古田嘉彦「夜明けが川べりまでついてきて手毬つき」(『奴隷の抒情』より)・・
神山睦美『奴隷の抒情』(澪標)、帯の背に、「『戦争とは何か』続編」とある。その「まえがき」の後半に、 (前略) 続編を書くにあたって、私がもくろんだのは、この主人と奴隷の問題を文学の思想と言葉の問題として考えていくことだった。その意味では、「戦争とは何か」を文芸評論として問題にしていくことだった。その意味では、「戦争とは何か」を文芸評論として問題にしていくというモティーフを一貫させてきたといえる。 文芸評論の本質を「他人の作品をダシにしておのれの夢を懐疑的に語ることだ」といったのは、小林秀雄だが、本書において、私は、この方法をこれまで以上に実践してきたといえる。 とあり、また、「あとがき」の中に、 (前略) 年初に起こった能登半島地震の被害が、次第に明らかになるつれ、何とも言いようのない気持ちにになっていった。ウクライナやガザの被害と重なり、苦難を負わされた人々の絶えることのんし現実に言葉を失ってしまった。 しかし、こういう時に こそ、「希望なき人々のためにこそ、われわれには希望があたえられている」というベンヤミンの言葉を噛みしめなければならないと思う。そして、世界中の人々が、「憎むのでも、ゆるすのでもなく、苦しみや痛みを共にする」日が来ることを心から祈りたい。 とあった。ここでは、「ロータス」の同人でもある古田嘉彦の『移動式の平野』(邑書林)について書かれた「痛みはすべての形式を拒む」の項から、一節を引用しておきたい。 (前略) 移動式の平野に一人しかいないみなしご この句に付けられた詞書「痛みは形式を拒む」という一節には、古田嘉彦の俳句形式に対する根源的違和が感じられる。それは同時に、形式に収まらない人間存在の受苦にほかならない。痛みの実存の最初のあらわれとは、イエスの断食に見られる身体的苦痛だが、最後のあらわれは十字架から降ろされた傷だらけのイエスの姿に象徴されるものだ。 復活したイエスは、清らかな姿でマグダラのマリアの前にあらわれたのではない。あの傷だらけの損傷した身体をもってあらわれたのだ。「私に近づいてはいけない」というイエスの言葉は、私の痛みに近づいてはいけないという意味ではないだろうか。なぜなら、痛みはすべての形式を拒むから。 ともあれ、本書中の古田嘉彦の句をいくつか挙げておこう。 「攻撃=凍った魚」とメモ書き