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大井恒行「ひゅるひゅるひゅうさまよい狂う日の水よ」(『WEP俳句年鑑 2026』より)・・

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 『WEP俳句年鑑 2026』(ウエップ)、エッセイ、論考の示唆に富むレベルにおいて、他の俳句年鑑類を越えている。いちいちを紹介できないので、直接、本年鑑に当られたい。 そのエッセイと論考の執筆陣を記しておくと、「この一年のわたしの、わたしたちの俳句」には、波戸岡旭、南うみを、井上弘美、稲畑廣太郎、酒井弘司、大井恒行、小島健、仲村青彦、仲寒蟬、松岡隆子、五島高資、宮崎斗士、田島健一。「近ごろ思っていること」には、角谷昌子「俳句の力を生かしたい」、筑紫磐井「現代連作論の繚乱」、岸本尚毅「『五空百句』」、井上康明「芭蕉遠近」、菅野孝夫「俳壇の二つの『大』問題」、林桂「夢見る俳人ー前田霧人『西瓜考』から考える」、川名大「昭和俳句の遺産の断絶・語りの陥穽」、渡辺誠一郎「戦地への慰問としての俳句ー『仙臺郷土句帖』ー」、坂口昌弘「俳句と評論は何の役にたっているのか」、柳生正名「〈たの〉はかくして生まれたの」、西池冬扇「俳句におけるモノの形状や構図~情感だけが俳句でない~」、福田若之「不易流行のこと――二冊の新刊句集から考える」、坪内稔典「勝手につくり生みだした~鳥本純平『朝顔の駅』~」。  ともあれ、以下には「自選七句」のなから、愚生と同じ「豈」同人の句を挙げておこう。    裸婦像の重心は右冬に入る         飯田冬眞   ビー玉に虹を封じて擲弾兵         井口時男    征く勿かれ殺める勿かれ年新た       池田澄子    オオウミウマ乗るは弥勒の心映え      大井恒行   疾すぎる回転木馬多喜二の忌        川崎果連      寒卵   市に隠るる   擬卵かな                酒巻英一郎   乙姫の   澄まして   隠す   弾薬庫                  髙橋修宏   きちきちが飛び交ふ向かうきつと罠だ   高山れおな    せきれいが綺麗に飛んでパラドクス     筑紫磐井   原子炉の夜を太らせ蛇苺         羽村美和子   家族ってだいたい揃わない土筆       森須 蘭   ただ落ちてゐるのではない木の実踏むな   山﨑十生 撮影・芽夢野うのき「冬の日のときにうしろすがたのフーテンのとら」↑

妹尾健「いにしえは『ひ』音を『い』と読む冬ごもり」(「コスモス通信」第82号)・・

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 「コスモス通信」第82号(発行・妹尾健)、論考は「中川浩文『現代俳句表現考』についてーその現代俳句論をめぐって・続ー」、「鈴木六林男第三句集『第三突堤』に関する覚え書ー情況について④ー」、作品は「冬の日」66句。その中川浩文について、 (前略) 「今後にも成長を期る用字面の注意が細微にわたらねばならぬ」とするのである。そのためには「活字によって伝達される現代の俳句にも、ちょうど現代詩の人々が活字の一コマや空白、行割りに気を配ると同様な注意がなさるべきです。」と主張する。 (中略) ここまで読んでくると、私はここに伊丹三樹彦の三リ主義(リリシズム・抒情)・リアリズム(現実主義)・リゴリズム(厳粛性)を根本とし四主張「定型を活かす、現代語を働かす、季語を超える、分かち書きを施す」を実践するという第二次青玄の俳句現代派の理論的萌芽をよみとることができるとかんがえたいのである。伊丹三樹彦の主張にいちはやく注目しその理論化によって、その方向を支持した多くの人々の中に、中川浩文もそのひとりであったと思うからである。 (中略) 今となって中川浩文の主張を読んでいくと、彼の現代俳句表現考の中には、明日の俳句に向かっての革新的な思いと、来たるべき俳句(それは過去の趣味的俳句ではなく、明日の俳句の読者へむかっての可能性開拓の呼びかけ)への思いをうかがい知ることができるのである。それだけにそこに当時の私などは俳句の表現方法のみを強調する青玄主流との「落差」を感じたものである。現に当時私は中川浩文に、或る時、  「先生、吟行を計画しているのいですが」  と水をむけたことがある。すると  「妹尾君、ぼくは吟行で、いい俳句ができるとは思いません」  とにべもない返答があって、ポカンとしたことがある。吟行を拒絶するとは!という理解不能の場面に遭遇したのである。まさに俳句現代派中川浩文の面目躍如ともいえる発言であったのだ。   とあった。ともあれ、以下に、本紙本号から、いくつかの句を挙げておこう。   地下足袋凍る徹夜の君ら会えば笑む       鈴木六林男   ボスに対う意志の黒靴足裏濡れ           〃      冬ざれて主人公のみ生き延びる          妹尾 健   怒りにもつもるものあり十二月   咳き込んでさてもむつかし国語論    咳ばかりして会議にはくわわらず...

石牟礼道子「月影や水底の墓みえざりき」(『石牟礼道子 たましいを浄化する文学』より)・・

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  武良竜彦『石牟礼道子 たましいを浄化する文学』(コールサック社)、その帯には、 チッソ・水俣事件の渦中の死者も含む民衆の心に寄り添い、「ものがたり」、「命の荘厳 (しょうごん) の輝きを浴び、たましいの浄化に至る、石牟礼道子の文学的価値を現代文明社会に問う。水俣病の加害側と被害側が交錯する家庭に育った著者による石牟礼文学の神髄に迫る渾身の評論集 とあり、「はじめに}には、   わたしは石牟礼道子と同郷の熊本県水俣出身である。  随筆的な 「わたくしごと」を冒頭で表明するには理由がある。  石牟礼道子文学にどんな視座で出会ったかということが重要だと思うからである。  わたしの母方の親族は「水俣病」の被害に遭った漁師一族である。  父は「水俣病」の原因企業「チッソ」水俣工場の工員だった。  わたしが育ったのはそんな「水俣病」の加害側と被害側が交錯する家庭だった。  「水俣病」が顕在化し始め、母方の親戚が、初期の「劇症型水俣病」の被害に遭い、家庭が崩壊してゆく有様を間近に見て育った。  薄暗い部屋の隅で全身を痙攣させながら呻き声を上げる親族の姿が、今も心に焼き付いている。 (中略)  故郷を出て大学に通っていたとき、石牟礼道子の『苦海浄土 わが水俣病』が刊行された。  ことばなど与えようがない、表現の方法もないとわたしが思い込んでいたことに、石牟礼道子はことばを与えていた。それは瞠目すべきことだった。  わたしは行動する作家、石牟礼道子とその文学に、そんなふうに出会った。 (中略)  石牟礼道子その人と、その文学が評価されなければならない最も重要なことは、その生きる姿勢、「ものかたる」姿勢であり、死者と病むたましいを浄化してくれる、独創的な行為の在り方と、その文学的価値ではないだろうか。 そして、「あとがき」には、  一九六九年に上梓された石牟礼道子の『苦海浄土 わが水俣病』に出会ったときから、石牟礼道子文学の研究という、わたしのライフワークが始まりました。それから五十有余年、今、一区切りが付こうとしています。   とあった。本書のごく一部を引用しておくが、読者諸兄姉は直接本書に当られたい。  (前略) 「チッソ・水俣事件」の体験を突き抜けて、社会的な「告発」などという、表層的な善悪二元論的情動を超越して、石牟礼道子が切り拓いた境地である。  身内の死者の記憶を抱え込...

森和子「ひとりごときいてくれるかふゆりんご」(TAMA市民塾「現代俳句入門講座」第5回)・・

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  2月9日(月)は、TAMA市民塾「現代俳句入門講座」第5回(於:多摩交流センター)だった。宿題は「ひらかなで作る俳句」。俳人紹介は三橋敏雄。以下に一人一句を挙げておこう。    せいしゅんはえでんのひがしけせらせら    佐藤三千男    かぜにきくとらんぺっとのしらべつぐない   早川ひろ美    はるはやてれいれいしゃおしゃおさささわわ   石原美代    しんしんとおとなきしろさつららたれ      中田京子    さいじきにれいくふたつやかんあけき      宮石 修    かいよせにのりててんきんするむすこ      富山 勉    みもざさくたびにとどおりななばんち      吉田久美    ちゅうりっぷつぼみにへいわあたためて     渡辺一枝    むざんやなたみのこころはふわふわと      小川幸子    かなしみはいつしかあわいにじのいろ      中西雅子    こいよこいはるよこいよとまちにけり     小田嶋英子    ここはどこうらしまたろこそだったち      梶木純子    かぶきいろわのいろあわくほんのりと      太田直子    うしろまどはみだすふじのみねましろ      篠木裕子    さわやかなかんきつ「あまくさ」ほしみっつ   花見育子    さむきなかこうばいのいろそらにはえ      村上佳枝    ふゆうららのんびりゆったりのほほんと     田中典子    あおきそらししまいきたりてとしあくる    二郷寿摩子    おおぱんだわれかんせずとささをくう      上阪則子    きんめだいたべほうだいとたびさそう      森 和子    ふゆあおぞらあんそくのないうくらいな     大井恒行    次回、3月9日(月)は早くも最終回。句会前に、各自で、大國魂神社付近を散策して、2句持ち寄り(嘱目吟)。吟行句会です。     撮影・芽夢野うのき「遠近の木に手を振れば雪が舞う」↑

有住洋子「すこしずつ形のちがふ椅子二月」(『夜は九夜 日は十日』)・・

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 有住洋子句集『夜は九夜 日は十日』(ふらんす堂)、「あとがき」に、   この一冊の前半は新句集として、後半は以前の句集からいくつを選んで載せ、ところどころに、やはり以前書いた文の断片を挟んだ。 (中略)   この数年、クロノス(時の長さ)とカイロス(その時)について考えていた。時の流れの中のいつか、どこか、だれかと、山を見ることで、本を読むことで、音楽を聴くことで、野を歩くことで触れるかもしれないのだった。風の日もあった。雲間から日の射すときもあった。この世を旅していると思うときもあった。  とあり、またある章立ての扉の一文には、  橋を渡り、また橋を渡った。渡るとき,前方の建物と建物のあいだに、うす暗い路地が見えた。右を向くと、すこし先に橋が架かっていた。左を向くと、やはり同じように橋があった。                                『陸の東、月の西』より  とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、本集よりいくつかの句を挙げておこう。    風を呑み追儺の門の閉ぢらるる         洋子    春雪の裾野へ来ないかち少女    山椿きしみつつ夜の過ぎゆけり   神輿来てひかりをはじく魚一尾   親族のひとりが怖し蓮の飯   影満つるまで揺曳の冬館   池かとぞ思ふ墓域の木下闇   みちのくのめはじき雲をひもすがら   しはがれしこゑ鶏頭にこゑあらば   花ひらく前のしづけさ水に皺   屋上に人影うごく鳥曇   神々の国に風吹く余り苗   ギヤマンを取り出す影を残し置き   果樹園に靄生れ梨を採りつくす   山椒魚いなづまの夜となりにけり   一面の屋台の裏が枯れてをり   魂祭まへもうしろもけむたかり   いなびかり水中を母歩きをり   有住洋子(ありずみ・ようこ) 1948年、東京生まれ。 ★閑話休題・・スエモリヒデキ(exナマステ楽団)with 吉田悠樹(二胡・マンドリン) (於:阿佐ヶ谷よるのひるね) ライブ・・  2月7日(土)14時45分~阿佐ヶ谷よるのひるね で行われたライブ「スエモリヒデキwith 吉田悠樹」に、久しぶりに出掛けた。よるのひるねの店主、門田克彦は、愚生が、弘英堂書店吉祥寺店に勤めている時に、版元の書肆山田やふらんす堂の営業代行で訪ねて来られていらいの知己だ(30年前?)。現在では、「よるのひるね」...

内村恭子「狐火が種火かどうも寒すぎる」(『多神』)・・

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 内村恭子第二句集『多神(たしん)』(東京四季出版)、跋は、福永法弘「満点の回答」。それには、  内村恭子さんの第二句集『多神』は、第一句集『女神(ヴィーナス)』からおよそ十年を経ての珠玉の作品集である。第一句集の序文で有馬朗人先生は「恭子さんの句には軽妙さ、明るさ、ウイットが溢れて」おり、「その裏側には豊かな詩情と審美眼が働いている」と称え、「対象を見る力を一層深め、第二句集への新しい一歩を踏み出」して欲しいとの大いなる期待で結んだ。 (中略)     万歩忌の冬のポケット膨らませ  「万歩忌」との名付けは、晴雨寒暑を問わず一日一万歩がノルマだった先生へのリスペクトであり、背広やズボンのポケットに何でも押し込んでおられた在りし日のお姿の活写である。 (中略)    夏木立これが森有正のパリ   野を急ぐ夜露に鳥籠を濡らし  吟味された素材とリズム。そして、それらが生み出す独自の美的世界。まさしくこれが、先生の期待に対する満点の回答である。 とあり、また、著者「あとがき」には、 (前略) この十年間は、俳句の師、有馬朗人先生が逝去、父、義父、母を亡くした、そんな時間でもありました。  随分前に、ルーヴェン・カトリック大学のヴァンデワラ先生と有馬先生の対談に立ち会ったことがあります。そこで、ビッグバンの前に何があったと思うか、という問いにヴァンデワラ先生は「神」、有馬先生は「無」「エネルギー」と答えられました。私にはどちらも正解と思えます。  とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、本集より、いくつかの句を挙げておきたい。    神々は山に遊べり春の雷        恭子    まづ鳥の影を映して水温む   灼くる地の国境点線ににて真直ぐ   十三夜別の神ゐる国照らし   臨時休業シェフはけふ兎狩   つちふるや砂曼荼羅に水の色   舟は人乗せ花筏誰を乗する   絵日記に嘘のはじまる夏半ば   鰍釣つげ義春に会ひさうな       有馬朗人先生逝去   師へ手向くならば真つ赤な冬紅葉   カリアティド憂ひ顔なる秋夕焼   汗ぬぐひ寄席もクラウドファンドの世   野を愛すなり盆花は野より   まだ奥のあると言はるる花野かな       内村恭子(うちむら・きょうこ)1965年、東京生まれ。        撮影・鈴木純一「言うて見て聞いて触れ嗅ぐラケット忌」↑

大和まな「満州の話で終はる端居かな」(「円錐」第108号より)・・

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 「円錐」第108号(編集員 山田耕司/今泉康弘)、愚生は、古田秀「恍惚の旅人」とともに大井恒行「優れた俳句は無季も有季もある」を、特別寄稿扱いで、書評『澤好摩俳句集成』を寄稿した。ここでは、「円錐」同人の方の「証言/現代への道ーー大和まな『まぼろしの国に生まれて』(構成/今泉康弘)の部分になるが、紹介したい。  私は昭和十五年(一九四〇年)一月一日、いまの中国の長春 (ちょうしゅん) で生まれました。長春はそのとき、満州国の首都であり、新京 (しんきょう) という名前でした。  親が私に付けてくれた名前は和子 (かずこ) です。「平野和子」。この四文字を並べ換えると「平」「和」「子」になる。「平和の子」。それが私の名前に込めた親の思いです。しかし、私の子ども時代は「平和」どころではありませんでした。 (中略)  父は通信の傍受をしていたことから、様々な情報を入手できたので、敗戦を一ヶ月前から知っていたといいます。ところが、その前に関東軍(満州を支配していた日本の軍隊)は、日本人を置いて、真っ先に逃げてしまいました。 (中略)  父が留守の日のことです。母と私と弟が家で夕飯を食べていると、家のドアをドンドンと叩く音がして、誰かが勝手に押し入ってきました。ソ連兵です。 (中略) 外套を着ていて、背中に機関銃を背負っています。白人の顔ではなく、アジア系だったと思います。私と弟は母の左右に坐っていましたが、母にしがみつきました。母はすぐさま、私と弟に、「早く泣きなさい!泣きなさい!」と言いました。私たちはあまりに怖かったので、何が何だか分からないままに、大声を上げて泣きわめいたのです。母の膝にしがみついて、泣き叫び続けました。ソ連兵は、そにまま私たちを見つめています。しばらくそうしていて、やがて、ソ連兵は、そのまま出て行きました。子どもの頃は、あの兵隊が何をしにきたのか、母がなぜ私たちを泣かせたのか、意味がわかりませんでした。大人になってから、。あのソ連兵は母を犯しにきたのだ、と分かったのです。 (中略)  敗戦から一年後、昭和二十一年九月に、ようやく日本へ引き揚げることが決まりました。 (中略)  佐世保の港に上ると、すぐに頭の上から白い粉をたっぷりかけられました。DDTです。全身真っ白になりました。佐世保の施設で二、三日、過ごしてから、列車にのり鹿沼へ向かいま...