福永耕二「新宿ははるかなる墓碑鳥渡る」(『墓碑はるかなり』より)・・
仲栄司『墓碑はるかなり/福永耕二論』(邑書林)、著者「あとがき」に、 福永耕二という俳人は、前衛俳句が下火になりつつある昭和四十年に忽然と現れ、その後あっという間に伝統俳句の大結社を牽引するようになった。俳句史からみれば、ほとんど水原秋櫻子の晩年を飾るために出てきたかのようである。四十五年もの齢の差がありながら、昭和俳句の第一人者に直接師事し、死ぬ間際まで師を仰ぎ続けた。俳句史上、稀有といっていい存在であろう。 (中略) 私は「耕二論」を書き始めたときは、秋櫻子が非常に大きな存在として耕二の生涯を覆っていると考えていたが、書き進むうちに登四郎、翔、遷子の存在も相当大きいと考えるようになった。そして、第三部で第一句集から第三句集まで年を追って書き進むうちに、遷子の存在が殊のほか大きくなってきた。耕二は明らかに秋櫻子ををめざして生き抜いたが、生き方や価値観の点で遷子に一番近しいものを感じていたのではないだろうか。秋櫻子の存在は絶対的なもので、どこか崇拝に近い部分があったが、遷子は違う。昭和四十六年の同人作品合評会のときには、遷子の句に対し率直に自分の意見を述べているし、編集長になってからは毎月電話で話をし、よく相談している。 (中略) 遷子の死の年に詠んだ《雪原を流るるもののあり抉る》《雪原に見て乱杭のごとき墓》の二句は、耕二の俳句の中でここにきてもっとも私の心を抉る作品になっている。耕二の慟哭が聞こえるのである。(中略) そんな調子で「耕二論」に取りかかったのだが、まず衝撃的だったのは、初句集の劈頭句と最後の句集の掉尾句との落差である。 浜木綿やひとり沖さす丸木舟 (『鳥語』)昭三十三) ぼろぼろの身を枯菊の見ゆる辺に (『散木』昭五十五) 強い志を表した劈頭句。満身創痍といっていい掉尾句。この二句が同じ作者から生まれた俳句なのかという驚きが体内を走った。この間に流れる時間が福永耕二という俳人の人生だと思ったとき、俳句を考える上できっと何か得るものがあると直感した。 (中略) しかし、組織の中にいながら、福永耕二という俳人は次元が違っていた。あくまで俳句に真っ向から向き合い、生きていた。耕二とって俳句とは秋櫻子の「馬酔木」 (・・・・・・・) そのものだった。その思いの純粋さは相馬遷子とつながっていく。「馬酔木」に貢献し...