福島泰樹「風景は消えそれを眺めた人も消え歴史を問うに『シャボン玉消えた』」(『大正十二年九月一日』)・・


 『大正十二年九月一日』(皓星社)、著者「あとがき」の中に、


 (前略)私の短歌デビューは、一九六九年秋刊行に歌集『バリケード・一九六六年二月』であった。標題に年月を標すことを以て決意表明とし、スタートを切ったのである。さらに時代への想い立ち去り難く、第二歌集を『エチカ・一九六九年以降』と命名、跋に「歌は志であり、道であろう。更に私はエチカという一語を付ける加える」と書き記した。以来、俺の歌は時代と共にあるという思いは、いまも変わることはない。そして処女歌集刊行以来五十有余年の歳月を経て、茲に「年」「月」を加え「日」を標した歌集『大正十二年九月一日』を刊行する。つまり私は、本歌集をもって振り出しに戻ったのである。これからも歌への志を。枉げずに生きてゆけという自戒をこめてである。(中略)

 毎月十日、吉祥寺「曼荼羅」での月例「短歌絶叫コンサート」も三十九年目を迎えた。(中略)

 死者は死んではいない。「死者との共闘」がスローガンとなってすでに日は久しい。六〇年安保闘争の死者樺美智子も、学生歌人岸上大作も、大正という時代を烈しく生き、虐殺、刑死、牢獄死など非業の死を遂げた大杉栄も、古田大次郎も、中浜哲も、村木源次郎も、和田久太郎も彼らは皆、自らが残した言葉の中に蘇生し、生々しい言葉を、「絶叫という媒体を通して、私たち生者に投げかけてくるのだ。それが「短歌絶叫」であり、「死者との共闘」である。

 経産省前を道場と定めた、日本祈祷團「死者が裁く」の、反原発月例祈祷法会(ほうえ)もこの八月二十七日、八年目を迎えた。(中略)

 歳晩刊行の歌集『百四十字、おいらくの歌』の跋文を書いたのは、昨年九月三十日、以後の一年を少しく書き記すなら……

 毎月、不忍池畔での「月光歌会」は、三十六年四百三十七回を数えるに至った。(中略)

 再び、中浜哲が牢獄で書き遺した詩を引こう。

 「追憶は追憶を生み育み/追憶は又新しく追憶をい生む!」(「黒パン黨實記」)。私もまた時代と人への追憶を更に激しくしてゆこう。死者との共闘、そう死者は死んではいない。今日、瀧口法難会!


 とあった。そうだったのだ。愚生が歌集『バリケード・一九六六年二月』を手にしてからも50年以上が経ったのだ。そう言えば、愚生が27歳の時、第一句集『秋(トキ)ノ詩(ウタ)』(私家版・自筆50部・1976年12月)を出したときに、それまでの句は全て捨て去ったのだった。ともあれ、本集よりいくつかの歌を挙げておきたい。


    恐らく、私達の屍は腐乱して発見されるだろう……有島武郎

 惜しみなく愛は奪うか ぽとぽとと滴り落ちるは雨粒ならず

    大川の水は湯となり 鳶口の鈍くひかりて人ののからだを

 累々と浮かびて沈みながらゆく炎に追われ逃げし人々

 和田久太郎死刑判決喜びて死灰の処分まで書き連ねたり

    もろもろの悩みも消ゆる雪の風 和田久太郎辞世

 中天に宙返りして墜ちてゆくいかのぼり獄舎の窓より眺む

    大正十三年となった……

 泪橋紅葉館や木賃宿、茶碗酒(もっきり)真っ赤な夕焼である

 まこと君は無事であったが野枝さんは絞殺の末投げ棄てられき

 ポエジーは哀しき午后の異邦人 唐突にして顕れ消えぬ

 霧とマッチはじめて書きしは北上の宮沢賢治 修司にあらず

 生きるとは人を見棄てることなるかまた一人ゆく浅草は雪

 天皇の赤子であるに飢えに泣き死んでゆくのはなぜかと問いき

    大正三年、朝鮮忠清北道芙江の祖母の家に貰われて行く

 父母(ちちはは)の叔母祖母たちの食いものにされて九歳、朝鮮は冬

 ブルジョワのツツジの花の赤いのはプロレタリアの地を吸いしゆえ

    死を賭して社会変革を、の盟約を結ぶ

 今晩がことによったら家に帰る最後となるかもしれぬ妹

    大正十二年十一月中浜哲、大杉栄追悼詩を書く

 女の魂を掻(か)っ攫(さら)うように男らを迷わせる眼、「杉よ!眼の男よ!」

    大正十四年十月、同志古田大次郎刑死

 胸に滲む血は美しく絞首より銃殺刑を希むと書きし

 古田大次郎行年いまだ二十六、菊花を蹴りて吊られ果てにき

 

 福島泰樹(ふくしま・やすき) 1943年、東京市下谷區生まれ。



      撮影・芽夢野うのき「さくら紅葉か一枚の協奏曲」↑

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