谷川俊水「芭蕉騒ぐ一夜はあいつの夢ばかり」(「俳壇」5月号より)・・
「俳壇」5月号(本阿弥書店)、特集は「師系の力」。執筆陣は、総論に今瀬剛一「師は大切」、大井恒行「師系は詩精神」、片山由美子「師弟・師系・流派」、星野高士「世代を超える」、神野紗希「師系というカテゴライズの終焉」。エッセイに千々和惠美子、仲村青彦、谷口愼也、矢作十志夫、武藤紀子、中根美保、飯田晴、鈴木章和、陽美保子。なかでは神野紗希は、 一九九九年の夏、高校一年生だった私は、当時立ち上げられたばかりの俳句甲子園がきっかけで俳句を始めた。以後、明確な師系をもたず結社に入らず書き続けてきた。(中略) そうして俳句を続けていると、最近の若者は結社に入らない、と折々話題にされたが、逆に結社が入りたい場所たりえているのか、という問いの方が重要だろう。正岡子規だって、師系とは違うところから新たな文脈を作り出したのだし、理想的な場が必ずしも既に在るとは限らない。 (中略) ふたつめは、急速に進んだインターネットの普及だ。ブログやSNSなどを使えば、個人でも考えを発信し人と繋がれるようになった。誰でもどこでも自由に書いて読めるというのは、まさに革命である。メディアが変わるとき、思考構造も変わる。 (中略) 本来、私たちの関係性は、師系で割り切れないほどに複雑で多様に絡み合っているはずだ。であるならば、師系の明記で俳人をカテゴライズ/ラベリングするという大雑把で不完全な認識の仕方は、そろそろ終わらせてもよいのではないだろうか。 他に、新連載で正津勉「谷川俊太郎俳句嬉遊」第2回。その中に、 (前略) 事果ててすっぽんぽんの嚏かな 一九九六・一二 これの評釈として、余白句会の世話係・井川博年(号・騒々子)の句会報告記、これが大笑いもの。 「こんなもの誰が点入れるのか、に騒々子、敢然として地を入れる。これがいいのです。 騒々子、今回の選のコンセプトはグロテスクと馬鹿笑いである。……「事果てて」が凄い。他に言いようがないのかねぇー。虚脱している男の間抜け面が目に見えるようで、これは他に言いようがない。川柳に破礼句の分野あり、男女間の性愛を詠む。ここでも近世以降は傑作なし。やはり江戸期の「風流末摘花」などでその手のものは尽きています。この句などはだから新しい。俊水、字余り句は作るは、自由律句を作るは、バレ句は作るは、自由奔放、といえば聞こえはいいが、要はムチ...