折井紀衣「くさめしてもう一つして生き生きす」(「禾」第20号・終刊号)・・


 「禾」第20号・終刊号(編集 折井紀衣)、同人4名の各人が「あとがき」をしたためているが、終刊に触れられてはいない。ただ、便りに「終刊といたします」とあった。毎号、興味深く楽しみしていたのは藤田真一の「禾のふみ」のエッセイ(評論)だった。本号の題は「秋雨」。胡乱な愚生などは、教えられることの多い玉文。その中に、


 (前略)そもそも題の「秋雨」も、「アキサメ」ではなく、「あきノあめ」と読んでいた可能性もある。現代のわれわれは「秋雨」の文字をみたとき、反射的に「アキサメ」と読む。これはおそらく「春雨」を「ハルサメ」と読むのと対のように意識するからにちがいない。気象予報士の影響も無視できないだろう。しかし、紅葉。松宇の明治に予報士はいなかった。むしろ念頭にあったのは、和歌の詞、つまり伝統的な歌語のかたちであり、うたいぶりだったはずである。松宇の書簡にもそれが端的にあらわれている。

 歌題として「秋雨」とあれば、むしろ「あきノあめ」と読んで当然である。例えば『夫木和歌抄』(一三一〇年ころ)秋之部に「秋雨」の題のもと、十八首があがっているが、「アキサメ」とよんだ歌は一例もない。それどころか、「あきのあめ」の語をそのままうたった和歌すらない。歌題と詠歌は別ものだったのか。(中略) 

 『歌袋』『詞の千種』『八雲御抄』『群書類従』を調べあげた紅葉らの前に、所詮虚子らに勝ち目はなかった。秋雨を俎上にのせた紅葉の蕪村批判は、子規一派の無智ぶりを難じる発露であり、伝統に頓着せず、小手先だけの理解に警鐘を鳴らしたともとれる。この紅葉発言は、『句集講義』(秋之部)刊行の直後にあった。直接は、これを目にした紅葉の鋭い反応だったのだろう。

 

 とある。また藤田真一「あとがき」には、


 「キラキラ星」、もとはフランスのラモーの曲で、単純でかわいい曲として知らない者委はいない。これをモーツアルトが十二の変奏曲に仕立てた。日本では「キラキラ星変奏曲」といっている。(中略)

 転じて日本には、変奏(・・)の技法も思想も生じなかった。微小に発して壮大に至る思考法はついに育たなかった。


 とあった。ともあれ、本誌本号の句を挙げておこう。


  ヤングケアラーの少年急ぐ北風の中    中嶋鬼谷

  ふるさとの眠れる山を去りにけり      〃

  点したきこゑのありけり冬がすみ     川口真理

  水時計はるかへすべり枯葎         〃

  ぼろぼろの愛しきタオル雪が舞ふ     折井紀衣

  ご開帳冬草戦ぎはじめたり         〃



        撮影・鈴木純一「駅弁は発車のベルで開かれる」↑

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