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遠藤容代「初蟬や遺品にわれの手紙あり」(『明日の鞄』)・・・

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 遠藤容代第一句集『明日の鞄』(ふらんす堂)、序は日原傳。それには、  (前略) 容代さんの俳句の特徴としては、まず自由でのびやかな把握とやわらかな言葉使いが挙げられよう。それは動物を詠んだ句に顕著である。   頑張れるとは亀の子の泳ぎかな  第Ⅰ章所収。俳誌「天為」の雑詠欄「天為集」において有馬先生によって巻頭句に選ばれた句である。先生の評は「亀の子が池に入り一生懸命に泳ぐ姿を描いている」とした上で、「私は子亀が池に入る姿と書いたが、実は浜松市の中田島海岸で海亀の子が海に入り、命を掛けて沖へ泳いで行く様子を思い出していた」ともう一つの読みも示している。旧制中学時代を浜松で過ごした有馬先生ならではの読みであろう。 (中略) 亀の子の泳ぐさまを「頑張れる」と捉えたところがユニーク。健気に泳ぐ亀の子を傍にいて応援する作者の気持ちが窺われる。  とある。また、跋は、母の遠藤由樹子「『明日の鞄』に寄せて」、その中に、  (前略)  冬めくや正義教わる紙芝居      自転車が必要なほど枯野なり      初夏や旅で出くはす選挙戦      夏の草犬が粘りて骨もらふ  本人が思う以上に俳句との相性が良い作者だと思う。この四句は、まったく飾らない言葉で有りのままの情景を切り取っている。その場で意図せず選び取った季語が新鮮に働いて、一句の内容を確かなものにしている。  とあった。そして、著者「あとがき」には、   本句集は、俳句を始めた二〇一五年から二〇二四年までの十年間の句から三百二十一句を選んで収めたものである。母が俳句をしていたのをずっと間近で見てきたが、やってみようとは不思議と思わなかった。それが病や環境の変化が重なり、俳句の道に足を踏み入れるようになった。今はその巡りあわせに感謝している。  と記している。集名に因む句は、    手袋を明日の鞄に入れておく        容代 であろう。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておこう。    秋の雨世界は少し受動態   月へゆく近道ほしき雑居ビル   鳥渡る図書館は目の合はぬ場所   先生の最後の生徒冬の虹   切株はまだ木を思ふ春の雨   ふらここの顔見合はせて漕ぎ出せる   影まはり続けてゐたり風車   春惜しむすぐに大きくなる熊と   パレードにあと戻りなし冬の星   冬晴の鳥語だんだんわ...

子伯「無限からすべてを落とす砂時計」(『無限から』)・・

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    子伯遺句集『無限から』(吟遊社)、序は夏石番矢「砂時計への道」、それには、   遺句集にたずさわるのは、やはりつらい。しかし、私の現況がどうあれ、完遂しなければならない。  この句集は本来、著者の子伯さんが存命中に出版されるはずだった。生前のニ〇二五年二月二十七日付けのメールで、子伯さんは『いのち』という題での出版を望むと知らせてきたが、私が頸椎症手術直後だったため、着手できなかった。 さらには、『いのち』という題では、子伯さんの俳句の固有性にふさわしくないと思っていた。  そうこうしているうちに、子伯さん他界の電話が、ご母堂の横山美代子さんからかかってきた。あまりのあっけなさに呆然とするしかなかった。 (中略)  冒頭の「いのち」の章の俳句の配列を変え、他の章も含めて多すぎる句の数を減らし、重複句を削り、合計四二五句となった遺句集『無限から』は、二十一世紀前半に出版された日本俳句屈指の名句集であると断言できる。むろん、名句もいっぱいある。   とあり、ご母堂の「あとがきに代えて」には、  亡くなって、息子の存在が殆ど心を占め、生きる原動力だった事に気づく。自分の苦しみを抱えながら、「僕はうしろを振り向かない」「お母さんが安心するように一度は笑顔を見せる」「お母さんの子どもに生まれてきてよかった」と息子。私が「人にはなかなか受け入れてもらえない」と語った時、「僕はお母さんのすべてを受け入れるよ」と答えてくれた言葉を一生忘れる事ができない。宇宙のどこからか、私を助けるために選んで来てくれたとしか思いようがないほど、よく出来た子だった。その子を失ってしまった苦しみは、想像以上だった。ともに暮らした日々に、希望、光、幸せを感じさせてくれた。 (中略)  文学や音楽などのジャンルに限らず際限もなく話をしたけれども、凝縮した言葉であらゆるものを表現できる俳句に、息子はかけがえのない時間すべてを注ぎこんだ。苦しみにつねに直面しながらも、人生の意味を問い続けて、句作に励み、頑張ってこれた。  息子が夏石番矢先生から教わったのは、俳句の壮大な広さに違いないと思う。息子が生きてきた証 (あかし) は、この遺句集『無限から』に集約されている。息子の心を通して生きてきた私は、息子を失ってから、すべてに拒絶反応を示すようになってしまった。しかし、息子は生きている。この遺句集に収録さ...

研生英午「ほむらたつ山河の空や秋の暮」(「鹿首」第19号)・・

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 詩・歌・句・美の共同誌「鹿首」第19号(鹿首発行所)、その「表紙の言葉」に、  千葉の九十九里の片貝海岸には、海辺の外側に野原が広がっている。そこには錆びついた大きな鉄板が放置され、橋のように連なっている。その橋を渡る人はいない。誰にも気づかれずに幾歳月もの間、眠り続けている。  誰も渡ったことがことがないこの橋を、いつか渡りたいと思った。  役に立たない橋だが、その先には荒れ果てた曠野があるのではなく、未踏の地平が広がっている。  とあった。特集は「息」。執筆陣は、天草季紅「言葉と自然ー音の心をさかのぼる」、小林弘明「舞台と魅惑」、早坂健伸「山水的陽水論2」、中村茜「自閉症と知的障害と言葉と生活についての一考察/ー余白と意味」、室井公美子「東北見聞録3」。  他に、研生英午の連載評論「イマージュ・浮遊する眼前の行方20 河東碧梧桐の俳句」など。ともあれ、以下に、本誌本号中より、いくつかの歌と句を挙げておこう。    皇紀尽 人間宣言するAI           内田正美    モヂリア二不眠の眼梅雨の月         奥原蘇丹    隧道や一山ごとに春や春            翁 譲    鉄馬かり春宵の路の黒き河          鈴木淳史    水面の空沈みゆく岩の伽藍           風山人    澱みある世界を濯ぎし源内のなづきの皺の深さを計れ         川田 茂    にてゐない鬼の子なればにくらしい 打ちてはつよく抱きしめて言ふ  天草季紅    沖縄胡座は米軍の街今なほBARの二階はちよいの間          内藤隆子    ないよりはだいぶいい虫コナーズぶらさげているヒロシマの鐘     山下一路    なにひとつ変わっていない別世界あなたにもチェルシーあげたい    穂村 弘    土さはる驟雨ひととき花衣           研生英午      撮影・中西ひろ美「うつし世の朝涼に誘われて出て」↑

対中いずみ「話したく蓮の蕾は握りたく」(『蘆花』)・・

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 対中いずみ第4句集『蘆花』(ふらんす堂)、著者「あとがき」には、 (前略) 琵琶湖は大きな澄んだ真水です。蘆はその水質浄化を担っています。春先、蘆の芽を尋ねて湖岸を巡ります。 靴先が濡れるほど渚に踏み入り、小さな芽を見つけると「ああ、今年も会えた」と嬉しくなります。蘆の成長ははやく、すぐに瑞々しい青蘆になり、やがて仲秋には穂がぱらりと開きます。蘆の花です。よく見ると、一本一本の穂は緑に銀が混じったような色で、日を返してきらきらしています。ところどころに赤い穂が混じっています。これもやがて枯れ、折れても折れず、蕭条とした冬景色となります。蘆は小さな芽のときと花ひらくときに、ほんの少し赤い色を見せてくれます。蘆という植物はどうやらその隋に赤を秘めているようです。詩情とはそのようなものかもしれません。 とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。   柊を挿して帆柱鳴りゐたり            いずみ   ぶらんこの鎖ごと抱きしめられて       悼 島田刀根夫さん   長老に青葉濃くなりまさりける   流木のつづきのやうに半裂は       母と最後の面会   くちびるにデラウェア吸ひこまれる   ひとつきはしぐれの虹のやうにゐる   雨ふれば鳥とべば紫蘇赤くなり   ゆふぐれのありしともなきゆきぼたる   蛇穴を出でて泪の溜まりたる   谿川の大方は影葛の花   桔梗の花がしをれて砂の色   海山に酒を垂らさむ裕明忌   花種を蒔く黒いのも白いのも   松暗し雪のあとなる浮御堂  対中いずみ(たいなか・いずみ) 1956年、大阪市生まれ。         撮影・鈴木純一「梅雨明けや見えぬ心は型にはめ」↑

村上一郎「つばさ蒼くひとり火を食ふ鳥ありてさくばくと世は荒れてゆかまし」(『撃壌』)・・

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 村上一郎歌集『撃壌』(思潮社・1971年6月刊)、その著者跋文の結び近くに、  (前略) 僕、イマ五十年。前半生ヲ省ミル二、往事茫々、良友、多ク兵馬ノ事二斃ル。生クルモ亦毎日ノ戦ヒ繁クシテ馬齢を加フル多シ。戦前ヲ恥ヂ、戦中ヲ恥ヂ、マタ戦後ヲ恥ヅ。然モ、渡世ノ証トイヘドモ、今日カカル集ヲ編ム。有情、有羞、交々到ル。心事転々 (ウタタ) 荒涼。母タリシヒト二対ヒテハ、再拝シテ一本ヲ献ズルノユトリダニナシ。 (中略)  嗚呼、嗚呼。人生ハ戦ヒナリ。天地ノ間コレヨリ猛烈ナルハナシ。然ㇾドモ、幸ヒ二シテ人生二詩アリ。恋アリ。天地ノ声アリ。楽シキ哉、生ヤ。  とあった。もう一冊は、山口弘子著『無名鬼の妻』(作品社・2017年3月刊)、その「無名鬼」について、   一九六四年(昭和三十九年)六月、「試行」の同人会は解散し、以後は吉本隆明単独編集 となった。 (中略)  十月、一郎は単独編集の文芸誌「無名鬼」を創刊した。「無名鬼」は一郎が愛し、たびたび揮毫した、寒山の詩句から取られた。   生キテハ有限ノ身トナリ   死二テハ無名ノ鬼トナル   (中略) 「無名鬼」創刊号は寄稿が山中智恵子の短歌十首、桶谷秀昭の詩三篇のほかは、「短歌」「演劇」「学生」の時評、小説「朝子 (ともこ) 」、評論「文学情念論序説Ⅰ」とすべて村上一郎である。 とある。著者「あとがき」の中に、 (前略) ひるがえって、私にとっての村上一郎は、わたしがりとむ短歌会で出会った長谷えみ子さんを、崇め、熱愛した男性であり、妻に頼り切る病身の夫で、歌人だった。数々の病に苦しんだ村上一郎にとっては、えみ子さんと結婚できたことが―ーもしかしたらそれだけが―ー幸せだったのではないかとさえ思われる。 (中略)   だが、苦難の多かった人生を振り返って、出来る限りのことをしてきたから後悔はないと、えみ子さんは言う。その潔さこそ、九十三歳になるえみ子さんの魅力だと、改めて感じる。書きあげたいま、これを書くという目標が、夫の急逝後の私を支えてくれたとしみじみ思う。  「わたしのためでなく、あなた自身のために書いてね」  そう言って下さったえみ子さんに、感謝は尽きない。  とあった。ともあれ、『撃壌』から、いくつかの歌を挙げておきたい。     昭和十六年極月、対米開戦の前夜に。  憂ふるは何のこころぞ秋の涯 (はて) はか...

なつはづき「絶叫のような吸い殻幸彦忌」(『人魚のころ』)・・

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  なつはづき第二句集オ『人魚のころ』(朔出版)、帯の惹句は「光るために、言葉はわたしの鱗」とあり、表3側の帯文には高野ムツオ。それには、     蛇いちご母をまっすぐ見られぬ日  「蛇苺」はその妖しげな名と鮮烈な赤の印象から、禁断の異界を想像させる季語として使われることが多い。しかし掲句の蛇苺は、心の奥底を反映してくれる無垢できれいな深紅の実だ。季語「蛇苺」が生まれ変わった瞬間である。なつはづきの自在な発想力のたまもの。  とあった。また、栞文の筑紫磐井「 なつはづき――じつは、はなつづき」 には、  (前略) かまいたち急に喧嘩になる姉妹     凩や拳のようなポトフの具   句集の中で散在しているが、配列の順番はかなり任意ではないかと思う。実はこれらの句は、この句集の出るまさに直前、超結社句会を開いた時に出された句である。句会の猛者がひしめく中で、これらの句はいずれも高点をとったものだ。ただこうした句に高点が集まった理由も何となくわかった気がした。「急に喧嘩」「拳のような」の措辞が、巧みであり、難解さと平易さをうまくつないでいるところにあるようなのだ。これがなつはづきの特徴であるかもしれない。  とあった。そして、著者「あとがき」の中には、   第一句集『ぴったりの箱』から五年が経った。第二句集までのこのペースが早いのか遅いのかは解らないが、相変わらず俳句が好きで、ネット句会を含め多くの句会に参加し、何らかの俳句の賞に出し続けて(落ちることの方が多いのだが)そのたび泣いたり笑ったりしている。 (中略)   この五年間は特に「上手い俳句よりも届く俳句が作りたいなあ」と思ってきた。「届く俳句」という定義は難しいのだが、「理論や理屈に基づく理解」ではなくて「感覚の想起」が生じる俳句だと自分で勝手に思っている。言語化するのは難しいのだけれど確かにそこにある感情や感覚。理解しようと言葉に置き換えなくてもいい。ただぼんやりとそれを感じていただけたら嬉しい。また頭に中にしまい込まれ、いつしか忘れてしまったあの時の感覚をはっと思い出すきっかけを作りたい。この句集を読んだ後に「自分の余白が少し広がった」「いろいろと思い出した」と思っていただけたら幸甚である。  とあった。いくつか人魚の句があるが、集名に因む句は、    髪洗う人魚の頃を思い出す         はづき ...

伊東類「まつすぐに定斎屋さんの立ちあがり」(『自由論』)・・

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  伊東類第二句集『自由論』(東京四季出版)、祝句に松澤雅世、    どう見ても自由ですよと風光る      雅世 序も松澤雅世、その中に、    第二句集『自由論』は、    麓亭忌一番隅の自由論  より採用された句集名です。麓亭忌は言うまでもなく、八月十三日昭の忌日。昭三回忌の折の所産の一つです。昭俳句の審美眼や生きざまに感銘し心酔し、昭の生涯を通して師事した、追慕の一句に他なりません。それは、類氏の精神性を具現化した作と言えましょう。  俳句人生とも言うべき道程を歩んでこられた類氏にとって、句集『自由論』は、まぎれもなく、心象と造型のはざま、虚実皮膜の間に腐心を重ねながら、一句一句を苦吟したに違いなく、目差した一到達点と成り得ていると考えます。  とあった。そして、著者「あとがき」には、   句集『自由論』は、『類 (たぐひ)』 に続く、伊東類の第二句集です。  『類』が平成十八年七月の刊行ですから、二十年近くの歳月が流れました。この間、先師・松澤昭先生や「四季会」の諸先輩に別れを告げ、現主幹である松澤雅世先生には心象俳句についてさらなるご指導を仰いでいます。 (中略)   しかし、「自由」ほど「自由」でないことも事実です。自分がその言葉の意味を十分に理解しているかどうかはわかりません。また「自由」について論じるという重みは、俳句表現の世界ばかりでなく、生涯をかけてどれだけ自らを、その由るところとし、自らを律してきたかが問われることも覚悟しなければなりません。  昭先生は、「言葉は神様からの授かりものであり、俳句表現の妙とは風景へどのような心象の入り込みをするかにかかわる」と、おっしゃいます。心の風景を五七五という定型に寄せて、その描写の背後にある心のストーリーをいかに理解していくか。俳歴半世紀を優に超えながら、俳句に身を寄せながら、依然として一つの境地に達するというわけにはいきません。  とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、本集より、いくつかの句を挙げておこう。   凩に接する山は行きません            類    冬の風王家の谷を深くする   大年のあちらこちらをたてまつる   風上に立つてどうする蛇嫌ひ      東日本大震災   三月の何をどこまで詠ふやら     昭先生 三回忌    麓亭忌そのすぐあとを遠ざかる   和金琉金今は吐くしか...