  某任侠団体の機関紙を見せてくれたのもA氏である。組織内の人事、盃事の情報、服役中の組員が仮出所する日取りなそ、興味深い記事が多い中、投句欄があった。そこで私はA氏に、ヤクザの俳句を集めてもらえないかと依頼した。 (中略) A氏同様、匿名希望なので、いずれの句も「詠み人知らず」とさせてもらった。 (中略)  私が俳句を始めたのは1990年、イラストレーターの山藤章二氏が宗匠の「駄句駄句会」に入ってからだ。その同人であった藤原龍一郎氏に半数の解説を依頼した。駄句駄句会はすでに解散したが、2022年9月、藤原氏を宗匠に仰いで「だんだん句会」を始めた。私も同人で、月に一度、例会を開いている。 (中略)  「八九三の五七五」というサブタイトルだが、ヤクザが「八九三」と表現される由来は、花札のオイチョカブで、八+九+三=二十で「ブタ」。最低の数字であることからきている。ヤクザは最低の存在と軽蔑したのか、ヤクザ自身が卑下したのかは定かではない。  とあり、「あとがき」の藤原龍一郎には、   (前略) 俳句というのは日本語をしゃべり、読み、書くことができる人ならば、誰でも作ることができる詩の形式なのである。この本が八九三の五七五であるように。その人の職業も社会的な立場も関係なく、俳句を作ろう!という思いを抱きさえすれば、五七五の言葉が、アタマの中に浮かびあがってくるはずだ。  とあった。両氏の解説文を各一例をあげ、最後に、本書より句をいくつか挙げておきたい。      座布団の上下で揉める師走かな   組織内での序列を「座布団」と称する。「あいつより座布団が上だ」とか、「座布団が下のくせに」といった使い方をされる。序列が重んじられる世界なので、大組織のヤクザが一堂に会する会合や宴会が多い師走に、席順について揉めることもあるのだ。その結果、抗争事件に発展したケースもあったらしい。(吉)   

髙田正子「創刊の一誌捧げむ初明り」(「青麗」創刊号)・・

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 「青麗」創刊号(青麗俳句会)、巻頭は特別インタビュー「俳句でつながっていきましょう」(「青麗」主宰・髙田正子)、その中に、   (前略) 私は、若いころ関西に引っ越したとき、親戚も友人も全くいなかった土地ですが『あんず句会』に誘ってもらって、あっという間に知り合いができたことを思い出しました。  俳句をしているというだけで親しくなってしまう不思議に、私は随分救われてきました。だからそのありがたさへの恩返しというより恩送りとして、結社を作ろうと思いました。 (中略)   関西で子育てをしていたころ、既存の句会には思うように参加できず、寂しい思いをしたことがありました。で、ふっと思い付いたんです。『そうだ、句会を自分で作ればいいんんだ』。  それが今も続いている『両手の会』です。メンバーは五人の同世代のお母さんたち。子連れで吟行し、句会をしました。上は小学六年生から下は幼稚園まで。もう吟行というより遠足です。 (中略)   若い人たちの句会や、子育て中のパパやママの句会は、今あちこちで誕生しつつありますが、サラリーマンだけの句会とか、只今介護中句会があってもよいのではないでしょうか。 (中略)  まずは、あれこれ悩まずに、季語を入れることと、五七五音字のリズムを守ることのふたつだけを意識して作ってみましょう。  上手でなくても、言いたいことが伝わればいいのです。するっとできたものに自分らしさが出たりします。俳句は、上手さよりも自分らしさです。  とあった。その他、連載はジョニー平塚「俳句百名山」の第一回は「富士山 3776m」。ともあれ、創刊号の「選評と鑑賞」から、句のみになるがいくつか挙げておこう。   秋麗 (あきうらら) しゆるしゆると解く舫ひ綱    藤原尚子    遠泳の肩つやつやと上がりくる           岩田由美    石積みて棚田千枚鰯雲               大林文鳥    八月の禱りの杖をたまはりぬ            仙波玉藻    先生を待つ葛棚の木の椅子に           安達美和子    一途なる恋にも疲れ昼の虫             城下洋二    蝉時雨棺 (ひつぎ) にセピア色の文       あんぽふみこ    白道 (びゃくどう) をすすむ名を得て曼殊沙華    後藤憲子    露草や咲いては人の世をなぞる  

折井紀衣「くさめしてもう一つして生き生きす」(「禾」第20号・終刊号)・・

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 「禾」第20号・終刊号(編集 折井紀衣)、同人4名の各人が「あとがき」をしたためているが、終刊に触れられてはいない。ただ、便りに「終刊といたします」とあった。毎号、興味深く楽しみしていたのは藤田真一の「禾のふみ」のエッセイ(評論)だった。本号の題は「秋雨」。胡乱な愚生などは、教えられることの多い玉文。その中に、  (前略) そもそも題の「秋雨」も、「アキサメ」ではなく、「あきノあめ」と読んでいた可能性もある。現代のわれわれは「秋雨」の文字をみたとき、反射的に「アキサメ」と読む。これはおそらく「春雨」を「ハルサメ」と読むのと対のように意識するからにちがいない。気象予報士の影響も無視できないだろう。しかし、紅葉。松宇の明治に予報士はいなかった。むしろ念頭にあったのは、和歌の詞、つまり伝統的な歌語のかたちであり、うたいぶりだったはずである。松宇の書簡にもそれが端的にあらわれている。  歌題として「秋雨」とあれば、むしろ「あきノあめ」と読んで当然である。例えば『夫木和歌抄』(一三一〇年ころ)秋之部に「秋雨」の題のもと、十八首があがっているが、「アキサメ」とよんだ歌は一例もない。それどころか、「あきのあめ」の語をそのままうたった和歌すらない。歌題と詠歌は別ものだったのか。 (中略)   『歌袋』『詞の千種』『八雲御抄』『群書類従』を調べあげた紅葉らの前に、所詮虚子らに勝ち目はなかった。秋雨を俎上にのせた紅葉の蕪村批判は、子規一派の無智ぶりを難じる発露であり、伝統に頓着せず、小手先だけの理解に警鐘を鳴らしたともとれる。この紅葉発言は、『句集講義』(秋之部)刊行の直後にあった。直接は、これを目にした紅葉の鋭い反応だったのだろう。    とある。また藤田真一「あとがき」には、   「キラキラ星」、もとはフランスのラモーの曲で、単純でかわいい曲として知らない者委はいない。これをモーツアルトが十二の変奏曲に仕立てた。日本では「キラキラ星変奏曲」といっている。 (中略)   転じて日本には、変奏 (・・) の技法も思想も生じなかった。微小に発して壮大に至る思考法はついに育たなかった。  とあった。ともあれ、本誌本号の句を挙げておこう。   ヤングケアラーの少年急ぐ北風の中     中嶋鬼谷    ふるさとの眠れる山を去りにけり       〃    点したきこゑのありけり冬がすみ   

久保田和代「枝先に意志漲らす冬欅」(第24回「きすげ句会」)・・

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  昨日、12月21日(木)は、第24回「きすげ句会」(於:府中市生涯学習センター)だった。兼題は「師走」。以下に一人一句を挙げておこう。    寒鯉の尾鰭一振り潜りけり         井上治男    船揚げし浜に白々冬の月          高野芳一    恥じらひのふふふは黄色水仙香       濱 筆治    傘寿なり振り返らずに冬日和        井上芳子    時雨くる近道近道行き止まり        寺地千穂    其角が詠み源吾が返す師走かな       清水正之    風癖の多摩の穂すすき冬没日 (いりひ)  山川桂子    満月の宇宙への穴覗き込む         杉森松一    ダウン犇めくラッシュに揺られ師走くる  久保田和代    愛人の遠まわりする師走かな        大井恒行  次回は、1月25日(木)、兼題は「雪」。 ★閑話休題・・松谷栄喜「どうするAI不安交じりの年の暮」(第168回「吾亦紅句会」)・・  本日、12月22日(金)は、第168回「吾亦紅句会」(於:立川市高松学習館)、兼題は「熱燗」だった。一人一句を挙げておこう。    小春日はホップステップパンプキン         笠井節子    ガラポンに昭和の師走廻りけり           田村明通    歪みたる地球の窪み冬の雷             牟田英子    まな板の傷の深さや年つまる            武田道代    それやこれあれも片して年暮るる          西村文子    熱燗に添えるきんぴら母ゆずり           佐藤幸子    割烹着のおかみ熱燗縄のれん            渡邊弘子    おしゃべりのつきぬ姉妹や日なたぼこ        奥村和子    墓碑銘も讀めず香華の泉岳寺           吉村真善美    半分の白菜漬ける暮しあり             関根幸子   三つ編みに伸びる伸びる木冬うらら        折原ミチ子    熱燗や親父の法名何だっけ             松谷栄喜    柵 (しがらみ) に囲まれし日々一葉忌        齋木和俊    元禄も現在 (いま) も変わらぬ政 (まつり) ごと  三枝美恵子     熱燗に晩酌の父酔い早く             井上千鶴子    老人の窓に

浅川芳直「歳晩の青空の窓さつと拭く」(『夜景の奥』)・・

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   浅川芳直第一句集『夜景の奥』(東京四季出版)、序句は、蓬田紀枝子。     秋の草刈り始めたる音届く        紀枝子  序は西山睦、跋は渡辺誠一郎、帯文は高橋睦郎、帯には、   この人の鋭さと柔らかさの兼ね合いは絶妙。  清新と風格の共存と言い換えてもよい。  とあった。 そして、序の結びに西山睦は、   第四章では、他者への暮しへの眼が向いている。これからの詠む方向でもあろうか。   山々は青空区切るそばの花   新幹線無月の山へなだれこむ   集落を人影蜘蛛の狩しづか   冬耕に魚干す風の触れゐたり  芳直さんは、俳句の道を前へ前へと自力で切り開いてきた人である。論も立つ。  そして一集に流れているのは「光」の明るさと「雪」の眩しさである。 『夜景の奥』を携えた若武者の、今出陣の蹄音を聞く思いである。  とあり、跋の渡辺誠一郎は、   最後に私が特に惹かれた一句を引き、感想を述べ、句集『夜景の奥』上梓の贐とする。   歳晩の青空の窓さつと拭く  松島円通院での一句である。新たな年を迎えるための、凛とした空気が張り詰めている。方丈での僧侶の姿を詠んだものだが、ここに私は、作者を重ねる。単なる年迎えの光景に止まらない。来るべき未来への浅川氏の意気そのものを読み取る。まさに自らが、明日へ向かって己自身を、拭き上げようとする姿に思えてくるのだ。未来に生起する様々な困難を前に、少しもぶれずに意気軒高としている清々しい浅川氏の表情が浮かんでくるのである。  とあった。そして、著者「あとがき」には、   本書は私の第一句集です。平成十四年秋から令和五年一月までの作品二八六句を収めました。不器用な句を大切に残したつもりです。至らぬ点も目に付きますが、欠点こそ本当のものが潜んでいるとおもうから。  集名の『夜景の奥』は、胸に沁み込んだ研究室の眺めに因みました。仙台の夜の奥には、南に大年寺山、北に七ツ森が茫と据わっています。  と記している。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておきたい。    つばくらめ海の反射を高く去る        芳直    冷房車出てよみがへる雨の音    王冠を飛ばし真夏のオリオン座     祖母 浅川絢 一〇二歳    炎昼にあるなしの風新仏   茄子の馬夜のカーテンふつと揺れ   クローバーからりと犬の車椅子   

乾佐伎「磨いた鏡に祈る」(『シーラカンスの砂時計』)・・

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  乾佐伎第二句集『シーラカンスの砂時計』(砂子屋書房)、跋文は内藤明。その中に、     シーラカンス秘密を言うから目を閉じて    シーラカンス東京を泳げない    虹架けてシーラカンスはまた眠る  一方、こちらのシーラカンスは作者の隣にいて、作者が心を打ち明ける友人でもあるかのようだ。また次の句では、どこか生きがたくある作者の分身として「シーラカンス」がいる。そして最後の「シーラカンス」はメルヘン的な趣をもって、子の句集を静かに閉じている。  人間の季節や現実を超越したシーラカンスを想像し、それに語りかけるように作られる句の姿は、出来上がった俳句としてはやや短調だが、句作を通して自らの感情や思想を形にしようとする若い作者の特徴がよく現れている。口語をベースとして、俳句的手法を離れ、季語の制約みなく作られている乾さんの一行の詩は、どこか短歌的な一人称的な抒情を思わせる。しかしまた、そこにはどこか俳句的な、啓示的、飛躍的なものもうかがえる。乾さんにとって、「シーラカンス」は、自らの生と世界認識の指標であり、伝統詩として現代という時代をさまよう俳句そのものなのかもしれない。  とあり、また、著者「あとがき」の中には、  シーラカンスとは二〇一九年八月に沼津港深海水族館で出会いました。展示されていたレプリカではない本物のシーラカンスの冷凍個体の迫力に圧倒されました。帰りの電車の中で夢中になってシーラカンスの句を作り始めたことを覚えています。それから四年、シーラカンスの存在はいつも私を励まし、支えてくれました。永遠に近い時間を深海で泳ぐシーラカンスの存在は、私の心に一筋の光をさしてくれました。私は、これからもシーラカンスと泳ぎ続けます。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。    回転木馬 はぐれないように光る        佐伎    シーラカンス夢の中からでられない   シーラカンスあなたの海に守られて   シーラカンス光は君をなくさない   夜更けの鏡からハミング   聖母像ブーケのように風を抱く   雨音が聞こえてきそう琥珀から   ほほえみは明日への切符白い雲   ジグソーパズルひとつの雨音が埋める   希望とはジャングルジムの中の風  乾佐伎(いぬい・さき) 1990年、東京都板橋区生まれ。 ★閑話休題・・太田和彦

小海四夏夫「『コサックの子守唄』など唄ひつつ哀れ草加の野辺にさ迷ふ」(CD『一瞥』)・・

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 小海四夏夫「CD『一瞥』試作盤完成記念集♪マイ・ソングへの道♪」(私家版)。小海四夏夫は「豈」創刊同人16人のうちの一人である。「豈」(創刊号、1980年)には、俳句を書かれていた、と思う。いまだに覚えている句は、    直江津のドアの一つが姉に肖て        四夏夫  である。その後は、歌集も出されている。先般亡くなった宮入聖と3年ほど前まで「句歌」という冊子を出されていた。その時の名は、かつての小海四夏夫ではなく、本名の保坂成夫だった。そして、その冊子の予告には、小海四夏夫最終歌集『一瞥』(限定50部 予価2000円)があった。  今回のCD『一瞥』には「作歌・作曲・歌唱/小海四夏夫」とあり、21首が唄われている。その中の「制作余話」には、   「どうですか、保坂さんも短歌朗読、短歌絶叫をやってみませんか」  田川さんが足立区から川崎に転居された頃のこと。荷物の整理の帰りに私の仕事場に立ち寄られた田川さんからそんなふうに水を向けられたのであった。十年前くらいのことかと思っていたが、田川さんに確認してみると、なんと二十年近く前のことらしい。 (中略)   どうもこの時からわたしの脳裏に、「父を偲ぶよすが」となるべきものを(娘)に残さなければならないという思いが去来するようになったのである。  「偲ぶよすが」とは言っても、それがCDという形になろうとは、当初は夢想だに出来ないことであった。 (中略)    われを一瞥してまた眠る乳飲み子に見入れば心に照る山紅葉   「コサックの子守唄」など歌ひつつ哀れ草加の野辺にさ迷ふ   幼子の口こじあけ歯を磨く刻にも白兵戦が迫れる この三首を唄うことから「作曲」と「ボイストレーニング」を同時に始めたのであったが、「当然のことながら」ではあるが実に困難な試みであった。 (中略)  崇徳院十二首をほぼ一定の曲調と間合いで歌えるようになった時点で在原業平七首、式子内親王八首をレパートリーに加えてみた。このあたりからボイストレーニングは苦行から愉楽へと変容していった。     王朝和歌を唄いつつも折々自作を唄ってみたのだが、自作を唄うことは相も変わらず苦行であった。 (中略) 山崎広子さんの『8割の人は自分の声が嫌い』は汲めども尽きせぬものを秘めた書だが、とりわけアルコール依存者(AA会)に取材した下りは圧巻で、思わず「身につまさ

福田淑子「本当はみんな戦(いくさ)が好きだから握り締めてる平和の二文字」(『パルティータの宙(そら)』)・・

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 福田淑子第二歌集『パルティータの宙(そら)』(コールサック社)、解説は、鈴木比佐雄「生きものの命をパルティータの調べで宙(そら)の片隅から発信する人—福田淑子歌集『パルティータの宙(そら)』に寄せて」。帯文は桑原正紀、それには、    福田さんの裡に渦巻く混沌たる詩魂が、人間をみつめ、宇宙を感じ、楽音に耳を澄ますことで言葉を揺り醒まし、一期一会の結晶体として、ここに〈歌〉を立ち上がらせている。 とあり、また、鈴木比佐雄の解説には、    御真影燃やす映像何を問ふ「やめろ!」と叫ぶ元兵士ゐて   原爆投下燃ゆる少女の映像に元老兵士は何にを思ふや   生くるものの命に軽重あるならば問ふあの世にもある優劣あるや  これら三首によって福田氏は、二〇一九年に社会問題となった「表現の自由・表現の不自由」という、問題の本質を自らの社会詠として記している。国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」が、「撤去しなければガソリン携行缶を持って行き会場を燃やす」という強迫によって、三日間で中止に追い込まれた。問題になった昭和天皇の写真を使ったコラージュ作品が燃える映像作品、慰安婦を象徴する《平和の少女像》などの作品には、一人ひとりの命の価値は平等であり、天皇陛下の「御真影」だけの神格化を批判したり、慰安婦であった少女を忘れないで後世に伝えたい思いが込められている。しかし元兵士たちの「御真影」への思いを忖度する者たちは、かつて現人神であった「御真影」の存在者と原爆下で焼き殺された少女や慰安婦にされた少女たちの命の重さが異なると考えているのではないかと、福田氏は本質的な問題提起をしている。アーティストたちの表現の自由や問題提起する行為が、言論の批評においてされるのであれば問題はない。しかし福田氏はテロ行為を予告することによって表現の場を抹殺することが「御真影」という偶像崇拝を強要し、一人ひとりの「命に軽重」があることをみちめさせようとしていると危惧しているのだ。  とあった。そして、著者「あとがき」の中には、  表題の「パルティータの宙 (そら) 」はバッハのパルティータの曲へのオマージュである。バッハの組曲パルティータはそれまでの様式から多様性を追求した楽曲の編成になっているという。私たちの時代も地上を支配している上下の重力条件から自由に、のびやかに宙に拡がっ

渡辺信子「落ち蟬のごとくカラリと逝かれしと」(第55回「ことごと句会」)・・

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  本日は、第55回「ことごと句会」(於:歌舞伎町ルノアール新宿区役所横店)でした。 兼題は「樹」、通常の出句に加えて、らふ亜沙弥の追悼句一句持参(選句の対象とせず)。 以下に一人一句を挙げておこう。    冬夕焼け今日の辛苦を燃やす色        金田一剛    寒林の樹が樹と交わす密 (みそか) ごと    渡辺信子    極彩の聖樹眠らぬトー横キッズ        渡邊樹音    ポケットのない人冬の月の下         武藤 幹    寒鴉曇りガラスのよく響く          照井三余    ほっほっほっ今川焼をジャグリング      江良純雄    雪隠のひしひし迫る重き雪          杦森松一    樹にしるす恋の未完という言葉        大井恒行 ――らふ亜沙弥追悼句――    奔放な句を焼き付けられた亜沙弥        江良純雄    御前 (あなたさま)  紫苑のリースで御御送り  金田一剛    独り呟く夕霧の永き床             照井三余    妻も吾 (あ) も ともに恋した冬薊       武藤 幹    紫の絹の帳や寒昴               渡邊樹音    紫の風一陣のノーモアブルース         渡辺信子    両腕で抱いてごらんと らふ亜沙弥       大井恒行  次回は、2月17日(土)、正月はお休みです。 ★閑話休題・・らふ亜沙弥「抽選で当たる漢(おとこ)や枇杷の花」(「つぐみ」No、214より)・・  らふ亜沙弥つながりで、「つぐみ」No、214(俳句集団つぐみ・つはこ江津)、「追悼 らふ亜沙弥」は、北大路翼「 思い出をちょっとだけ 」、わたなべ柊「 往きて還らず――紫の人 」、田尻睦子「 紫未だ全宇宙の――らぶちゃん (・・・・・) …… 」。評論に外山一機「旧派の再検討」。「俳句交流」のページは三上泉「冬の芽」7句とミニエッセィ。ともあれ、本誌本号よりいくつか句を挙げておこう。    だんだらぽっち駄駄羅八重の雲       三上 泉    愛憎ノ愛//七重/八重/雪積んで      田尻睦子   彩濃くす紫式部 亜沙弥逝く         津野丘陽    蟷螂が蟷螂を喰うしずかな午後       つはこ江津    棄ててきた町にも柿の照り返し       夏目るんり    一遍・芭