島田牙城「見えてをる人のなかなる秋の人」(「一」11月・通巻3号)・・
「一」11月・通巻3号(一俳句会)、叶裕「[無頼の旅]第三回/戦後沖縄の離島を救った女たち―金城妙子と公看たち」、その中に、 (前略) 戦後の惨状を重く見た米軍政府は、窮余の策として「医介輔 (いかいほ)」 制度を導入した。これは、正当な医師免許を持たないものの、戦時中に衛生兵や軍医助手として実務経験を積んだ男性らに一定の限定的な診療行為を認め、離島や僻地の診療所に配置する制度であった。彼らは地域医療の空白を埋めるべく奮闘したが、それだけでは医療が全島に行き渡ったわけではない。 (中略) そこで誕生したのが、医介輔以上に住民の懐へと深く飛び込み、医療の壁を物理的・精神的に打ち破る「公衆衛生看護婦(通称:公看)」であった。公看の多くは十代後半から二十代の若い女性たちであった。彼女たちの最大の特徴は、単に医療機関で患者を待つのではなく、配属先の離島や集落にたった一人で移住し、住民と同じ物を食べ、同じ生活を送るという点にあった。彼女らの詰所兼住居の扉は昼夜を問わず島民に開かれており、深夜の急患対応や夜間の産はもちろんのこと、日々の生活における愚痴や家庭内の悩みの聞き役としても機能した。 (中略) 当時の沖縄離島において、真の敵は病気そのものだけではなかった。根深く存在していたのは、病気に対する「無知」と「社会的偏見」である。マラリアや結核、寄生虫病を発症した場合、家族内から患者が出たことが周囲に知れ渡れば、結婚差別や失職、世間体からの孤立を招く。それを恐れた家庭では、病者を家屋の奥深く隠し、結果として手遅れとなって重篤化させる例が後を絶たなかった。 (中略) この革新的な公看制度を黎明期から強力に牽引し、のちに「公衆衛生看護婦の母」と仰がれることになる人物こそが、金城妙子 (きんじょうたえこ) である。沖縄県名護市に生れた金城は、戦前、東京の聖路加 (せいろか) 女子専門学校(現・聖路加国際大学)で高度な看護・保健学を修め、戦後の焼野原となった故郷・沖縄へと戻ってきた。三十代半ばを迎えていた彼女は、米軍政府が立ち上げた公看制度の構想段階から参画し、制度の骨格を作り上げていった。公看の代名詞とも言える「集落への単身住み込み制度」は、まさに金城の強い執念と構想から生まれたものである。 (中略) 金城の手によって育て上げられた百名を超える公看たちは、「とにか...