真野少「デモに行く者らはいずれ穏健な思想もつゆえわれは与せず」(『山葵の花』)・・
真野少第二歌集『山葵の花』(不識書院)、扉には、以下の献辞がある。 ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 福田若之 著者「あとがき」には、 『unknown』を出して六年経ったころ、福岡からTが来た。蕎麦を啜りながら少し呑んだが、帰るそぶりがないので、家に誘った。何を話したわけでもない、その虚を埋めようとして、帰りしなに『unknown』を渡した。二週間ほどして、Tから礼状が届いた。その手紙はどこかへやってしまったが。が、『 unknown 』から何首か引き、どの一首にも真野さんの顔が見える、そんなことが書かれていた。ぼくは〈ぼく〉の自己同一性を憎む。木村敏を借りれば、この「あとがき」を書はじ めた少し前の〈ぼく〉、Tと喋った記憶のなかの〈ぼく〉、無数の〈ぼく〉をこのぼくだと思う自己回帰にはいかなる根拠もない。一首の背後で分裂する〈ぼく〉を一人の〈ぼく〉だと保証しているのは、歌集を編んだぼくなのだ。 (中略) 『山葵の花』を編集しながら、しきりとそのことが頭をよぎった。歌集に現れる〈ぼく〉は一人ではない。 (中略) 一首の背後には、異なる顔をした〈ぼく〉がいる。だが、ぼくはそこに〈ぼく〉の自己同一性を措くことなしには歌集を編むことができない。それでいい、たった一人、この歌集を読んだ一人が元気になってくれれば、——。(中略) この歌集には、ニ〇一一年から二五年までの作を収めた。この間、仕事を変え、東京から京都に居を移した。それに伴う作は時をおかずに三冊目を歌集にまとめたいと思っているが、どんな歌が並ぶかはもう見えてしまっている。どうしても、四冊めか五冊めを出さなければならない、と今はそんな気分でいる。 とあった。集名に因む歌は、 ひと束の山葵の花をみちのくの今朝の市場に買う手のあらむ 少 であろう。ともあれ、愚生好みに偏するが、本集より、いくつかの歌を挙げておこう。 掛けはずしては掛けはずす眼鏡 (がんきょう) を蛇口に灌ぎまた掛けはずす 打ち返し打ち返さるるメールかな 打ち勝てるらし夜半を過ぎて stuckという語を今日は三度聞く〈はまりこむ〉ああ〈動けなくなる〉 当麻寺にルビを振りしがそのルビを消せる痕ありふたたび振らず 「解体 日当一万」の貼紙の前に老いびとながく佇む ワンカップ大関は空(から) たばこ...