投稿

3月, 2025の投稿を表示しています

坪内稔典「桜散るあなたも河馬になりなさい」(『河馬100句』より)・・

イメージ
  坪内稔典句集『河馬100句』(シンラ 象の森書房)、カバーイラスト・米津イサム/挿絵・内藤美穂。帯には、  ここに100頭の河馬がいる。/面白い河馬、哀しい河馬、おしゃれな河馬、楽しい河馬・・  どれもネンテン先生の起きに入りの河馬である。  とあり、また、「あとがき」には、  (前略) この句集『河馬100句』は、ボクの河馬への思い、あるいは河馬から受けた刺激を起点にして、ボクと河馬のいる風景を五七五の言葉で表現したものだ。別の言い方をすれば、ボクと河馬のいる〈五七五による百枚の絵〉だ。読者の方が気に入りの絵を一枚でも見つけてくれたら作者としてはとても嬉しい。 (中略)   最後になったが、版元の松山たかしさんとは大学時代に知り合った。ボク等は大学生協の食堂の皿洗い仲間だった。その彼を俳句に引きずりこんだのは多分ボクである。彼は広告業界で活躍し、定年退職後に象の森書房を設立した。この書房、俳句専門の出版社ではないが、彼は自身の晩年の仕事としてかなり俳句にのめり込んできているように見える。その彼にあおられるあたちでこの『河馬100句』が実現した。  とあった。ともあれ、本書より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておきたい。    ツツパッパカバはカバ語を生きて春       稔典    春暁のくるくる動くカバの耳   カバ浮いて春の地球がやや軽い   九月来て固まるものにカバと意地   文旦とカバとあんパンそしてオレ   桜咲くピカソはカバと不和である   カバの目の漆黒が澄む水が澄む   一月のカバ逆立ちをしたいカバ   七月の水のかたまりだろうカバ   河馬のあの一頭がわれ桜散る   河馬へ行くその道々の風車   河馬になる老人が好き秋日和   水中の河馬が燃えます牡丹雪      坪内稔典(つぼうち・ねんてん) 1944年、愛媛県佐田岬半島生まれ。 ★閑話休題・・現代俳句協会青年部第183回勉強会・来る4月5日(土)午後1時~「大井恒行に聞く」・・・ 第183回勉強会 「現代俳句の伴走者 大井恒行氏に聞く」 【企画概要】 現代俳句協会会員・「豈」編集顧問の大井恒行のブログ「大井恒行の日日彼是・続」は、 日本一、二を争う更新頻度と速さで、現代俳句関連書籍を紹介しています。 https://testusuizu.blogspot.com/ そのアーカイブ...

安部いろん「洗はれぬ血の顕れてけうとききやうと」(古典の中の〈今は使われていない、意味が変わっている〉オノマトペ句会)・・

イメージ
  3月30日(日)午前11時より、中西ひろ美主催幹事の「古典の中の(今は使われていいない、意味が変わっている)オノマトペ句会」(於:都立 殿ヶ谷庭園内「紅葉亭」)であった。  案内状の「どんな句会か」には、     古典の中には、現在は使われていない擬音語。擬態語(オノマトペ)があります。また、音は同じでも意味が変わっているオノマトぺもあります  今の俳句、連句作者の皆さまだったら古典をどのように作品化俳諧化するでしょう  (中略) 〇句会当日、選句の参考に上記オノマトペの使われている例句をお示しします。幹事出題以外のオノマトペを使って作句された場合は、選句の前に例句を教えてください。   とあった。一人5句出し。一応7句選だが、好きなだけ選んでもいいし、合評最中、もしくは、後出しで選(点)を加えて入れてもいいという句会。  ただし、今回は、選ばれ句の作者は、まず名乗って、その句の作句動機、意味を説明し、その後に、選んだ句についての感想を述べあうという趣向であった。ともあれ、以下に一人一句を挙げておきたい。  なお、阿部いろんの楕円形に表記された句は、どこから読み始めてもよいという句で、高点を獲得したが、楕円形表記は、愚生のブログの技術では無理なので、自由に、切り込んで戻り円環して読んでください。次の句です、「 かはらはらはらうららかみんな済んだ 」。   花ぽつちり命の形欲しがりぬ             小池 舞   ほちほちと寝ねられぬ夜の花の燠           佛渕雀羅    入社式シュレッダーで段段にする           中内火星    春泥にはらはら下す左足              ますだかも    山は二分街は八分の芽むつむつ           中西ひろ美   「死亡事故発生現場」しどろ春             瀬間文乃                   空蝉はこをろこをろと風に鳴る            松本光雄    天井もなくてすぶすぶ壁ばかり            鈴木純一    しどろに眠りつく放棄田のかかし          安部いろん    桃尻のぼくぼくわが身桜東風             大井恒行           撮影・鈴木純一「一本の猫のヒゲからもう一匹」↑

中原道夫「十七年も経つ裕明の草おぼろ」(「銀化」2025年3月号)・・

イメージ
 「銀化」3月号(銀化の会)、先般、谷口智行句集『海山』(邑書林)の俳人協会賞受賞お祝いの会(於:京王プラザホテル)の折り、中原道夫に撮っていただいた写真2葉をざわざ送って頂いた。深謝!!同封されていた「銀化」2月号と3月号、先日、俳句文学館で手に取ったとき、巻頭の中原道夫「駄句再再」77句に驚いたばかりだったが、どうやら、毎月77句を発表しているらしい。愚生が発表する10年分くらいの句を、毎月掲載しているのだ。しかも、下段にはエッセイが収められている。その一節に、一時期は「豈」同人であった岸本マチ子について、 (前略) 以前行った時には俳人の岸本マチ子さん(首里金城町に在住)に連絡した処、琉球舞踊付きの酒席の接待を受けたことを思い出した。その岸本マチ子さんが数年前に亡くなっていたということを、最近戴いた大井恒行氏の句集で知った。確か岸本さんは出身は群馬で沖縄へ嫁いだのではなかったか?現代詩もやっていて、30年以上昔、詩人の宋左近さんのやっていた宮城県加美郡中新田の「現代詩の噴火際」で会ったのが、最初だった。  とあった。ともあれ、本誌、本号より、アトランダムになるが、いくつかの句を挙げておこう。    うらにして表に返す落椿              中原道夫    青白き顔して霜夜ともなりぬ            加藤哲也    日の暮を待たぬ独酌年の暮             亀田憲壱    白鳥の闇に紛るる色持たず              菅 敦   魂のかたはれを呼ぶ梟よ              柴田奈美    寝の土をとること頻りきりたんぽ          潮田幸司    猿回し万歳すれば腋さびし             高木宇大    白鳥と白鷺近し無視し合ふ             田口 武    とつくりの首に金継ぎ由紀夫の忌          中村堯子    老犬に足嗅がれゐるクリスマス           橋本喜夫    これしきの葱を袋に立たせ得ず           東 麗子    無口なりお釣りきつちりもろこ売          平石和美    大いなる年の舳先を初日の出           松王かをり    蓮枯れて一望監視施設 (パノプティコン) の遠響   彌栄裕樹    クリスマスソング二人とも曖昧         ...

川崎果連「雛段の裏側にある導火線」(第4回「浜町句会」)・・

イメージ
 3月28日(金)は浜町句会(於:人形町区民館)だった。雑詠3句持ち寄り。以下に一人一句を挙げておこう。       連れ添ひてほど良き間合ひ夕桜        宮川 夏    自販機の下に王冠放哉忌           川崎果連    コンテナの四隅に錆の浮く遅日        田島実桐    春愁や豚は老後を気にしない         村上直樹    立ち漕ぎの娘土手ゆく春浅し         石原友夫    鳥帰るガザへ帰れぬパレスチナ        武藤 幹    晴れた朝一年ぶりね山桜           植木紀子    ガザの春断ち切る勇気負の連鎖        杦森松一    切り花の春の祈りを唄ってよ         大井恒行  次回は、6月6日(金)、会場は、あらためて連絡がないときは人形町会館。雑詠3句持ち寄り。 ★閑話休題・・森澤程「いぬふぐり無量無辺の夢のいろ」(「ちょっと立ちどまって」2025.2より)・・ 「ちょっと立ちどまって」は森澤程と津髙里永子のふたりのハガキ通信。   熟年の余寒にバーニャカウダかな       津高里永子     撮影・中西ひろ美「木の花も灯ともし頃を待つ弥生」↑

鈴木六林男「花篝戦争の闇よみがえり」(『暗闇の眼玉 鈴木六林男をめぐる』より)・・

イメージ
 高橋修宏著『暗闇の眼玉/鈴木六林男を巡る』(ふらんす堂)、帯文は井口時男、それには、    鈴木六林男は戦場の砲弾の破片を体内に留めたまま「戦後」を生きた。その静謐な抒情、苛烈なリアリズムと社会批判、そして独自の「群作」と「季語情況論」ー戦後俳句に鋭い異和として屹立しつづけた六林男俳句の可能性が、あらたな「戦前」かもしれぬ現在にあざやかに立ち上がる。 とある。また、少し長めの「後記に代えて」には、   本書は、鈴木六林男について二十年余りにわたり書きつづけてきた文章をまとめたものである。そのサブタイトルに「六林男を巡る」としたのは、論考ばかりでなくエッセイのような文章も配しているため、鈴木六林男という表現者をめぐって、たとえば遊歩(ベンヤミン)するようにどこからでも読んでいただければとの思いから付けたものである。 (中略)  「君、六林男の〈暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり〉という俳句があるだろ。俺は、あの句に刺激を受けて〈暗闇の下山くちびるをぶ厚くし〉を作ったんだよ」。 と、語ってくれたのだ。わたし自身「ああ、そうなんですか」ぐらいしか応えられなかったように思う。  ただ兜太氏の率直さに驚くと共に、六林男への友情と競争心を垣間見ることができた一時であった。         *  今日から見れば、同じ「暗闇」という言葉を含んだ二つの俳句は、その後の六林男と兜太を隔てる明らかな相異を見てとることができよう。  とあった。最初の「『戦争・季語・群作』 六林男への序章」の部分に、 (前略) この「季語情況論」こそが、季語のもつ虚構性を梃子として、群作という方法を作品内部から保証するひとつの装置であった。言い換えれば、その時代に通底する〈思想〉を表現するために、群作をヨコ系に、そして「季語情況論」をタテ系とすることで、六林男は俳句形式の新たな遠近法(パースペクティブ〉の獲得をはかったのである。  さらに六林男による群作は、自らの遠祖の地を訪ねる「熊野灘」七十二句(一九八五年)をはじめ、歴史的想像力をも作品に呼びこんだ「足利学校」十四句(二〇〇二年)、「北條」十五句(二〇〇三年)、そして最晩年の大作「近江」三十二句(二〇〇四年)へと結実してゆく。   淡海また器をなせり鯉幟          「近江」   花ユッカ湖のマタイ伝第五章   夏は来ぬ戦傷 (きず) の痛みの堅...

長井寛「白樺派の花見大正デモクラシー」(『十七会(となかい)』)・・

イメージ
1   長井寛第二句集『十七会(となかい)』(現代俳句協会)、その帯に、  渾身の六〇〇句。 / 心髄を煮詰めては絹糸を紡ぐ。その絹糸を丁寧に織り上げると真っ白なことばの綾になっていく。そんな一七音の感性を届けられれば望外の喜びである。 / 寛  とある。また「あとがき」には、   二〇一六年に第一句集『水陽炎』を上梓しました。以来およそ八年の歳月が過ぎ去りました。 (中略)  来し方を振り返ってみますと、出版社勤務を含めて只管に「ことば」を追い求めてきた道程でした。追い求める「ことば」に終着点はありません。「ことば」の海に放り出されながらもなんとか息継ぎをし、浮沈を繰り返してきました。句集上梓が一区切り、二区切りになるものと思っています。  とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、以下にいくつかの句を挙げておこう。    夏椿雨の重さを諾えり           寛    風に木漏れ日芭蕉に蟬しぐれ    桃吹いて耀 (かがよ) うている水の玉   己がすむ此の世と彼の世春障子   水馬円周率を抜け出せず   鹿啼いてふたつに裂ける闇溜り   電子という激流前に春惜しむ   千枚の棚田に落ちる夏の月   8月と13階を遣り過ごす   落日の見ざる聞かざる竈猫   聖地にも蹂躙ありて鵙猛る   しろがねの乙女の朱唇冬の梅   大江戸に狸穴ありて梅雨の月   透明の水に色あり桜桃忌   杼 (ひ) の調べ夢寐寐 (むび) に忘ぜずちちろ虫   長井寛(ながい・かん) 1946年、新潟県生まれ。       撮影・芽夢野うのき「岸辺なき川を漕いでは夢見草」↑

田中裕明「小鳥来るここに静かな場所がある」(「静かな場所」第32号より)・・

イメージ
 「静かな場所」第32号(発行人・対中いずみ)、招待作品に浅川芳直「絹の音」、特別寄稿に岩田奎「『田中裕明の百句』余話」、森賀まり「関西俳句講座より/『俳句に内在する明るさ」に考えたこと」の中に、 (前略) 爽やかに俳句の神に愛されて    田中裕明   この句には「発病」と前書きがある。俳誌「ゆう」を発刊した、まさにその一月に病気がわかった。  「俳句の神に愛されて」、それは、俳句に愛されたということ。じつはそれは俳句を愛している、ということと同じこと。彼は、俳句に賭してきた身を自覚したのだ。この言いさしはきっと、ああ、自分は俳句が好きだ、とつぶやいている。「爽やかに」には最後の方でよく口にしていた、「クリアでシンプルなんだ」という言葉があらわれていると思う。 とあった。ともあれ。、本誌本号より、いくつかの句を挙げておきたい。   柚の香のつと捥げば立ちたる辞去の門       浅川芳直   花冷の夜は首輪を外しやる            満田春日   おほかぜにつちかぜ湧きぬ残る鴨         森賀まり   読む人のまはり冷んやりしてをりぬ       対中いずみ   夏帽の子や読みながら歩きくる          藤本夕衣     撮影・中西ひろ美「強東風を名残の音と聞きにけり」↑

福本弘明「歳時記の雑の終わりに人類忌」(『梨の木』)・・

イメージ
 福本弘明第四句集『梨の木』(文學の森)、その「あとがき」には、    第三句集『SHOW BOAT』から十五年が過ぎた。駄句の山から二百五十句を拾い集めて第四句集とした。タイトルの『梨の木』は、〈還暦の少年梨の木を植えん〉による。「桃栗三年柿八年」に続く言葉はいろいろあるが、「柚子は九年で花が咲く、梨の大馬鹿十八年」と書かれていた葉室麟氏の エッセーが気に入って句にしたものだ。  還暦を迎えたときに、残りの人生を長くても十八年くらいだろうと思い定めたのだが、すでに九年が過ぎた。あらためて光陰人を待たずを思い知り、昨年の六月に職を辞した。  とあった。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。   客としてこの世に来たり初日受く         弘明    日の丸と豆腐は木綿敬老日   大枯野火のつきにくい奴ばかり   還暦の少年梨の木を植えん   花筏遠目にしかと黄泉の国   少年の頃にも蒔きし種を蒔く   睡蓮が見ごろ贋作美術館   「生」の字の読みはいろいろ秋深し   外されし梯子もともと秋の虹   バス停の向かいのバスの亭冬日中   裸木となりて阿修羅は無二の友   ありがとうの数に足らないカーネーション   春隣ショパンの後に聴く志ん朝   坂の上の雲に拳や長崎忌     福本弘明(ふくもと・ひろあき) 1955年、北九州小倉生まれ。       撮影・鈴木純一「西行忌木を見ていると森見えて」↑

素潜り旬「作業服には大団円がよく似合う」(「川柳スパイラル」第23号)・・

イメージ
 「川柳スパイラル」第23号(編集発行人・小池正博)、特集は「十四字作品集」。その解説の小池正博「『十四字の歴史』」には、   一、『十四字の歴史』  「十四字」(じゅうよじ)とは、「十七文字」(長句)に対する「十四字」(短句)という意味で、仮名書きにした場合の文字数(音数)に基づいて、こう呼んでいる。この呼称が適当かどうかは異論のあるところで、川柳人の中でも「十四字」「十四字詩」「七七句」「川柳短句」「短l句」など様々な呼称が並立している。  十四字(短句)のルーツは連句にある。連句は五七五の長句と七七の短句を繰り返すことによって成立する詩型である。このうち、五七五の詩型として独立したものが俳句と川柳であるが、それでは七七の方はどうなったのだろうか。独立詩型としての七七は川柳のフィールドでは「十四字」と呼ばれ、愛好者がそれなりに存在するのは『俳諧武玉川』の影響が大きい。『武玉川』は江戸座の高点句付句集で長句だけでなく短句も収録されている。 (中略)  三、十四字の現在  清水美江に師事した佐藤美文は川柳誌「風」を編集発行。五七五形式の川柳とは別に十四字の投句欄を設けた。二〇〇二年十二月、同誌の創刊五周年を記念して合同句集『風・十四字作品集』(新葉館出版)が発行された。 (中略)  私自身も十四字には早くから注目していて,『セㇾクション柳人・小池正博集』では、「十四字」の章を設けて百句を収録している。   鳥の素顔を見てはいけない      小池正博   君の胎児を恋人にする   茹でられながら孵化の夢見る   傘を返して恋のはじまり    (中略)  最近では暮田真名の影響もあって、ネットなどでも十四字形式の川柳が目につくようになってきた。   弟的な寿司なのかなあ        暮田真名   かけがえのないみりんだったね  ともあれ、その十四字作品集からと他の川柳作品のいくつかを以下に挙げておこう。   某月某日某時某所             岡本遊風   汚点はないが 欠点はある         松本 藍   時にジャズめく恋猫の声          宇川草書   夢の中だけ跳べる大空           八木幸彦   来週末の雪になる母            八上桐子   通電すると雨になります          楡原 級   えいえんの比喩/なみ...

キム・チャンヒ「風船を持つと自由でなくなるよ」(『子規新報』第2巻第105号より)・・

イメージ
 「子規新報」第2巻 第105号(子規新報編集部)、特集は、「キム・チャンヒの俳句」。その中の寺村通信・小西昭夫の「キム・チャンヒとは」の中に、 小西 そうですね。学校回りなどで、キムさんと一緒に俳句ライブをやっていた夏井いつきさんは、文語表現、歴史的仮名遣いで俳句を作られていますので、「口語、現代仮名遣いのみ」と決められたのは、キムさんの強い意志を感じます。 (中略)   というより、「100年俳句計画」の多様な紙面づくりを拝見しますと、俳句をもっと自由なものと考えられていたのかなとも思います。口語、現代語表記の選択は、文語、歴史的仮名遣い優先の俳句世界へのアンチテーゼだったのかとも思います。  加えて、現代の言葉で書かなければ、現代という時代の手触りを感じられないと考えたのかもしれません。  ブーツだらりと元恋人のおいたまま  愛の日のリボンみたいな嘘をつく  真っ先に伝えたことは金魚の死    (中略)   キムさんの句は世界との齟齬を明らかにします。大袈裟に言えば、キムさんが俳句に求めているのはこの世界の真実なのです。それを分かりやすく言えば、「詩」と呼んでいいでしょう。キムさんが求めている俳句は山本健吉の定義に「詩」を加えなければいけません。 (中略)  それにしても、口語で現代仮名遣いで俳句を作るのは困難な道です。多くの人が文語、旧仮名遣いで俳句を作るのはそのためです。キムさんの素晴らしい所は、いつも「俳句とは何か」を問い続けているところです。その答えが口語の現代仮名遣いの俳句というところに期待したいのです。  とあった。ともあれ、以下に本号より、いくつかの句を挙げておきたい。   風船のアーチを潜り戦場へ         キム・チャンヒ   街中の紙切れが蝶になる兆し          〃   花は水を欲しがる春の闇            〃   学校も夏も逃げたらすぐ終わる         〃   お喋りな人形だ壊れても喋る          〃   磯巾着ひらく弱みをみせながら         川島由紀子    街の灯のゆらいで初雪と気づく          鈴木総史    土筆摘む音やしばらく耳澄んで          石田郷子    立春大吉これくらいならまあまあと        堀本 吟    蝉の声きみ沁み給ふことなかれ      ...

高松霞「しゃぼん玉ひとつを吹いて空に明日」(『躁うつでもなんとか生きてます。~俳句と私が転がりながら歩むまで~』より)・・

イメージ
 原案・高松霞/作画・桜田洋著『躁うつでもなんとか生きてます。~俳句と私が転がりながら歩むまで~』(KADOKAWA)、その「はじめに」に、 はじめまして。/ライターで連句人の高松霞です。/私は双極性障害(躁うつ病)という精神疾患を患っています。/元気過剰な「躁」と落ち込みが深すぎる「うつ」を繰り返す、脳の障害です。/本書は「双極性障害」を、文学のの目から見たらどうなるのか?という実験的な作品になっています。 (中略) 俳句は、本文と「適度な距離感で寄り添っている」ものを採りました。/解読しなくてもいいし、深読みもしなくて大丈夫。そこに出現する俳句を、なんとなくでも味わっていただければ幸いです。 とあり、高松霞「おわりに」には、 (前略) 本書は、たくさんの方々のお力添えがあり制作されたものです。  監修・益田裕介先生/俳句感・松本てふこさん、西川火尖さん/俳句の使用許可をくださった俳人のみなさん/対談をしてくださった松浦秀俊さん/そしてなにより編集担当のOさん、漫画家の桜田洋さん  もうひとつの桜田洋「おわりに」には、 (前略) この漫画を描くにあたり、高松さんの人生とたくさんの美しい俳句が「躁うつ」を抱えて生きている人たち、その人のそばで生きている人たちに、そっと寄り添えるような漫画にしたいと思いました。そして、「躁うつ」とたまたまご縁のなかった人たちには、この病気を知る良いご縁になったらいいなと思いました。  おれ自身、この漫画を通して「躁うつ」に、俳句に触れることができ、色がひとつ増えるような感覚がありました。この色をいつまでも大切にし、そしてこの先描いていくであろう漫画に加えていけるよう精進して参りたいと思います。  とあった。そして最後の益田先生のコラムには、 障害者枠で仕事を探す人が増えています。/障碍者枠の仕事の内容や給料の幅も千差万別で、本当にバラェティ豊かになったなと思います。精神疾患を取り巻く社会福祉サービスは、年々豊かになっており、少しずつですが、生きやすい社会になってきています。  様々な人の願いが形になり、これからも少しずつ、社会は良くなっていくと思うので、悲観的にならずに、どうか焦らず、生き延びてください。 とあった。ともあれ、本書中に引用された俳句をいくつか挙げておこう。    星合の象飾られしまま眠る         西川火尖   ...

中尾壽美子「十分に老いて蓬に変身す」(「風琴」第3号より)・・

イメージ
 「風琴」第3号(風琴の会)、ブログタイトルにした中尾壽美子「 十分に老いて蓬に変身す 」の句は、本誌の皆川燈「第三句集『草の花』の命名―—中尾壽美子ノート その3」の文中に出て来る。句集『老虎灘』の句である。 他にも「耕衣から径子へのハガキ②」、五十嵐進「フクシマから見えるもの③沈静化のヒサク」、月犬「磚と略奪された文化財」、関根順子「賢治の妹トシを巡る心象スケッチ」、矢田鏃「カフカの俳句」など、特集は「嵯峨野鈴子第4句集『ちはやぶるう』を読む」など読みどころ満載。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。    鉄棒や高き風籟冷たかり         佐藤すずこ    にんげんのままで迎へる初日かな      柴田獨鬼   手のひらで瀕死の蛍がつと動く       関根順子    耳遠き男に冬の雨やさし     ときには父の聲も聞こえて        月 犬   言い訳はいらない箒草のまっ赤か      西谷裕子   スマホのない春を楽しんでいよう      三池 泉      陽水のリバーサイドはジャズ喫茶ロンドのマスターの十八番 (おはこ) だつたな    風ひかる男はみんな行方不明        皆川 燈    冬日向ありしところが曇りける       矢田 鏃    ことわれば義母の眼さみし冬景色      結城 万    雪を割る青空のかけらだ          五十嵐進    イニシエとは鯨に足があった頃        M・M 撮影・芽夢野うのき「父逝きし日と同じ牡丹雪ふり掌」↑

彌榮浩樹「つくりたて哉熱熱の雪だるま」(『トリガー・ハニー/鉄爪蜂蜜』)・・

イメージ
   彌榮浩樹第二句集『トリガー・ハニー(鉄爪蜂蜜)』(ふらんす堂)、著者「あとがき」に、   第二句集『トリガー・ハニー 鉄爪蜂蜜』を上梓します。 (中略)  収めた三百句は、どれも(生活の俳句化)の積み重ねから生まれてきたものです。日常生活で出会う凡事が有季定型のかたちに(無理矢理)嵌め込まれることで、「なんじゃこりゃ?」と居心地悪い感触を纏う不思議なイメージとして立ち現れる。これが僕にとっての俳句 (・・・・・・・・) です。慧眼の皆さんに、多様に読み解き、多彩に楽しんでいただきたい、と願っています。  とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、以下に、いくつかの句を挙げておきたい。    虫鳥の白梅潜遊 (はくばいもぐりあそび) かな     浩樹      女湯をすべる少年ゆふひばり   源五郎サンダーバードなら2号   くちびるが顔ほど腫れてくわとのひも   青春のコードのねずみ花火かな   どの鳥も宙吊りにして山眠る   ハチミツをツミチハにして雪催   父だけに見ゆる春服のをばさん   蝌蚪のひも運動競技 (スポーツ) なのか愛なのか   永き日のわかめうどんに終はる旅   太陽の塔のくちびる滑莧   ピーマンの奥のくれなゐ初嵐   ゐのこづち不忍口で待つてゐる   はなみづをまだこぼさずに花屋にゐ  彌榮浩樹(みえ・こうき) 1965年、鹿児島県生まれ。 ★閑話休題・・井上芳子「春の別れ古い障子の破れ穴」(第39回「きすげ句会」)・・  本日、3月20日(木)は、第39回「きすげ句会」(於:府中市生涯学習センター)だった。兼題は「石」。本日より、新会員の新宅秀則が初参加の句会、新しい人が加入するとそれだけで、活気づくから不思議だ。以下に一人一句を挙げておこう。    ただただ乱れ乱れて春の雪             寺地千穂   春蘭や寒さの中のうすみどり            井上芳子   飾り棚集めた石に旅香る             大庭久美子    春入日素足の孫のをどりをり            新宅秀則     春の鬱吐き出すように小石吐く鯉         久保田和代    隕石ノ大衝突地球 (テラ) 二チルサクラ       山川桂子   雪溶けて環状列石円になる             井谷泰彦   木耳の嚙めば噛むほど老い...

川野里子「ゆかねば 迎へにゆかねば 十万年のちの未来に預けたる火を」(『短歌って何?と訊いてみた』より)・・

イメージ
  川野里子対話集『短歌って何?と訊問いてみた』(本阿弥書店)、各界の対話者は、赤坂憲雄、伊藤比呂美、井上弘美、岩川ありさ、木村朗子・サンキュー・タツオ、品川悦一、高野ムツオ、新見隆、納富信留、堀田季何、三浦しをん、三浦佑之、宮下規久朗、村田喜代子。その「はじめに」の中に、 (前略) そしてニ〇〇〇年代、穂村弘は「短歌は世界の扉を破るための爆弾になりうる可能性がある」(『短歌という爆弾』)と宣言し口語短歌の時代へと入る。だが、水原紫苑は「日本の根源的な闇につながっている『ヤバイ』詩形としての短歌を常に認識しなけれななるまい」(『桜は本当に美しいのか』)とその危うさを示唆する。 (中略)  本書は、「短歌って何?」をキーワードに、あえて歌人以外のさまざまジャンルの方々との対話を試みた、何とも贅沢な記録だ。  とあった。ここでは、堀田季何との対話「海外からみた短歌、俳句は?」から、少し紹介しておきたい。  (前略)堀田  季語とはキーワードです。ですから、外国の俳人に季語を使わせようとか、現地の季語を造らせようとか、そういうことではなくて、各地の言語文化の中にあるキーワードを使えばよいのですよ。暗黙の了解が言語によって違うわけですから、フランスならばフランス語の中のキ-ワードを使えばよいのです。 (中略)  どの言語で創作するにしても、その言語に対するリスペクトが必要だという考えから、私は日本語で書く時は季語も重んじています。使うべきときは使うべきだと。こう言うと、みな驚くのですけれどもね、無季の句も作るし、「季」って「何」などという雅号ですし(笑)。 (中略)  最後にもう一つ加えますと、私は、近代以降の俳句も短歌も純粋な伝統詩だとは考えていないのです。欧米の詩と融合したと思っています。 (中略)  「写生」もそうですし、自然主義、リアリズム、象徴主義、超現実主義をはじめ、さまざまな技術や思想が随時入ってきて、曲解されたり、独自に発展したりしていますし、折衷型の新しい詩型ですよ。「私性」も折衷による一つの産物です。ですから、俳句や短歌を日本の伝統詩型云々という批判が、そもそも的外れな側面があります。  とあった。本書中、多くの作品の引用があるが、そのうちのいくつかを挙げておこう。   銃聲と思ふまで龜鳴きにけり        堀田季何   秋蟬のいちばんとほき...

田中目八「鏡騒白桃にこゑ浸しては」(「We」第19号)・・

イメージ
   俳句短歌誌「We」第19号(俳句短歌We社)、エッセイ、俳句、短歌、評論など記事満載の同人誌。なかでも、愚生と同じ「豈」同人でもある酒巻英一郎「 前号斎藤秀雄作品『最後から二番目の卵』を読む/類推の魔 」に眼が止まった。その中に、 (前略) さて「最後から二番目の卵」五十句の詩的言語のある種の難解さとは、それが啓蒙の対極、読み手の淘汰に位置してゐるのも関はらず、本質的に啓蒙的であるといふ点にある。この矛盾律を作品自体がいかに止揚するのか。一見閉ぢられてゐるかに思はれる言語は、未知の読者に全面的に開放されてゐる。  五十句の任意どの一句でも構はない。一句突破全面展開、いや信じ詰めれば一語突破、一音突破全面展開の言語的戦略gさ繰り広げられる。その戦略とは何か。一言すれば、類推なる詩的機能の開示にある。 (中略)    けむりの木日の裏を鳥立ち込める  単語は、けむりの木、日、裏、鳥の体言。用言として立ち込める(動詞)と、の(連体助詞)を(格助詞)の助詞。わづかに表情が読みとれるのは立ち込めるのみ。日と裏は連体修飾語として日と裏との合成語となる。けむりの木は英名スモークツリー、和名煙の木。鳥唯一、この句において主体を装はされ陽動として立ち込め、立ち込めさせられる。ふつう立ち込めるとは霧や烟が辺り一面に籠もる、充満する状態を言ふのだが、鳥立ち込めるとの用法にはすぐれて詩的な弾力がある。 (中略) あたかもけむりがけむりの木から立ち上るやうに、天日を蔽ひ、さらに鳥を偏在させ封印する。  とあった。ともあれ、本誌よりいくつかの作品を挙げておきたい。    真白き腿に頽れ冬薔薇           松永みよこ   炎天や囚人護送車通り過ぐ         籾田ゆうこ   たましひに鬼がいすわる師走かな       森さかえ      プール出で二足歩行のマーメイド      内野多恵子    ふるさとは不易流行蛙跳ぶ          江良 修    火恋し 身巾身丈に立禅す         小田桐妙女    影踏みにときどき交じる魚の影        男波弘志   幾人のおのれのかげや花野ゆく        加能雅臣    思い切り泣きたいときに母カレー       貴田雄介   水曲げて善知鳥のみちを不断香        斎藤秀雄    本来無一物風の秋遍路  ...

鈴木牛後「もふもふが濡れるともぶもぶのくじら」(「晴」VOl.8 終刊号)・・

イメージ
 「晴」第8号・終刊号(編集発行人 樋口由紀子)、その巻頭に、鈴木牛後「『良い川柳』とは何だろうか?―—川柳句会に参加して考えたこと」がある。その中に、 (前略) ここで「読み」ということについて考えてみたい。俳句と川柳の違いのひとつには、読みの規範性とおうことがあるように思う。俳句には、「規範的な読み」があるが、川柳にはないのではないかということだ。有季定型俳句に必須である季語には、本意 (ほい) というものがある。本意とは、和歌・連歌から続く季語・季題の歴史の上でもっとも中心的とされてきた意味のことで、その本意に添っているか、あるいはそこから離れているかということが俳句の読みでは重視される。写生句では、事物をどれだけ忠実に写しているか、そのためのレトリックは効果的かなどとうことも、読みでは考慮されなければならない。また俳句の十七音から読み散れないことに言及することには抑制的であるのが一般的だ。もちろん俳句にも多様な読みが可能な佳句も多く存在するが、どこまでも自由な読みが許容されるかというと、そこには限界があるように思われる。  その点現代川柳では、一般的な読みが成立することも少ないため、そのような読みの規範性などは存在し得ないだろう。 (中略)  最後に冒頭の、「良い川柳」とは何か、あるいは川柳人は、川柳の良し悪しをどのように判断しているのかという問いに戻ってみたい。先に、川柳の特徴として、「読みの自由さ」があるのではないかと書いた。そこから考えると、「良い川柳」というのは言葉の分析がなされるより先に、読者の中に、「心が揺れたから何か言いたい」という衝動が湧き起きる句なのではないかと感じた。それは解釈として正しい読みだったり、まして道徳的に正しかったりする必要はない。ただ心が揺れたことに対して、たとえ論理的でなくても、辻褄が合わなくても、何か言葉を発するだけでいいということだ。  俳句はひとつの読みの上にまた読みが重ねられ、それが重層的に組み上げられることで一句の読みが定まっていく。しかし川柳はひとつの読みに対して反対側からもうひとつの読みが試みられ、さらに上の方から、横の方からと多方面から読みが投げかけられる。そしてそれらは雑多に句の周りに立て掛けられたり、横たえられたりしている、そんなイメージが私の中に映し出されている。   とあった。その川柳句会の...

杉本青三郎「旋律を乗せて雲ゆく木の芽時」(第67回「ことごと句会」)・・

イメージ
 3月15日(土)は第67回「ことどと句会」(於:ルノアール新宿区役所横店)だった。兼題は「島」。一人一句を挙げておこう。    青空の支店の顔のイヌフグリ       江良純雄    天気図は指紋のかたち春時雨       石原友夫    ふしくれだった半島から春風      杉本青三郎    アッツ島へ呼ばれてかへる鳥もゐて    林ひとみ    春時雨画架抱いて乗る島渡船       渡邉樹音    自転車スマホ 以て遠島申し付く     渡辺信子    春といふ世に歪 (いびつ) あり風車    武藤 幹    T字路にY字路に雪しんしん        金田一剛    春兆す妻が秘かに紅を変え        村上直樹    冬の雨柩の中嶋俺はさざ波        照井三余    蜃気楼原子の火燃ゆる半島        杦森松一    椿落つとりつく島もなく落つる      大井恒行  次回は、4月19日(土)。 ★閑話休題・・春風亭昇吉「ポッキーも春もボートと浮いている」(3月13日(木)「TVプレバト・春光戦」)・・  遊句会の仲間である春風亭庄吉が久々にTVプレバト・春光戦に登場した。決勝戦に残れず、かつ地上波テレビでは句も放送されない第11位に甘んじたが、放映されない部分はTVer ティーバーで見られるというので、愚生は携帯で初めてそのティーバーとやらで見たのだ。第12位が立川志らく「 モノクロの桜にグリコの赤い箱 」だった。テーマは「思わず食べてしまう菓子」だったように思う。         撮影・鈴木純一「訪れる人もあれかし沈丁花」↑

尾上哲「白鷺の天守にかかる大柳」(「立川こぶし句会」)・・

イメージ
  3月14日(金)は、「立川こぶし句会」(於:高松学習館)だった。雑詠持ち寄り4句である。以下に一人一句を挙げておこう。    畦は今お茶とお新香揚げ雲雀       伊藤康次    被曝牛牧開 (まきびら) きなき十四年   井澤勝代   病床の窓の先より初音かな        尾上 哲    友の通夜菜花を添えて啜る蕎麦      和田信行    春の風弥勒菩薩の指先に         川村恵子    挨拶は目顔で交わし春の道        三橋米子   ほころんで霊力放つ桃の花        山蔭典子    ほほ笑みの椿一輪供えし朝        髙橋桂子    飛行機は春昼の空切りさきて       大澤千里    春風に洗えよヘイトクライムを      大井恒行 ★閑話休題・・没後30年・ドアノーの愛したパリ 1912-1994 /DOBERT DOISNEAU展(於:何必館・京都現代美術館)・・  先日、京都知恩院から四条通りを河原町法方面に歩いていたら、数十年前に入った、こじんまりした、思わず通り過ぎてしまいそうな、愚生の好きな美術館に、入り込んだ。偶然「ドアノーの愛したパリ 1912-1994展」だった。チラシには冒頭、「 ロベール・ドアノーは世界で最も人気のある20世紀を代表する写真家です 」「 本展は、『子供達』『恋人』『酒場』『街路』『芸術家』の5つのテーマで構成し、サイン入りオリジナルプリント約60点を展示いたします 」とあった。かつて、この美術館の常設で香月泰男や山口薫、村上華岳に出会ったのも懐かしい思いがあるが、現在は、ほとんど展示されることもないようだった。     撮影・芽夢野うのき「春の脳しずかに地球しずかに狂う」↑