攝津幸彦「露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな」(「俳壇」11月号より)・・
「俳壇」11月号(本阿弥書店)、特集は「路地裏の俳句」。ここでは特別寄稿の、山根もなか「定型のなかの自由律ー井泉水の理論をてがかりに」のほんの一部になるが紹介したい。編集後記に編集長の為永憲司が 「荻原井泉水の俳論から『詩体』と『詩ごころ』の関係を明確に論じており、定型俳句を作る方にも資するところ大ですので、ぜひお読みください」 と述べているように、直接、本誌に当たられたい。 (前略) 律を捨てるとは、何を捨てることだったのか。井泉水はその問いを、詩ごころと詩体という一対の語で考えた。 (中略) では詩体の内側で何が起きているのか。井泉水は句の切れ目を「句切」と呼び、切字と区別して、これを「段落」と称した。 普通の詩においては、段落の意識は行を改めて書く。そして行と行との間の余白に観念の跳躍をなさしめる。そうしたことを「俳句」においては、行を改めずして、これを一行に書く。 (中略) もう一つ、井泉水は層雲社の壁書に「句体は 一句一律の自在を志向すべし」(三二五頁)と掲げた。一句一律とは、定型を外れよという要求ではない。その一句に固有の律を、そのつど見出せという要求である。自由とは解放ではなく、自在であることに近い。 井泉水は大橋裸木の〈陽へ 病む〉を、わずか二語であると評した(三一六頁)。二語で循環は起こる。逆に、二十音を費やしても循環しない句はある。 なお、自由律は季語を立てないが、季語を否定するのではない。私は季語を詩語として捉えている。 (中略) 攝津幸彦から二句。 露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 階段を濡らして昼が来てゐたり いずれも五七五を一音も崩していない。にもかかわらず、意味の接線は断たれている。 前句で、金魚を夜汽車と思っているのは誰か。露地裏を眺める者か、それとも金魚か。「かな」はその主体を確定しないまま句を閉じる。読者の意識は末尾から初句へ送り返される。自由律が真っ先に捨てた切字が、ここでは循環を起こす装置として働いている。金魚は夏の季語だが、季題として立ってはいない。 後句は主客が転倒している。人が昼をを待つののではなく、昼が階段を濡らしながら来ている。無季である。そして、「来てゐたり」の据わりの悪さが、句をもう一度初めへ戻す。 (中略) 同じ作者の〈南浦和のダリヤを仮りのあはれとす〉では、ダリヤが季...