高篤三「Voa Voaと冬暖のメトロ出る河童」(『新興俳人 高篤三資料集』より)・・
児玉佳久(谺佳久)編著『新興俳人 高篤三資料集』(私家版)、、便りには、「亡き母が師事した俳人の高篤三の資料集を上梓しました」としたためられていた。貴重な編著と思う。その「はじめに」に、
物心ついた頃から、簡素な仏壇には親族の遺影に交って、謎の丸縁眼鏡の男性の写真があった。後になって、その人物が高篤三と知った。
母は、師事したその俳人を「タカ先生:」と呼んでいた。「タカ先生は通勤のバスの中で手紙を書くのよ」と言って、「立春のいつものバスにゆられゐる」の句を諳じていた。(中略)
私が五十歳になった頃、篤三の句集や書簡、短冊などを母から託された。特に「多麻」という雑誌については、「これは大切なものだからね」と念を押された。今になって幻の雑誌であることを知った。
平成四年だったか、母の許に『高篤三詩文集』(現代俳句協会)が送られて来たことから、著者の細井啓司氏との交流が始まった。篤三の写真、原稿等を、「どれも宝物ですね」と氏は高く評価してくださった。
そこで、新興俳句運動の一翼を担った高篤三の諸資料をまとめて公にするのがベストと考え、本冊子を刊行することになった。
とあった。また「あとがき」には、
本冊子は、母が独身時代に、高篤三に師事した約三年半(戦前・戦中)の書簡集が中心である。篤三は浅草に在住の俳人だったが、長女を足利の親戚に預けたことから、しばしば浅草と足利間を往き来して母とも交流があった。
母は群馬(旧、邑楽郡永楽村新福寺)で生まれ育ち、足利高等女学校を卒業したが、足利の詩人岡崎清一郎氏とも親交があったらしい。(中略)
また篤三は俳句ばかりでなく詩も作り、さらに正岡容と共に新内節の「たけくらべ」の作詞を手がけるなど演劇にも精通していたので、単に俳人と括るよりは詩人と称した方が良いのかもしれない。(中略)
大変未熟ながら、この『新興俳人 高 篤三資料集』を母の十三回忌に捧げたいと思う。合掌
二〇二四年(令和六年) 五月吉日 児玉佳久
とあった。
高篤三(こう・とくぞう)1901年6月2日~1945年年3月10日、東京市浅草生まれ。本名、八巣篤雄(はっそう・とくお)
歌人としての名は谺佳久(こだま・よしひさ)、 1949年生まれ。
★閑話休題・・児玉いね「シクラメン老を見せざる女部屋」(『山里』)・・
児玉いね句集『山里』(生涯学習研究社・平成17年6月刊)、児玉いねは、前述の児玉佳久(谺佳久)の母堂である。「あとがき」によると、逆縁で娘・百代さんを平成14年4月4日に亡くされおり、その娘さんも俳句をされていた、という。
逝きし娘にけさの牡丹の花あかり いね
の句が記されている。本集より、いくつかの句を挙げておきたい。
百歳を越えし藤房彩変えず
転院の車窓にふぶくさくらかな
黒穂焼く煙はうすしみちのくは
湯がへりの光りあまねく青葉木菟
近路をぬけしばかりにゐのこづち
時雨きて迎へを頼む山の駅
(渡良瀬渓谷通洞駅)
夜の写経硯に垂らす寒の水
三従の枷のはづれし日向ぼこ
白鳥を待つ空のあり沼のあり
児玉いね(こだま・いね) 旧姓・森田稲子
撮影・中西ひろ美「温めあう時は短し注連飾り」↑
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