其角「切られたる夢はまことか蚤の跡」(『増補 書を読んで羊を失う』より)・・
鶴ケ谷真一『増補 書を読んで羊を失う』(平凡社)、解説は樋口覚「書物と人間」、その中に、 (前略) 鶴ケ谷真一はすぐれた地上の訪問者であり、貪欲な探索者であり、文体において当今珍しいスタイリストである。批評家でもないし、随筆家でもない。文章家というのがふさわしい。引用の仕方が上手で、文章がポリフォニーを奏で読者を夢幻境の世界におびきだす。 凡人が納得し定説として安んじている事柄を転覆させるという意味で革命家である。守備範囲は古今東西を問わず、その学識は広範である。 このことは知識の多寡や蔵書の多さを意味するのではない。 ボードレールを震撼させたジョゼフ・ド・メーストルは、「なんたる雑誌臭」といったが、雑誌とは無縁な香気と懐かしさが、どの章からも感じとれる。 (中略) すでに「古人」は現代を予言するかのように次のように書いている。 人は書物を購入することをその内容の体得と混同している(ショーペンハウエル) 新刊の書物が出たときいたら、いつでも古典を読みたまえ(小泉八雲) 近著の『月光に書を読む』では「読書人柴田宵曲」が論じられている。柴田宵曲は静かなブームを巻き起こしているが、宵曲の人と生涯について現在書けるのはこの人しかいない。 とあり、著者「あとがき」には、 (前略) 題名は、『荘子』聠拇篇にある「読書亡羊」の故事による。羊を牧していた男が読書に夢中になるあまり、肝心の羊がどこかへ行ってしまったことにも気づかなかったという、身につまされる話なのだが、これはまた、読書がいかに人の心をとらえたかということにもなる。いくらかの反省に加えて、本への思いをこめたつもりである。 とあった。そして、本書の「夢中の詩歌」に、 「切られたる夢はまことか蚤の跡」刀で切られた夢が、実は蚤に刺されたわずかな痛みによるものだったという奇抜。意表に出るこの其角の句はまた、後世の実験の心理学をまたずととも、夢という現象のある側面を解きあかして鮮やかだ。その其角と同じ寛文元年(一六六一年)に生れた鬼貫には、夢のなかでよんだという句がある。「京の町で竜がのぼるや時鳥」何だかとりとめのないところが、夢らしい。 とある。愚生のブログでの紹介はこんなところで、興味をもたれた御仁は、本書に直接あたられたい。愚生が、興味をもったの、解説者が樋口覚とあり、愚生の若き日、確かに歌人だっ...