川野里子「ゆかねば 迎へにゆかねば 十万年のちの未来に預けたる火を」(『短歌って何?と訊いてみた』より)・・
川野里子対話集『短歌って何?と訊問いてみた』(本阿弥書店)、各界の対話者は、赤坂憲雄、伊藤比呂美、井上弘美、岩川ありさ、木村朗子・サンキュー・タツオ、品川悦一、高野ムツオ、新見隆、納富信留、堀田季何、三浦しをん、三浦佑之、宮下規久朗、村田喜代子。その「はじめに」の中に、
(前略)そしてニ〇〇〇年代、穂村弘は「短歌は世界の扉を破るための爆弾になりうる可能性がある」(『短歌という爆弾』)と宣言し口語短歌の時代へと入る。だが、水原紫苑は「日本の根源的な闇につながっている『ヤバイ』詩形としての短歌を常に認識しなけれななるまい」(『桜は本当に美しいのか』)とその危うさを示唆する。(中略)
本書は、「短歌って何?」をキーワードに、あえて歌人以外のさまざまジャンルの方々との対話を試みた、何とも贅沢な記録だ。
とあった。ここでは、堀田季何との対話「海外からみた短歌、俳句は?」から、少し紹介しておきたい。
(前略)堀田 季語とはキーワードです。ですから、外国の俳人に季語を使わせようとか、現地の季語を造らせようとか、そういうことではなくて、各地の言語文化の中にあるキーワードを使えばよいのですよ。暗黙の了解が言語によって違うわけですから、フランスならばフランス語の中のキ-ワードを使えばよいのです。(中略)
どの言語で創作するにしても、その言語に対するリスペクトが必要だという考えから、私は日本語で書く時は季語も重んじています。使うべきときは使うべきだと。こう言うと、みな驚くのですけれどもね、無季の句も作るし、「季」って「何」などという雅号ですし(笑)。(中略)
最後にもう一つ加えますと、私は、近代以降の俳句も短歌も純粋な伝統詩だとは考えていないのです。欧米の詩と融合したと思っています。(中略)
「写生」もそうですし、自然主義、リアリズム、象徴主義、超現実主義をはじめ、さまざまな技術や思想が随時入ってきて、曲解されたり、独自に発展したりしていますし、折衷型の新しい詩型ですよ。「私性」も折衷による一つの産物です。ですから、俳句や短歌を日本の伝統詩型云々という批判が、そもそも的外れな側面があります。
とあった。本書中、多くの作品の引用があるが、そのうちのいくつかを挙げておこう。
銃聲と思ふまで龜鳴きにけり 堀田季何
秋蟬のいちばんとほき声を聞く 井上弘美
原子炉も人も翼下の夏の鳶 高野ムツオ
八方の原子爐尊(たふと)四方拝 高橋睦郎
真炎天原子炉も火に苦しむか 正木ゆう子
「はまなすが咲く頃」「はまなすが咲く頃」そこから先のあらぬ知床 川野里子
うかんだりしずんだりしてさまよって手のなるほうへ霧笛を鳴らす 井上法子
川野里子(かわの・さとこ) 1959年、大分県竹田市生まれ。
撮影・鈴木純一「零といふ
いいもんあげる
ありがたう」↑
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