右城暮石「死者の霊安らか青田青山に」(「運河」8月号より)・・


 「運河」8月号(運河俳句会)、特集は「暮石」。編集後記に、


白玉を抱き直立す雪持草      右城暮石

        (『散歩園』 平成五年作)

◆右城暮石先生歿後三十年「特集 暮石」を企画しました(中略)

 雪持草は里芋科テンナンショウ属。春、深く切れ込んだ葉を二枚出し、独特の形の仏炎苞を立ち上げ、初夏、餅を思わせる白い花穂を出す。(中略)

 かつて本山町古田の暮石先生のお墓参りの途次、杉林の中にこの花を見つけた。夕闇が迫ると辺りの色彩は消え失せ、この花穂の白だけが残り、闇のなかで仄かに輝く。(中略)

 僕はこの作品の凛とした花の姿から、暮石先生の男の矜持、為人の一端を見た気がした。

お亡くなりになる二年前の作品である。(智行)


 とあり、 特集「暮石」は、谷口智行選「暮石五十句」、「暮石先生の思い出 または暮石俳句への思い」の執筆陣は芳野正王、森井美和代、髙松早基子、松村幸代、瓜阪孝依、中畑隆男。アンケート「そうだ くさんがいた!」の応答者は五十五家、「わが胸中の暮石俳句」「自由投稿〈暮石先生!わたしの見付けたこの一句」34名など壮観の大特集。

 愚生のアンケートへの応答は、「続く猛暑に…」、


炎天を来て大阪に紛れ込む

 暮石は言う。「大阪はわが古巣であり、胸が深くて広い。駅から吐き出された途端に、開放感で気持ちがふくらんだ」(自注現代俳句シリーズ・右城暮石集』)。また茨木和生は、「僕の原点は大阪だよとことあるごとにいっていたことを思い出す。暑い大阪も苦にならなかったともよくいっていた」(『右城暮石の百句』)と。暮石は高知から十九歳で大阪に出てきて暮らした。二十一歳、「朝日俳壇」松瀬靑々選に〈短夜の土提の穂草は吹かれをり〉が初入選。同じ齢でボクは、警棒の雨に打たれた大阪、京都から東京に流れ着いていた。


 と記した。ともあれ、本誌本号より、いくつかの句を挙げておきたい。


     平成四年八月十二日中上健次死す

  盆の月黒く崩れて来たる夢           茨木和生

  一鵜行く太平洋を舐めながら          谷口智行

  絶壁にロープ垂らせる若布とり         芳野正王

  麦笛や華奢なる人のよき音色          藤勢津子 

  日が西に傾くを待ち練供養          森井美知代

  小綬鶏の声を和生の声かとも          水野露草

  大人(うし)眠る山をうぐひす欲しいまま    池田緑人

  鳥ごゑに被る水音夏はじめ          本郷をさむ

  けふの花摘みて沖縄慰霊の日          黄土眠兎

  昭和の日水をせつせと運ぶ役          早川 徹



★閑話休題・・「里」終刊・里俳句会解散の便りあり・・・


 里俳句会代表・島田牙城から届いた「ご挨拶」(原文は正漢字)に、


 (前略)二千三年四月以来二十二年三ヶ月、二百二十三号続けてまゐりました月刊俳句同人誌「里」を終刊し 里俳句会を解散いたします。昨年五月より休刊してをりましたが 私の意欲 気力が回復せず 決断いたしました/今日まで多くのご示唆をいただいてまゐりましたこと 深くお礼申し上げます (中略)

 私個人は 無所属で市井の俳句愛好者として 今まで通り「俳」とは何かを求めながら 緩やかに歩んで参らうかと 模索しております

 今日まで楽しうございました ありがたうございました 感謝申し上げます  


 とあった。  


       撮影・鈴木純一「天井に三伏すゑる右目かな」↑

コメント

このブログの人気の投稿

田中裕明「雪舟は多く残らず秋蛍」(『田中裕明の百句』より)・・

秦夕美「また雪の闇へくり出す言葉かな」(第4次「豈」通巻67号より)・・

山本掌(原著には、堀本吟とある)「右手に虚無左手に傷痕花ミモザ」(『俳句の興趣 写実を超えた世界へ』より)・・