小海四夏夫「『コサックの子守唄』など唄ひつつ哀れ草加の野辺にさ迷ふ」(CD『一瞥』)・・


 小海四夏夫「CD『一瞥』試作盤完成記念集♪マイ・ソングへの道♪」(私家版)。小海四夏夫は「豈」創刊同人16人のうちの一人である。「豈」(創刊号、1980年)には、俳句を書かれていた、と思う。いまだに覚えている句は、


  直江津のドアの一つが姉に肖て       四夏夫


 である。その後は、歌集も出されている。先般亡くなった宮入聖と3年ほど前まで「句歌」という冊子を出されていた。その時の名は、かつての小海四夏夫ではなく、本名の保坂成夫だった。そして、その冊子の予告には、小海四夏夫最終歌集『一瞥』(限定50部 予価2000円)があった。

 今回のCD『一瞥』には「作歌・作曲・歌唱/小海四夏夫」とあり、21首が唄われている。その中の「制作余話」には、


 「どうですか、保坂さんも短歌朗読、短歌絶叫をやってみませんか」

 田川さんが足立区から川崎に転居された頃のこと。荷物の整理の帰りに私の仕事場に立ち寄られた田川さんからそんなふうに水を向けられたのであった。十年前くらいのことかと思っていたが、田川さんに確認してみると、なんと二十年近く前のことらしい。(中略)

 どうもこの時からわたしの脳裏に、「父を偲ぶよすが」となるべきものを(娘)に残さなければならないという思いが去来するようになったのである。

 「偲ぶよすが」とは言っても、それがCDという形になろうとは、当初は夢想だに出来ないことであった。(中略)

  われを一瞥してまた眠る乳飲み子に見入れば心に照る山紅葉

  「コサックの子守唄」など歌ひつつ哀れ草加の野辺にさ迷ふ

  幼子の口こじあけ歯を磨く刻にも白兵戦が迫れる

この三首を唄うことから「作曲」と「ボイストレーニング」を同時に始めたのであったが、「当然のことながら」ではあるが実に困難な試みであった。(中略)

 崇徳院十二首をほぼ一定の曲調と間合いで歌えるようになった時点で在原業平七首、式子内親王八首をレパートリーに加えてみた。このあたりからボイストレーニングは苦行から愉楽へと変容していった。 

 王朝和歌を唄いつつも折々自作を唄ってみたのだが、自作を唄うことは相も変わらず苦行であった。(中略)

山崎広子さんの『8割の人は自分の声が嫌い』は汲めども尽きせぬものを秘めた書だが、とりわけアルコール依存者(AA会)に取材した下りは圧巻で、思わず「身につまされ過ぎ!」と呟いてしまったほどだ。山崎さんによると「光が差した声」というのがあるそうだ。話し続けることによって、「内容に関係なく声の力が発動」される瞬間が訪れるというのだ。声を出し続けることで、声・聴覚・脳は三位一体となって心身に働きかけ、その人のもっとも良い状態、恒常性を維持する方向へと導いてゆきます、と山崎さんは優しく説く。(中略)場合によっては短歌朗読、短歌絶叫にトライしなければならないかも知れない。

「一瞥」をさらに歌い込んで、決定版の完成を目指すと同時に、王朝和歌。啄木、牧水、中条ふみ子を歌いこんでそれぞれゆかりの地を訪ね、熱唱、録音して、マイCDを作ってみたい。マイソングへの旅に、果たして発つことができるだろうか。


 とあった。ともあれ、本集よりいくつかの歌を挙げておきたい。 


  肉体を去り行くならば新緑の森にはパンの耳を残して     四夏夫

  いまもなほかの日の牡丹雪は降り無伴奏チェロの弦が呻くよ

  タイヤチェーンの軋める音を伴奏に睡魔と戦ふためのアリラン

  遊び足りずにこの遊星に戻りたると春の浜辺で何かしてゐる

  空港へ娘を送り帰途に見る大観覧車が抜殻のやう

  日向夏の浄きひかりを葉隠に見て紅灯の大都会へ帰る  


 小海四夏夫(こかい・しげお) 1945年生まれ。



      撮影・中西ひろ美「枯れてより腰かがめたり人として」↑

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