瀬口真司「洗った顔を見ている僕の眼が見えた みんなのリーダーは僕だから撃て」(『BEAM』)・・
瀬口真司歌集『BEAM』(書肆侃侃房)、栞文は、瀬戸夏子「次があれば、君の身体は」、大森静佳「叫びとアイロニーの両側で」、木下龍也「いっけえええええええええええ」。その中で、瀬戸夏子は、 洗った顔を見ている僕の眼が見えた みんなのリーダーは僕だから撃て ひとは文学的出発を選択するとき、究極的には自身に焦点をあてるか、時代に焦点をあてるかを選ぶことになる。瀬口は明白に後者である。しかし文学史を見ればあきらかであるように後者は死屍累々である。むろん文学史とは前者後者を問わず無数の文学的野心の死体の上に築かれていくものだが、おそらく前者はもし文学における自分の願いが成就せずともその生には歓びがあるだろう。しかし後者は違う。そして同時代ほど掴みがたいものはなく、ほとんどが泡と消えてゆく。 とあり、 また、大森静佳は、 (前略) 選考委員として「パーチ」に◎を投じたMoment Joonさんは、この作者が見ている現代日本は、「戦後の天皇制の上に建てられた日本と、その戦前の日本と地続きの高度経済成長期の日本」という色褪せた「二つの栄光、光の上に立っている影」である、と鋭く読みといた。議論の詳細は「ねむらない樹」Vol.10を読んでいただくとして、票を入れていない選考委員をも熱量高い議論へと巻きこんでいった作品の強度は、歌集一冊の形で読むといっそうクリア、かつ多彩だ。 と記している。そして、木村龍也には、 (前略) 歯を磨いていても髪型を整えていても鏡に映る自分の“顔“に目はある。が、水を浴び、瞼を閉じ、もう一度開いたとき、そこにあるのは“眼“だった。意識が切り替わったのだ。“眼“は目よりも限定的な使われ方をする。瞼やまつ毛を抜きにした眼球。そして、心眼や千里眼など何かを見極めたり見抜いたりするときの“眼“だ。焦点が定まり、“僕“が“僕の“本質を捉え、“みんなの“先頭であり、代表であることを自覚したのだ。(中略)そのとき、“撃て“が照らすのは手元にある、そうできるもの、だ。最初から握っていたわけではない。心のどこかにあって、言葉を合図に、手元へ現われたのだ。状況や立場によって浮かび上がる潜在的な攻撃性を可視化されたようで恐ろしい。 とあった。ろもあれ、本種よりいくつかの歌を挙げておこう。 イメージが大切だからイメージのいグレープフルーツは濡れている...