竹岡一郎「卒塔婆這わせてもさみしがるかたつむり」(遺稿句集『人類を薙ぐ』)・・
竹岡一郎遺稿句集『人類を薙ぐ』(俳句短歌We社)、解説の抜は関悦史「快力乱神と立てあう音なき音」。それには、 焚火して龍の眠りをおびやかす 「怪力乱神を語らず」とは「論語」のなかの言葉だが、竹岡一郎は怪力乱神を句にする。むしろそれを詠めずして何のための俳句かとすら思っていたかもしれない。題材はおのずと怪談、ホラーに近づく。ただし他愛もない意匠としての怪異ではない。むしろ力での対決を前にし、自分の誇りと身を担保にして腕っぷしの強さをデモンストレーションしているような気迫と、そんなことをしてしまう、せずにいられないがゆえの稚気と目出度さを同時に感じさせるものだ。ドスの利いたイメージの句も少なくないのだが、それらの背後には無垢さ、善性、大らかさが漂っているのである。傷は傷として、痛みは痛みとして抱え、責めは責めとして負っていて、それらもどこか過剰さを帯びたアレゴリカルな句をなさしめる一因でがあるのだが、全体としてルサンチマンは不思議に希薄なのだ。「思邪無し(おもいよこしまなし)といえば『詩経』についての孔子の評言で、怪力乱神を句に招き入れながらも竹岡一郎の座標は、孔子の理念と、じつのところメビウスの輪的に、捻挫しそうな位相でつながっているのではないかという気もしてくる。 (中略) 人類を薙ぐを夢見る鎌鼬 「鎌鼬」が冬の季語ではあるのだが、季語からの発想や連想ではおよそ出てきそうにない句で、ここでも非現実の存在「夢見る鎌鼬」が異様な重量と実体感を帯びて居座っている。「人類を薙ぐ」ことに必要な力量とその手応えが読者にダイレクトに伝わってきてしまうからである。 人類よりは鎌鼬の方に作者はシンパシーを抱き、その夢を別け持ってはいるが、必ずしも鎌鼬イコール作者ではない。薙ぐ方と薙がれる方、その接点から痛みは生じるのである。(中略) 〈殴打の継承断つに霞の心身を〉という句もこの句集稿にあるが、自他の暴力性に対するひとつの胆識(あるいは受容)がそういう視座を形づくったのだろう。 とあり、加藤知子「刊行の経緯について」には、 (前略) 竹岡一郎と私との俳縁は、『けもの苗』(二〇一八年)から始まる。それまで何の接点もなかったし、ほとんど未知の人だった。が、同句集を拝受してから、「We」8号(二〇一九年九月)に、「『けものの苗』考ードッペルゲンガーを中心として」を書...