山本掌(原著には、堀本吟とある)「右手に虚無左手に傷痕花ミモザ」(『俳句の興趣 写実を超えた世界へ』より)・・
西池冬扇『俳句の興趣 写実を超えた世界へ』(ウエップ)、著者「あとがき」には、
この本は雑誌「WEP俳句通信」128号(2022年6月)から138号(2024年2月)まで連載した「続・明日への触手」を中心として、加筆、修正しながら「俳句の興趣」として通読できるように再編成したものである。以前出版した『明日への触手』は未来をさぐる触手を有する俳人の幾人かを紹介したものだが、この本は姉妹編ともいえる。
とある。本書第3部「同化の心(宇宙的虚無感)と明るい虚無の時代:未来へも興趣1」の中に、
〇俳句の興趣
興趣という言葉自体あまり市民権を得ているわけではないが、芭蕉流の「姿情」という言い方で分けると情に近い。情趣ともいえる。ただ、俳句の場合、情という言葉は理と対立させた言葉ではなく、モノと対立させた方が分かりやすい。(中略)そのため、私は人間の情を顕わに表現することよりモノの存在の表現によって読者と趣を共有する意で「非情の句」(情に非ずという意味)という言葉を使ってきた。そのことを考慮して、情趣という言葉でなければならない場合を除き、「興趣」(その俳句の読者に与える趣)という表現を使用している。私が使用する興趣の概念は広い。日本文化で最も基本的な興趣と呼べる「わび」「さび」「しをり」「無常」等々から「俳味」「滑稽」などという俳句独特の概念、子規が好んだ「壮大雄渾」「繊細精緻」などという景から受ける感情なども興趣の一つといえよう。
もともと興趣という言葉は中国南宋期の詩論『滄浪詩話』にある。
【詩の法五あり。体製と曰ひ、格力と曰ひ、興趣と曰ひ音節と曰ふ】とあり、そのうち興趣は興味・趣で作家の心情からくるが鑑賞者に感じさせるものとある。(中略)しかし、この本の解説の「作家の心情からくるが」の「くるが」が気になる。俳句の鑑賞において作者の情は必要ない、むしろ顕わに情が表現されていたら、読者としては迷惑だ。(中略)興趣はテーマと呼んでも差し支えないのであるが、少し「この句のテーマは何々」と説明するのは「そぐわなさ」を感じる。せっかく興趣という言葉があるのでそれを使うことにしている。
とあった。興趣に興味を持たれた方は、是非、直接、本書に当たられたい。ともあれ、本書に抽出された句のいくつかを以下に孫引きしておこう。
草二本太いのとちよつと細いのと 行方克巳
桜餅ふたつ出されて二つ食ふ 菅野孝夫
山栗をふたつひろひてひとつ捨つ 藤本美和子
おどりいでたる蚯蚓のみみずざかりかな 池田澄子
薔薇園をまるく歩いて出てしまふ 青山 丈
芙美子忌の踏んで消したる煙草の火 黛まどか
幾千代も散るは美し明日は三越 攝津幸彦
ひきだしに海を映さぬサングラス 神野紗希
星月夜生れむといのちひしめけり 正木ゆう子
丑三つの厨のバナナ曲るなり 坊城俊樹
蝶々のきらりと消えた時の穴 西池冬扇
枯蓮を手に誰か来る水世界 生駒大祐
【愚生注:ブログタイトルにした「右手に虚無左手に傷痕花ミモザ」の句は、山本掌句集『月球儀』所収であるとのご指摘をいただきました・・】
西池冬扇(にしいけ・とうせん) 1944年、大阪生まれ、東京で育つ。
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