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岸本マチ子「ずーっと異端これからも異端羽抜鶏」(「ペガサス」第19号より)・・

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  「ペガサス」第19号(代表・羽村美和子)、年三回を順調に刊行してきている。瀬戸優理子「雑考つれづれ/ 細谷源二~生きるための俳句 」は、連載3回目で、さらに続く。その中に、   源二の第三句集『砂金帯』は北海道に渡ってから四年後の昭和二十四年に刊行。「開拓」と「石狩川」の二章から成る全三二二句が収録され、そのほとんどは開拓生活を描いた作品である。 (中略)     らんぼうに斧振る息子冬の天    明日伐る木ものをいはざるみな冬木    貧久し薪をぶつさく寒の斧    富とほし薪まつ二つまたまつ二つ    地の涯に倖せありと来しが雪   句集冒頭の五句である。一ページに四句が並ぶので、、五句目の〈地の涯〉はページを捲って見開きの先頭に位置する。巻頭としなかったのが心憎い。風土の匂いを醸す句群を前奏として読むからこそ「地の涯」の語が大仰にならず、「倖せありと来しが雪」に込められた新天地に空想した幸福が覆された虚しさもすんなり腑に落ちる。  とあった。ともあれ、以下に本誌よりくつかの句を挙げておこう。    チェロケースから白鳥の現れる          水口圭子    ため息を春一番が許さない            陸野良美    砂時計今も定位置冬帽子             浅野文子    やくもたつ出雲の空の女郎蜘蛛          東 國人    セイタカアワダチソウ迷惑じゃない生きている   石井恭平   ショパンの部屋に季節外れの雪宿り        石井美髯    伸び縮みするスカートに散る桜         伊藤左知子    如月の暗渠の蓋の上歩く            伊与田すみ    朴訥な雪像999の車掌             Fよしと   冬三日月文楽人形首で泣き             きなこ    雛祭り焼き印残る玉子焼き            木下小町    北緯四十三度はるかなる春            坂本眞紅    くくちーくくちー鳥語飛び交い冬木に芽      篠田京子    愛の日の形状記憶なくす襟           瀬戸優理子    わたくしの丹田壊れたまま二月          髙畠葉子    入学のペヤングを荷から出し           田中 薫   風葬を終えし風吹く大花野            中村冬美  

なかはられいこ「心音のここらで虹が消えるのだ」(「新歳時記通信」終刊号より)・・

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 「新歳時記通信」終刊号(編集発行 前田霧人)、「終刊の辞」には、   「新歳時記通信」は前号の第十二号(二〇二一年四月)で終刊のつもりでしたが、このたび一冊にまとめ上梓するのにあたり、創刊号の「新歳時記記号序説」を「新歳時記考省察」として書き直し、その結果、論考「証言・俳句キーワード」を書き、サイト「増殖する俳句キーワード辞典」を立ち上げ、二年前の講演録「子規・虚子・芭蕉」と合わせ、ここにその内容を終刊号として刊行させていただきます。何かの折にでもご笑覧いただければ幸いです。  とあった。巻尾には、「主要文献(辞典、二十一代集、例句集など」、「主要歳時記・連歌俳論書」(2024年4月1日改訂)近世:近現代、地方・海外、結社、「和文献時代区分表」、「中国文献時代区分表」などの直接あたるべき資料編がふされている。労作である。  本誌の最後の部分のみななるが、引用しておきたい。 (前略) 芭蕉は「発句も四季のみならず、恋・旅・名所・離別等、無季の句ありたきものなり」と言い、また、「よい付句は前句を聞かなくても、それだけですでによい句である」とも言っています。  芭蕉は虚子のように付句全てを「独立して可なり」とまでは言っていませんが、既に虚子の二百年以上前に同じようなことを言っているのです・  仮に子規の俳句革新を四合目、虚子の俳句の方法を五合目としても、まだ「五合は残りたり」、俳句の半分はまだ分かっていないのです。  ここで、高柳重信の登場です。重信は、俳諧の発句として俳句と命名されながら、当初より発句ならざるものを背負わされる宿命を負った俳句の出発を指して、昭和五〇年に次のように言っています。   この作品の存在に先んじて命名されたに等しい俳句形式は、いったい俳句そのものに本当にめぐりあったことがあるのであろうか。  現代の俳壇は、一斉に発句への回帰を行っているようである。もは誰も、まだ見ぬ俳句などにあこがれる者はいないのである。いまや、誰も彼もが、はじめから発句を目指していたかのように、しきりに発句について語りつづけている。 (中略)  ここまで長々と話をして来て、その結論が「俳句の半分はまだ分かっていない」とは、いったいお前は何を言いたいのかとおもわれるかも知れません。しかし、俳句も人生と一緒で、分からないから面白いのです。  伝統は革新の連続であると言われます。

星野高士「春光の曲がるを知らず天の涯」(「現代俳句」5月号より)・・

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 「現代俳句」5月号(現代俳句協会)、今号は、めずらしく気合の入った高野ムツオ「 俳句の未来は現代俳句協会が創造する 」という 巻頭エッセイ。その結びに、 (前略) 現代俳句協会は何より表現の自由を標榜する団体である。有季定型も無季定型も自由律も俳句である。季題もまた重要な発想方法の一つ。文語仮名遣い、口語仮名遣い、一行、多行、分かち書き、などどの表記も表現も認め合う。日本語以外の言語による俳句もまた俳句なのだ。結社の主宰者も誌友も、無所属も同じ現代俳句協会の平等な一会員なのである。そう認めあった上で俳句を作り、同時にまた論じ合う。この言葉の饗宴にこそ俳句の魅力がある。互いに現在只今も俳句を楽しみながら、俳句をこれからの若い世代に伝えていく手立てを探るのだ。俳句の未来は現代俳句協会が創造する。  とあり、「わたしの一句」には、この度、日本伝統俳句協会から現俳にも入会された    春光の曲がるを知らず天の涯        星野高士  の句があり、俳人協会からの入会者・鳥居真里子には、「百景共吟」で、兜太門の董振華と「麦秋」写真への共吟であった。新しい風である。    かのゐもりうつりうつらと火を孕む     鳥居真里子    麦青し雲の片々一峰に            董 振華  他にも、宮坂静生「 俳句鑑賞ことはじめ 」、宮崎斗士「 新現代俳句時評 『耀』ひとり同窓会 」、山本敏倖「 俳句と私/橋閒石から阿部完市へ 」などの興味ある論が掲載されている。ともあれ、本誌本号より、いくつかの句を以下に挙げておこう。    掌に蝗の力のこりけり            中村和弘    前衛 伝統 文学に梃子摺り        川名つぎお    汗の香のイクトゥス公衆電話透く       対馬康子    平穏が足の小指にぶつかりぬ         宮崎斗士    吾と妻と近影求められたれば娘の撮影一葉送りつ  宇田川寛之    浜木綿の沖に霞みて坐す神         高山れおな    泣き顔は認証されず秋夕焼          五島高資   六月の森の交響楽曲の一音として落ちるヤマモモ   正岡 豊    草の穂に風見えてきて父の書庫       水野真由美    夏木立雪の獣の夢を見る           佐藤清美    遠き鉄片我らの窓が冬を越す         岡田秀則

夏石番矢「法王空飛ぶすべての枯れた薔薇のため」(「吟遊」第102号より)・・

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 「吟遊」第102号(吟遊社)、鎌倉佐弓の編集後記には、 (前略) 郵便事情、特に海外への郵便物の出し方が厳しくなってしまったのは驚くほかない。まず、宛先等の手書きは禁止。その上、相手国に送るのにHSコードなど一通ごとに用意する必要が出てきた。これは郵便送付の間違いを減らすためだけではないように思う。  ともあれ、私たちの「吟遊」が国内だけでなく海外の詩人や俳人ともつながっていることを改めて認識し、努力していこうと思っている。  とあった。また、乾佐伎エッセイ「空飛ぶ法王への手紙」には、  (前略)  海底の蛸が友だち空飛ぶ法王     夏石番矢  どうして蛸なんだろう。しかも海底の。空を飛べる法王と海底にいる蛸との距離感が絶妙な一句である。なぜ?が頭の中を駆け巡る。考えながら、ふと    庇護される妻にて蛸をわし掴み       鎌倉佐弓  が、頭をよぎった。この句がきっと理由のひとつを物語っている。そんな気がする。空飛ぶ法王にとって蛸は特別な存在だ。  とあった。ともあれ、本誌より、いくつかの句を挙げておこう(各言語の作品には対訳が付されているが日本語のみの引用)。    ファクトチェッカー翼の夢の俳句を作る        夏石番矢    塔も蝶も崩落の始まりはひそか            鎌倉佐弓    南瓜のなかに   植えられた   しずかな砲弾            シモン=ガブリエル・ボノ    戦時下の川   永遠に悲しい母   多くの子に希望なし            パルタ・サルカール       向こうからスキップをして春いちご          竹 梵    指凍り焚書さるべきもの書きたし      岩脇リーベル豊美    俳句とウード 奏でる モロッコの夜を響き     中永公子    去年今年跨いで続くジェノサイド          鈴木伸一    鳥帰人酔不能飛 鳥帰る人は酔ひをり飛べぬので   石倉秀樹    徒手空拳笑うしかない喜寿の春          長谷川破笑    街の灯か火の手か詩人ネロ照らす          木村聡雄   カンバスの中へひこうき雲消える          乾 佐伎    眠る蝶が石に沈む 眼は乾き            斎藤秀雄     手術 (オペ) はロボットがするのよ女医のプライド  金城けい  

渡邉弘子「切株の辺に春蘭のうすみどり」(第172回「吾亦紅句会」)・・

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   本日、4月26日(金)は第172回「吾亦紅句会」(於:立川市高松学習館)だった。兼題は「蜂」と「住」。以下に一人一句を挙げておこう。     三鬼忌やトーアロードのボヘミヤン       齋木和俊    ともしびのロシア民謡春霞           佐藤幸子    春めいてレモンカラーのコート替え       笠井節子    特養の母に仏の花見かな            須﨑武尚    花粉症円空仏の照れ笑い            牟田英子   行く末を流れに任せ花筏            松谷栄喜    入学の小さな背中夢大き            関根幸子   幾重にも濃淡かさね山笑ふ           武田道代    わが栖 (すみか) 蒲公英の咲く地球かな     西村文子    マネキンの吐き出して居る春愁         田村明通    海沿いの朽ちたる家の八重桜          村上さら    ふらここや母の背を押す幼き手         奥村和子    紫雲英田に大の字となり雲を追ふ       吉村自然坊    まぎれ込む蜂にざわめくツアー客        渡邉弘子    桜舞う雨に打たれれし何処 (いずこ) やら   佐々木賢二   朝の空住所不定の蜂ブンブン         三枝美恵子    汽車煙新樹にからむ大井川          折原ミチ子    郷里 (ふるさと) や知る人もなく山笑う     高橋 昭   逢えずとも尋ねし軒に迎春花         井上千鶴子    春窓や灯ともし行けるわが棺          大井恒行  次回は5月24日(金)、兼題は「新樹」。 ★閑話休題・・田村明通「買初と言へど胃薬風邪薬」(「立川市高松図書館・俳句ポスト」お題「氷」と自由詠)・・ 「図書館俳句ポスト」に、吾亦紅句会のメンバーが3名入選している。その他の方の句を紹介しておいきたい。選者は太田うさぎ・寺澤一雄・渡邊樹音。     初旅やカバンの隅に常備薬      佐藤幸子     初氷ぐらっと赤きハイヒール     牟田英子 鈴木純一「日和見や八方美人といわれても春の嵐のどこを吹く風」↑

Sin「ヤリたいを分母にするからややこしい」(「What's」Vol,6)・・

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  「What’s」Vol.6(編集発行人 広瀬ちえみ)、広瀬ちえみ「ツリーハウス」の中に、     ◆飯島章友さんの「多行書きの修辞的意図と修辞的効果」は大変な力作です。俳句や短歌の多行書き、五行歌などあることは知っていても、その意図や効果等何も知らなかったことを思い知らされました。圧巻なのは自作の〈あれが鳥それは森茉莉これが霧〉を六行にしてみると、ひらがなと漢字が一行おきに、それに加え「れ」と「り」の押韻まで、一行おきになっていることに、その効果に驚きました。一行では気づかないで通り過ごしてしまうことを多行書きで認識させられました。  とあった。また、詩篇に柳本々々「あたらしいは昔の光」、竹井紫乙「シベリアがあるところ」などがある。ともあれ、本誌本号より、いくつかの句を挙げておきたい。    断らないでください 夜が咽るので         Sin    桜くらい見てからいけばいいのにね      佐渡真紀子    跳ぶ前に見ておくとよい預金帳         水本石華   守りきれない空気も水もかなしみも      佐藤みさ子   永遠は熱狂的に炒り卵             妹尾 凛    この辺で背骨抜いてもいいかしら        鈴木節子    「あなあきい伝」読むほどにおれのばか      叶 裕    落ち葉掃きどこでやめればいいんだろう     浮 千草    定位置がずんずんずれて来ましたね      鈴木せつ子    神木の根元に潜む小鬼かな           川村研治    「あけ口」があかないんです春一番       加藤久子   人波はとぎれとぎれにあからさま        兵頭全郎    抜け殻がいちばん輝いているね         竹井紫乙    回転椅子がどうしても反対に回る        中内火星    肉球と地球を間違えて暮らす          月波与生    しわしわがじわじわとせめてくる        鈴木逸志    成長しかできない子らとくらす日々      高橋かづき    ヨコッパラ二ハラッパカラノチクチク     広瀬ちえみ       撮影・芽夢野うのき「痛点や葉桜激しき音のして」↑

田中葉月「大いなる凡庸大いなるオリオン」(「俳句新空間」第19号より)・・

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 「俳句新空間」第19号(発行人 筑紫磐井・佐藤りえ)、特集は「コロナに生きてⅣ―—皐月句会(令和2年)」。他に佐藤りえ「 句集歌集逍遥/筑紫磐井『戦後俳句史nouveau1945-2-23ー三協会統合論 』」、エッセイに中島進「 俳句の課題はなにだろうか 」。鑑賞句評にもてきまり「 玄玄帖鑑賞 」、小野裕三「『 俳句新空間』18号 句評 」。  「龍神帖」より、とりあえず、「豈」同人のみになるが、以下に紹介しておきたい。    みるだけで楽しき時間君の咀嚼       筑紫磐井    旗日とてはためくものを横にする      加藤知子    一月の最後のあかり消す厨         神谷 波    どこからか軍歌わきたつ花筵        川崎果連    したたりのやうにも使ふ寒の水       佐藤りえ    モルヒネで断たれし虚空白泉忌       清水滋生    幽霊の舞踏会鍾乳石柱のあまた      高橋比呂子   風花やパントマイムの眉がしら       田中葉月   生命の韻律かなでる不可視の「それ」    冨岡和秀    穴馬がくるぞくるぞと着ぶくれて     なつはづき     白い影 この八月を昼も夜も        夏木 久    炎天の土のくすみや君の骨         中島 進    乱起こり一兵卒の短き詩          中嶋憲武    眼球にもはや視野なし龍の玉        堀本 吟    りんご煮る昭和の母の秘事数多      眞矢ひろみ      撮影・中西ひろ美「街灯が明るくなった土筆かな」↑

小川国夫「その腋も潔しわが行手の海鳥」(於:「車座」)・・

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         一昨日4月21日(日)、愚生は、作家の小川国夫などが創設に尽力して、創立60周年を迎えた静岡県文学連盟総会での講演「ミスター新興俳句・高屋窓秋」(於:静岡パルシェ)に呼ばれて出かけた。その折、出来たばかりの愚生の句集『水月伝』(ふらんす堂)を版元から直送していただいた。講演では、俳人のみではなく、小説、詩、短歌の方々が多く、講演もよく聞いて下さり、お陰で句集も完売だった。そして、翌日朝、五島エミの「車座」を訪ねた。ピアノの側に座らされると、前夜一読して選ばれたであろう約20句を、即興のピアノ演奏で、朗唱もして下さった。ありがたく瞑目して聴いた。 車座を訪れた金子兜太や小川国夫の軸なども掛かっていた。                小川国夫「言葉は光」↑          写真は車座での小川国夫・五島エミ・金子兜太↑  小川国夫と五島エミの墨筆「してほしいようにしてあげる華花の天」↑       杉板に墨筆で描いた作品「八方慈顔仏」の巨大俳画     「骸骨の裸木もあって花の山/恐竜の背中は藤の咲くところ」↑           五島エミ「白富士を輪投げの的に裾野の子」↑  ともあれ、愚生の講演の感想は、当日の夜に、50年来の静岡の友人Kに40年ぶりに会い、二人とも珈琲を飲みながら、率直に聞かせてもらった。ありがとう!         撮影・鈴木純一「吸って止めて吹けばピーピー」↑

近恵「行く春の腸にわたしの日和見菌」(「つぐみ」No.216 2024・4月号)・・

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 「つぐみ」No.216/2024・4月月号(俳句集団つぐみ)、「俳句交流」は近恵。俳句評論に外山一機「沖縄の俳句ーその一断面」、俳句随想(5)に藤村望洋「五七調の起源~リズム論事始・俳句のは~(後編)」、「『つぐみ』鑑賞(2月号より)」は打田峨者ん。その丁寧な鑑賞の一例を挙げておくと、   ゆめのあと観音開きの はるの海    田尻睦子  層をなす海坂の紺青の諧調。季 (とき) は「はる」――語根に“張る“を含んで、春。そば脱水平線に対してひとすじの垂線が引かれ、音もなく巨大な厨子か仏壇のように春の海が展 (ひら) かれる―—。「ゆめのあと」の上五からして、今この時は“うつつ“で…。開かれた春の海の向こうには何が?―— 後顧の憂いなく“未来“と応じ得た時代は夙(つと)に去り、一面の余白を前に御先真っ白の、無影の不安に輝く、生きがいしか在り得ない昨今へのブルーグレイ・スケールの頌句。  とある。ともあれ、本誌中より、いくつかのい句を挙げておこう。    春の月にはつながらぬ糸電話           近 恵    トットっと子が先を行く牡丹の芽         楽 樹    春潮や立証できぬ死者の声           髙橋透水    不キゲンナ カガミ ダ 巨大ナ 白蛇     田尻睦子   きさらぎの気のいい今朝のゆでたまご     つはこ江津     春にはぐれてもう笑わない母よ        夏目るんり    春の雲しばし爆音飲み込める          西野洋司    万博のトイレ被災地の寒トイレ        ののいさむ   カラタネオガタマ呪文のようなひとり言     蓮沼明子   俺のつぼみも風の木もなかま          平田 薫    これがその二度目の雪や濱の隅         八田堀京    春は海に突きでるテラスかな          渡辺テル    すこんぶが散らばつてゐる春の地震 (ない) わたなべ柊    繋がれし管 (チューブ) の先の春一番      有田莉多    なにくれとしてなにもなく三月尽        井上広美    日矢にも堪え古 (ふ) るや野守の純白旗    打田峨者ん    白い椅子白いテーブル山笑う          鬼形瑞枝   海風よジュラの風をつれてこい         金成彰子        撮影・芽

村上直樹「幸ひの文字に似てゐる土筆かな」(第58回「ことごと句会」)・・

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 本日、4月20日(土)は、第58回「ことごと句会」(於:ルノアール新宿区役所横店)だった。 兼題は「鬼」。以下に一人一句を挙げておこう。    春キャベツざくざく入門書開く       江良純雄    ブランコのおおなみこなみカコミライ    杦森松一    寒雷のひとつふたつで終わりけり      武藤 幹    満開の桜の洞 (ほら) や鬼の棲む      渡辺信子    手縫いの3少年の背に初夏の風       石原友夫    四月馬鹿軍靴の音が聴こえたぞ       村上直樹   蛇穴を出て風を読む身の軽さ        渡邉樹音    北方 (きたかた) の鬼門にありて蘇民祭   金田一剛    鬼女は浮き立つ恋 蕗の薹         照井三余    声の鶯 老いらくの低温やけどかな     大井恒行 次回は5月21日(火)午後2時~(於:新宿ルノアール区役所横店)。兼題「母」。 ★閑話休題・・明日、21日(日)午後2時~静岡県文学連盟・大井恒行講演「ミスター新興俳句・高屋窓秋」(於:JR静岡駅7Fパルシェ会議室)・・  明日は、愚生の静岡駅パルシェ7Fで開催される静岡県文学連盟総会での講演「ミスター新興俳句・高屋窓秋」(参加費1000円)である。もし、お近くの方で、時間の許す方がおられれば、聴講していただければ幸甚!!よろしくお願いします。      撮影・中西ひろ美「モップでしょうと春昼の影に言う」↑

長谷川櫂「春の水とは濡れてゐるみづのこと」(『長谷川櫂自選五〇〇句』)・・

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  『長谷川櫂自選五〇〇句』(朔出版)、その帯の惹句に、   第一句集『古志』から/最新句集『太陽の門』まで  長谷川櫂作品の/エッセンスを凝縮した/待望の自選句集  長谷川櫂論:青木亮人  俳句は世界へ開かれた文学  とある。そして、解説・青木亮人「長谷川櫂論 黒い獣と花」の中に、   (前略) あなたが〈淋しさの底ぬけてふる (・・・・・・・) みぞれかな〉と冬の孤心の極みを詠んだのであれば、私の方では、「悲しさの底踏み抜いて (・・・・・・・) 」とやや力をこめて興を添えつつ、暑い盛りに「悲しみ」の底すらうっかり踏み抜き、放心するように眠りに落ちたと和してみましたが、いかがでしょうか。とはいえ、傍から見れば、つい昼寝をしたという日常の些事に過ぎませんが……。  時空の彼方に佇む古人と「言葉」を通じて唱和しあい、作品同士が心を震わせる「場」としての一句。しかも、かような「場」は氏の個人的な思い出や出来事を拒まず、むしろ渾然一体となりつつ、ペーソスとユ―モアに彩られた「かるみ」として昇華されている。 (中略)  無論、これらは丈草句の本歌取りという話ではない。近現代俳句が得意とする「私」という主体のまなざしを軸に据えた句作ではなく、「私」の視点を消すことで連句の付句のように丈草句と共鳴し合う「場」を宿した表現と見るべきであり、やはり「写生」や戦後俳句が是とした時空間の感覚と異なる認識の一句といえよう。  とあった。また、長谷川櫂エッセー「封印」の中には、  (前略) 東日本大震災を経験して学んだことは詩歌の基本姿勢である。  まず俳句は日常生活や自然現象に留まらず、天災も戦争もこの世で起こるすべてが詠めなくてはいけない。俳句は老人の慰みではなく、大人の逃避の場でも若者の暇つぶしの玩具でもない。俳句はもっと世界に向かって開かれた文学なのだ。この道をさらに進んでゆけば、一人の人間が人生で経験する幸福も悲惨も何もかも悠々と俳句にする人間諷詠の世界へ辿り着くだろう。  そのためには自分にかぎらず人々の思い、ことに天災や戦争で無念の死を強いられる人々、無言のまま死んでいった人々の思いを代弁(代作)することが詩歌の最初の仕事なのではないのか。考えてみれば歳時記の項目に並ぶ花も月も雪もみな言葉をもたない。無念の死者と同じである。花や月や雪を詠むということは、花や月や雪の思いを代

寺地千穂「一本の吊り革たのみ春の眠」(第28回「きすげ句会」)・・

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     句会光景撮影を忘れたので、昨日出来の愚生の新句集『水月伝』の書影↑   本日、4月18日(木)は、第28回「きすげ句会」(於:府中市生涯学習センター)だっ    た。兼題は「揺」。以下に一人一句を挙げておこう。   春愁大歳時記を手懐ける            山川桂子    桜雨妖しく匂ふ能舞台             高野芳一    お久しぶりほんの気持よ花菫          井上芳子    夫握る綱を恃 (たの) みに海女浮かぶ      井上治男    一泊にたこ焼きさげて春休み          寺地千穂    夜行船揺れて登山や緋のつつじ         濱 筆治    片栗のもう咲いたかとSNS          杦森松一    春雷や止まりし思考ゆり起す         久保田和代    散歩道あっという間の花の色         大庭久美子    御衣黄 (ぎょいこう) の色愛でおり春彼岸    清水正之     惜春の言葉揺れつつ暮れるかな         大井恒行  次回は、5月16日(木)、府中市中央文化センタ-にて開催。兼題は「子ども」。 ★閑話休題・・山内将史「十二月八日畳の上に紙風船」(「山猫便り/2024年3月30日」)・・  「山猫だより」の冒頭に、以下の歌が掲げられている。      池江璃花子選手  プールにはさざなみ立てりスイマーのくちびるが「ただいま」と動いてプールに入る人は無意識に「ただいま」と言う。    喜多昭夫『青の本懐』  (中略)  古いフロッピーディスクから探し出したりして過去の詩を一応整理し、自選十五編を未刊詩集『月とカナリヤ』とした。  今年もテアトロ新人戯曲賞の二次予選を通り最終候補に残れなかった。  久生十蘭の「湖畔」再々読。最高だ。   とあった。               撮影・芽夢野うのき「山吹の白の一輪ほんとうの白」↑

加賀翔「何も写らない暗さにして撮る」(『鼻を食べる時間』)・・

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  加賀翔・白武ときお句集『鼻を食べる時間』(太田出版)、加賀翔の「まえがき」に、   僕が自由律俳句と出会ったのは17才の時でした。世に発する必要のない独り言のような、孤独や切なさに溢れているのに他人事のような視点で自分や状況を見つめていて、その不思議な感覚に笑ってしまう。あらゆる状況をまるごと包み込んで面白がっているような世界が自分にとってはとても衝撃で魅力的でした。 (中略)   芸人になり、自由律俳句を好きな人にたくさん出会えたことが本当にありがたく、特に白武さんと仲良くなったことは大きな出来事でした。 (中略)  この本は詩歌や俳句に触れてみようと思った人が一冊目に買う本では無いのだろうと思います。そんな一冊が狭い本棚に並び、この文章が今あなたの目に触れているということがとても幸せです。この本をきっかけにエロ自由律俳句という言葉を共有できる関係になれることを楽しみにしています。  とあり、また、白武ときおの「あとがき」には、   (前略) 決まりがないところがいいのに、エロというもので縛って詠む。エロ自由律俳句は遊び半分の洒落で始めたつもりだった。粛々と続けているとその輪が次第に広がっていき、加賀君のおかげで東直子さんや穂村弘さんまで、ゲストに参加していただいた。  エロ自由律俳句を作っているときは、エロいことを掘り起こし、エロさに磨きがかかり、仕事も生活も手につかなくなってしまうところが難点でさる。 (中略) エロ自由律俳句は、すべての人がすでにこころに持っているエロい真実を、自由律俳句の力をかりて具体的な言葉として表出させるためにエロい日本人がたどり着いた文芸です。  とあった。 本書には、加賀翔(かが屋)によるモノクロ写真もふんだんに配されていて、それも面白い。ともあれ、本書中より、いくつかの句を挙げておこう。   別れて少し残った方言          加賀 翔    帰れるくらいの雨で目が合う        〃   映画につられてとがる唇          〃    おんぶ交代して甘噛み           〃    くすぐり合って動物の目になる       〃   触れても触れても伝えられない触れたさ   〃   腕枕ぴったりで帰れない          〃    手の大きさを比べたら絡まっていった    〃       耳に流れる涙の跡を唇で

塩野谷仁「夏近しどの木も瘤を喬くして」(『塩野谷仁俳句集成』)・・

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 『塩野谷仁俳句集成』(東京四季出版)、その「あとがき」に、   昭和三十七年(一九六二年)、「海程」創刊とともに金子兜太に師事して以来六十年余、その間、平成十一年(一九九九年)には多くの仲間とともに「遊牧」を創刊・代表として俳句の道に勤しんできた。大した足取りではないかもしれないが、私なりに精一杯務めてきた思いはある。だが、宿痾・加齢とともにその足取りは鈍くなってきた。八十路半ば、この『俳句集成』を思い立った理由でもある。  とあり、また、未刊句集として「心景集」が収められている。その「あとがき」には、 (前略)、 また、ふらんす堂の『塩野谷仁句集)に収めた「『夢祝』以後」の五十句は、作品が当時期と重なるが、当該部分は「夢祝以後」として、独立した章として組み込むこととした。  句集名は私たちの俳誌「遊牧」にて、作品発表の際、長年使用してきた題名「心景集」をそのまま取り込んだ。私の作品の多くが、善かれ悪しかれあくまでも「心の景」であり、その限りではお気に入りのものであった。  とある。ともあれ、以下に、愚生好みに偏するが、未刊だった「心景集」から、いくつかの句を挙げておきたい。       かろからぬ一病十年実千両        仁    柊が咲くから星がまた落ちそう      悼 矢田わかな   冬ざれを握手なく人遠ざかる   十月のきれいな雨を教えに行く   兜太より紀音夫に近くマフラー巻く   つぎつぎ蒲公英つぎつぎ擦り傷   道どれも海にて果つる星祭   どこをどう曲りても木々だけの秋   薄氷はこころの象 (かたち) して昏れる   揺れやすし螢袋も次の世も   生き延びてところどころを草蝨     仮の世の仮の嚏をして晩年   塩野谷仁(しおのや・じん) 1939年、栃木県芳賀郡山前村(現真岡市)生まれ。     撮影・鈴木純一「ゆく春や悪しをよろしく替えモップ」↑

今井杏太郎「足のむくままに歩きて銀座なり」(『全国・俳枕の旅 62選』より)・・

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 広渡敬雄『全国・俳枕の旅 62選』(東京四季出版)、著者「あとがき」の中に、  (前略) 二〇二一年『俳句で巡る日本の樹木50選』を上梓した折、樹木の最適地の選定に迷ったが、本書も掲載俳人の俳枕の選定には、特に心を砕き、全てこれまで自ら訪ねた地から選んだ。  その基準として、俳人の故郷(原風景)、長らく過ごした地、転機となった開眼の一句の地、当地で最も知られた名吟で俳人がおのずと口遊む句など広範囲にわたるが、該当俳人自身や俳壇で代表句とする句である。芭蕉らは入れず、主に昭和以降の俳人から選んだ。 (中略)   本書をお読みいただき、その地(俳枕)を訪ねて立ち、その空気感、余情に浸り「ああ、この句は、こういう地で生まれ、こういう経緯があったのか!」と認識し、その俳人の本質に迫り、そのエキスと心を通わせ、実際に句を作っていただけたなら、筆者の喜びもこの上ない。  短歌界が、詠む対象として「歌枕」名勝地にあまり目を向けなくなった現在、俳人には「俳枕」を意識してほしい。  とあった。ここでは、愚生の句も引用していただいた「 俳枕36   銀座と今井杏太郎 」の部分を挙げておきたい。愚生の句「 数寄屋橋さても透谷の花しぐれ 」は、実は、どこに発表したか、作句したかも忘れていた。よくぞ採って下さった、という感じである。「透谷」には、もちろん、北村透谷もさりながら、「数寄屋橋」と「透谷( すきや )」が掛かっている。  また、本書の良いところは、俳枕にかかわる現代俳人の例句が豊富なところと、その三分の二はその地に関わりのある俳人の評伝にもなっているところである。例えば、「高千穂と山頭火」「広島と西東三鬼」「池田と日野草城」「塩竈と佐藤鬼房」「秩父と金子兜太」「白川郷と能村登四郎」等々。その「銀座と今井杏太郎」の部分に、  (前略) 今井杏太郎は、一九二八年(昭和三年)千葉県船橋市に生まれ、本名昭正。一九四〇年(昭和十五年)大原テルカズに勧められて俳句を始めた。 (中略)   一九九五年(平成七年)「鶴」大会後、一九九七年(平成九年)、「魚座」を創刊主宰。仁平勝、鳥居三郎、飯田晴、鴇田智哉、茅根知子らを育てつつ「塔の会」「きさらぎ句会」「件の会」にも所属した。  とある。ともあれ、その項目より、いくつかの句を挙げておこう。    マリオンのい時計が鳴つて日短        今井杏

桑原三郎「父の日の父を思へば母の顔」(「トイ」Vol.12)・・

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  「トイ」Vol.12(トイ編集室)、「あとがき」は干場達矢、それには、    2024年2月22日という日を感慨をもって迎えた。この日、日経平均株価の終値が34年ぶりに最高値を更新した。  私はバブル期崩壊後の1997年に社会に出た。暗い時代だった。景気が悪かっただけではない。コーポレートガバナンスは未熟で、コンプライアンスに意識は低かった。  「失われた30年」というが、その間に日本人はどれだけ努力し、賢くなったか。株価はその結果。困難な時代を生きてきた氷河期時代の一人として、今しみじみそう思うのである。  とあった。ともあれ、本誌本号より、いくつかの句を挙げておきたい。      もう誰も寄らぬ手焙なれどまだ        青木空知    冥途まで徒歩では無理か花なずな       池田澄子    水切りの石を弾いて水温む          仁平 勝    皇室と関わりのない物干し場        樋口由紀子    髭面を泣かせてしまふ四月馬鹿        干場達矢    だんだんに一年早し日短か          桑原三郎    フランスへフランス人を見に行った     佐藤みさ子 ★閑話休題・・田中淑惠のアートブック2024「掌の上の小さな本」(於:東京都美術館1階 第3.第4展示室[ムサビズム展]4.10~4.16・火)・・     昨日は晴天に恵まれた。桜も様々な種類がまだ残っていた。東京都美術館で開催されているmsb-ism/90th/Exhibition[ ムサビズム展](主催:武蔵野美術大学校友会 関東合同展実行委員会/後援:武蔵野美術大学、武蔵野美術大学校友会)に出かけた。リーフレットの武蔵野美術大学学長 樺山佑和の「武蔵野美術大学校友会関東圏合同展によせて」の中に、  (前略) 展覧会とは一つの場であり、制作が神事なら展覧会はお祭りのようなものです。自身の感覚と感情を作品に落とし込む作業は、宇宙や自然、あるいは内面や見えないものとの対話であり、神聖で孤独な単独行です。  一方、展覧会は制作した作品を持ち寄り大勢で語り合う場であり、非日常が現生するお祭りなのです。 (中略)   世界は今、形の見えない混沌とした不安に包まれています。そんな時代だからこそ、私たちの作る行為によって溢れ出すエネルギーが、少しでも不安を払拭し、闇を打ち払うのだと思