鈴木牛後「もふもふが濡れるともぶもぶのくじら」(「晴」VOl.8 終刊号)・・
「晴」第8号・終刊号(編集発行人 樋口由紀子)、その巻頭に、鈴木牛後「『良い川柳』とは何だろうか?―—川柳句会に参加して考えたこと」がある。その中に、
(前略)ここで「読み」ということについて考えてみたい。俳句と川柳の違いのひとつには、読みの規範性とおうことがあるように思う。俳句には、「規範的な読み」があるが、川柳にはないのではないかということだ。有季定型俳句に必須である季語には、本意(ほい)というものがある。本意とは、和歌・連歌から続く季語・季題の歴史の上でもっとも中心的とされてきた意味のことで、その本意に添っているか、あるいはそこから離れているかということが俳句の読みでは重視される。写生句では、事物をどれだけ忠実に写しているか、そのためのレトリックは効果的かなどとうことも、読みでは考慮されなければならない。また俳句の十七音から読み散れないことに言及することには抑制的であるのが一般的だ。もちろん俳句にも多様な読みが可能な佳句も多く存在するが、どこまでも自由な読みが許容されるかというと、そこには限界があるように思われる。
その点現代川柳では、一般的な読みが成立することも少ないため、そのような読みの規範性などは存在し得ないだろう。(中略)
最後に冒頭の、「良い川柳」とは何か、あるいは川柳人は、川柳の良し悪しをどのように判断しているのかという問いに戻ってみたい。先に、川柳の特徴として、「読みの自由さ」があるのではないかと書いた。そこから考えると、「良い川柳」というのは言葉の分析がなされるより先に、読者の中に、「心が揺れたから何か言いたい」という衝動が湧き起きる句なのではないかと感じた。それは解釈として正しい読みだったり、まして道徳的に正しかったりする必要はない。ただ心が揺れたことに対して、たとえ論理的でなくても、辻褄が合わなくても、何か言葉を発するだけでいいということだ。
俳句はひとつの読みの上にまた読みが重ねられ、それが重層的に組み上げられることで一句の読みが定まっていく。しかし川柳はひとつの読みに対して反対側からもうひとつの読みが試みられ、さらに上の方から、横の方からと多方面から読みが投げかけられる。そしてそれらは雑多に句の周りに立て掛けられたり、横たえられたりしている、そんなイメージが私の中に映し出されている。
とあった。その川柳句会の折に発表された鈴木牛後の句は以下、「兼題」は「月」と雑詠句だったという。
見栄張って月と地球の宙返り 牛後
人肌に漬けておく旧漢字
胴体に頭を乗せておくマナー
ヒーローのお面で麺を湯切りする
また、樋口由紀子「私の好きな川柳人 Ⅶ /☆井上一筒(いのうえ・いーとん)」一九三九~」には、
(前略)川柳はフィクションである。信憑性にこだわる必要性はない。もっともらしくないことをもっともらしく書くことができる。平気でわからないことだって書ける。私がずっと書きたいと思っていた川柳は井上一筒が持っていたのだ。
とあった。そして、本誌が本号をもって終刊するのは、「後記」によると、樋口由紀子は、昨年12月に大病を宣告され、病と共存していくことになりました、とあり、今はひたすら、本復を祈りたい。ともあれ、以下に、本号より、いくつかの作品を挙げておきたい。
戦わぬ人が戦う人を見る 水本石華
メレンゲにひたひた満ちる魚心 妹尾 凛
たましいが順に入ってゆく西日 樋口由紀子
一〇〇〇人の妖精たちにからまれる いなだ豆乃助
鉢植えにされて問答無用なの 松永千秋
笑ったら負ける遊びに負けている 広瀬ちえみ
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