岡井隆「定型の格子が騒ぎ止まぬ故むなしく意味をひき寄せにけり」(「ふらんす堂通信」188より)・・
「ふらんす堂通信」188(ふらんす堂)、特集は藤原龍一郎・大辻隆弘・林和清「イベントレポート・特別鼎談…塚本邦雄・岡井隆・寺山修司の前衛短歌運動を語る――梅田篇(全編)」。鼎談の中から、 (前略) 藤原:この塚本・岡井・寺山というのは、それぞれ前衛短歌運動の中で様々な役割を果したのですが、その三人がどういうような関係だったかというのは実際ちょっとよく分かりにくい部分がある。そこを林和清さんに少しご説明いただければと思います。 林: 今と違って当時は連絡する手段というのが郵便だけなんですよ。 (中略) だから三人とも最初は手紙を出し合った、というところから始まった。岡井隆と塚本邦雄の出会いの方が寺山修司よりも先なんですね。昭和三〇年(一九五五年)、岡井隆に塚本邦雄が先に手紙を出したんです。そのきっかけは、岡井隆が塚本邦雄の事を書いたんですかね? 大辻: 昭和三〇年八月号の「短歌研究」に「レパプリカ」っていう当時新人が編集するような三ページか四ページくらいの特集がありました。その中で岡井がモダニズム短歌を論じているんです。岡井さんはそこで、今のモダニズム短歌は全然面白くないって全否定する。が、一番最後に関西の塚本邦雄の歌を、もっと歌壇は注目すべきだ、たった一言書いたんですよ。 藤原: もうすでにその時点で歌集は出ていたんですよね、『水葬物語』は。 大辻: 出ていました。 林:この『塚本邦雄百首』にも書いたんですけれども、最初に出した『水葬物語』、一ニ〇部しか出していないんです。誰にも読んでもらうつもりはなくて、自分の盟友、杉原一司が亡くなったのでそれに献じるためだけに出した。あんまり謹呈もしていないんです。だから、あんまり知られてなかったていう。その塚本邦雄について言及してくれた岡井隆という人に、「ありがとう」って手紙ですよね。 大辻: そうです、それが最初の塚本からの手紙ですよね。 林: ところが、岡井隆からの手紙の返事が来るのがすごく遅いんです。一ヶ月以上経ってから。 (中略) 手紙のやり取りがあって、一ニ月一七日に岡井隆と塚本邦雄が初めて大阪で会うんです。天王寺美術館で「メキシコ美術展」というのをやっていて、その当時の「メキシコ 美術展」は、プロレタリアート芸術でした。だから岡井隆の好みだったと思うんです。塚本邦雄はあんまり好みじゃなかったと思うんですけ...