井口時男「おぼろ夜の花にまぎれてもの狂ひ」(「鬣 TATEGAMI」第98号)・・
「鬣 TATEGAMI」第98号(鬣の会)、特集は「アンソロジーの俳句史 その2」、「井口時男評論集『近代俳句の初志』、加えて「第24回 鬣 TATEGAMI俳句賞発表」である。今回の受賞は、秋尾敏『子規に至る 十九世紀俳句史再考』(新曜社)と高橋修宏『暗闇の眼玉 鈴木六林男を巡る』(ふらんす堂)。 ここでは、高橋修宏「召喚される〈俳句史〉--『非空非実の大文学』をめぐって」の一部分になるが、紹介しておきたい。 (前略) ところで、子規の「非空非実の大文学」をめぐっては、一九七〇年代の〈俳句史〉において、俳句論の起源のひとつとして俎上に載せた一人の俳人がいた。坪内稔典である。彼は『正岡子規』(一九七六年)、『過渡の詩』(一九七八年)などにおいて、それまでの子規像の更新と俳句の根拠をラディカルに問いなおすなかで、「非空非実の大文学」という子規の初志に、すでに出会っていたのだ。そのなかで坪内が掴み出したのが、「過渡の詩」というコンセプトであった。これについて坪内は、「人の過渡性にこだわりつづけることが、俳句の一切であり、そういうこだわりをジグザクに持続してゆくほかには、俳句を書くことの理由がない(…)俳句は、そのような在り方において、同時代の詩としての位相を持っている」(「過渡の詩」より)と記している。 一方、井口は本書の「あとがき」において、「俳句は『雑の詩』である。ゆえに、対象やテーマを狭く限定してはならない。森羅万象、人事百般、思想観念、喜怒哀楽の一切が俳句の対象。「花鳥」も「社会性」も言葉遊びも述志も、みんな雑の一つに過ぎない。これこそ『俳諧自由』の精神である。」と述べている。 井口時男の「雑の詩」と坪内稔典の「過渡の詩」―—。「非空非実」の大文学」という子規の初志を踏まえ、そして引き継ごうとする、この二つのダイナミズムを内蔵させた俳句理念が出会うとき、「無風」と呼ばれつづける俳句の世界に、想定外の大風が吹くのかもしれない。 とあった。ともあれ、以下に、本誌よりいくつかの句を挙げておこう。 鉄棒は鉄の仕方で冬ざるる 吉野輪とすん 電柱も影の国とて秋の暮 九里順子 ときめきを禁じるように文庫閉づ 佐藤裕子 喪服の穴黒く塗れよと生身魂 滝澤航一 ...