なつはづき「絶叫のような吸い殻幸彦忌」(『人魚のころ』)・・


  なつはづき第二句集オ『人魚のころ』(朔出版)、帯の惹句は「光るために、言葉はわたしの鱗」とあり、表3側の帯文には高野ムツオ。それには、


   蛇いちご母をまっすぐ見られぬ日

 「蛇苺」はその妖しげな名と鮮烈な赤の印象から、禁断の異界を想像させる季語として使われることが多い。しかし掲句の蛇苺は、心の奥底を反映してくれる無垢できれいな深紅の実だ。季語「蛇苺」が生まれ変わった瞬間である。なつはづきの自在な発想力のたまもの。


 とあった。また、栞文の筑紫磐井「なつはづき――じつは、はなつづき」には、


 (前略)かまいたち急に喧嘩になる姉妹

    凩や拳のようなポトフの具

  句集の中で散在しているが、配列の順番はかなり任意ではないかと思う。実はこれらの句は、この句集の出るまさに直前、超結社句会を開いた時に出された句である。句会の猛者がひしめく中で、これらの句はいずれも高点をとったものだ。ただこうした句に高点が集まった理由も何となくわかった気がした。「急に喧嘩」「拳のような」の措辞が、巧みであり、難解さと平易さをうまくつないでいるところにあるようなのだ。これがなつはづきの特徴であるかもしれない。


 とあった。そして、著者「あとがき」の中には、


 第一句集『ぴったりの箱』から五年が経った。第二句集までのこのペースが早いのか遅いのかは解らないが、相変わらず俳句が好きで、ネット句会を含め多くの句会に参加し、何らかの俳句の賞に出し続けて(落ちることの方が多いのだが)そのたび泣いたり笑ったりしている。(中略)

 この五年間は特に「上手い俳句よりも届く俳句が作りたいなあ」と思ってきた。「届く俳句」という定義は難しいのだが、「理論や理屈に基づく理解」ではなくて「感覚の想起」が生じる俳句だと自分で勝手に思っている。言語化するのは難しいのだけれど確かにそこにある感情や感覚。理解しようと言葉に置き換えなくてもいい。ただぼんやりとそれを感じていただけたら嬉しい。また頭に中にしまい込まれ、いつしか忘れてしまったあの時の感覚をはっと思い出すきっかけを作りたい。この句集を読んだ後に「自分の余白が少し広がった」「いろいろと思い出した」と思っていただけたら幸甚である。


 とあった。いくつか人魚の句があるが、集名に因む句は、


  髪洗う人魚の頃を思い出す        はづき


 であろう。ともあれ、愚生好みに偏するが。本集よりいくつかの句を挙げておきたい。


  切手貼るさっき小鳥がいた場所に

  月光やかつては人魚だった泡

  風船にふっと浮力という重さ

  陽炎を子亀がひょいと嚙んでいる

  どの骨が鳴れば花野に辿り着く

  初時雨マスターキーで開ける過去

  シナリオに嗚咽ねじ込む老いた鶴

  本一冊氷湖の底に部屋を擱く

  カップアイスに匙の入らぬ恋始め

  髪切って人魚をやめる青水無月

  鶏頭花鬼に産毛はあるかしら

  実南天選ばなかった明日思う

  八十八夜少し透けたくなる体


 なつはづき 1968年、静岡県生まれ。



        撮影・中西ひろ美「朝市の小銭涼しき音こぼす」↑

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