土屋幸代「氷りたるものをつたひて氷りけり」(「円錐」第97号)・・
「円錐」第97号(円錐の会)、メインは第7回円錐新鋭作品賞の発表である。他に、エッセイ「詩歌逍遥」に摂氏華氏「変容する『私』―—鴇田智哉と東日本大震災」、「省耕迂読(せいこううどく)」第2回に、山田耕司「論より証拠」、今泉康弘「キノコの詩学」第3回と「プーチンが恐れる男についての映画——『ナワリヌイ』を見て考えたこと」。その「論より証拠」の中で、山田耕司は、
(前略)句会の恐ろしいところは、自分が面白いと思った句を「どう面白かったか」と説明しなければならないところであるともいえよう。俳句の面白さは説明できる、という前提が、どうにも、俳句の俳句らしさをすり減らしてしまう可能性がある。
評論より、作品。あれこれ言うよりも、ズバリと作品を出して見せること。それが「論より証拠」の俳句的な実践ということになろうか。(中略)
分け続ける、言葉で俳句作品の魅力を語り続けようとする。その行為において、いかなる分析にもあてはまらないような異物に出会った時に、なお、その対象を含めて語り直そうとする者こそが、「どうしてこの作品が新しいと言えるのか」を説明することが可能となるだろう。
「論より証拠」。この格助詞「より」を、「出藍=青は藍より(・・)取りて藍より青し」の「より」として解釈してみよう。論があるからこそ、証拠の証拠たる所以が見顕される。現代に至るまでの俳句とは、そのことを信じるものによって導かれたものではなかっただろうか。そのふるまいがたとえ名句を生み出さなくても、名句を見逃さないという矜持とともに。
と言う。至言である。ともあれ、以下に、新鋭作品と同人同人作品から一人一句を挙げておこう。
梅東風や子が頭を入るる鯨幕 土屋幸代(澤 好摩・花車賞)
金に目がない死にたくない詩人然として 吉冨快斗(山田耕司・白桃賞)
卯の花腐し街に居坐る不発弾 池田宏睦(今泉康弘・白泉賞)
煙より急に火の起つ野焼かな 澤 好摩
かげろふのかげろふだけとなりにけり 大和まな
去年今年棒を拾ひて持ち歩く 摂氏華氏
選らずとも白の残りし雛あられ 和久井幹雄
女正月AI仕込みのペットゐて 栗林 浩
昨日を忘れ今日を惑ひて冬も春 荒井みづえ
クリスマスエントランスのオルゴール 山本雅子
吉報を待つ着ぶくれの一家族 原田もと子
舞ひ消ゆる心もやうや風花す 小倉 紫
仕舞湯を落とすや音の二月尽 後藤秀治
春一番首尾上々の半ごろし 立木 司
人間に胡椒を効かす春疾風 橋本七尾子
蒼天へ富士弛みなく初景色 丸喜久枝
山吹の風に光りて暮れやらず 江川一枝
すんすんと土筆突き出る野や恵方 小林幹彦
啓蟄のあむない穴をほぜくりぬ 矢上新八
狐火が消え深まりぬ人の闇 横山康夫
対岸も此岸も花の浄土かな 田中位和子
あるはずの冬のさなかの返り花 来栖啓斗
菜の花の土手を亡兄亡姉かな 味元昭次
岸は春人らしきもの手をふりて 山田耕司
撮影・鈴木純一「ヒロシマに1を足しナガサキに1を足す」↑
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