鈴木六林男「花篝戦争の闇よみがえり」(『暗闇の眼玉 鈴木六林男をめぐる』より)・・


 高橋修宏著『暗闇の眼玉/鈴木六林男を巡る』(ふらんす堂)、帯文は井口時男、それには、


  鈴木六林男は戦場の砲弾の破片を体内に留めたまま「戦後」を生きた。その静謐な抒情、苛烈なリアリズムと社会批判、そして独自の「群作」と「季語情況論」ー戦後俳句に鋭い異和として屹立しつづけた六林男俳句の可能性が、あらたな「戦前」かもしれぬ現在にあざやかに立ち上がる。


とある。また、少し長めの「後記に代えて」には、


 本書は、鈴木六林男について二十年余りにわたり書きつづけてきた文章をまとめたものである。そのサブタイトルに「六林男を巡る」としたのは、論考ばかりでなくエッセイのような文章も配しているため、鈴木六林男という表現者をめぐって、たとえば遊歩(ベンヤミン)するようにどこからでも読んでいただければとの思いから付けたものである。(中略)

 「君、六林男の〈暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり〉という俳句があるだろ。俺は、あの句に刺激を受けて〈暗闇の下山くちびるをぶ厚くし〉を作ったんだよ」。

と、語ってくれたのだ。わたし自身「ああ、そうなんですか」ぐらいしか応えられなかったように思う。

 ただ兜太氏の率直さに驚くと共に、六林男への友情と競争心を垣間見ることができた一時であった。

        *

 今日から見れば、同じ「暗闇」という言葉を含んだ二つの俳句は、その後の六林男と兜太を隔てる明らかな相異を見てとることができよう。


 とあった。最初の「『戦争・季語・群作』 六林男への序章」の部分に、


(前略)この「季語情況論」こそが、季語のもつ虚構性を梃子として、群作という方法を作品内部から保証するひとつの装置であった。言い換えれば、その時代に通底する〈思想〉を表現するために、群作をヨコ系に、そして「季語情況論」をタテ系とすることで、六林男は俳句形式の新たな遠近法(パースペクティブ〉の獲得をはかったのである。

 さらに六林男による群作は、自らの遠祖の地を訪ねる「熊野灘」七十二句(一九八五年)をはじめ、歴史的想像力をも作品に呼びこんだ「足利学校」十四句(二〇〇二年)、「北條」十五句(二〇〇三年)、そして最晩年の大作「近江」三十二句(二〇〇四年)へと結実してゆく。

  淡海また器をなせり鯉幟          「近江」

  花ユッカ湖のマタイ伝第五章

  夏は来ぬ戦傷(きず)の痛みの堅田にて


そして「持続と断念」の項に言う。


(前略)しかし、今日こそ、そのような〈戦後俳句〉、あるいは〈社会性俳句〉という枠組の名から、六林男の作品を連れ出してみる必要があるのではないか。そして〈戦争〉を直接体験していない私たちのような読者こそ、〈戦後俳句〉というコンテクストに囚われることなく、もっと自由に六林男の作品を読んでもいいのではないだろうか。  


 と。巻末には、高橋修宏選抄出の「鈴木六林男 百二十句」がある。鈴木六林男を語るに必読の書であるが、本ブログでは、到底紹介しきれない。是非、本書に直接当たられたい。ともあれ、本書より、六林男のいくつかの句を挙げておきたい。


  われの死後戦友のなし夏の海       六林男

  遠くまで赤信号の開戦日

  天の川あやめしことをすぐ忘れ

  白兵の夢のつづきを花野ゆく

  終戦に人ら泳げり敗戦日

  長短の兵の痩身秋風裡

  満開のふれてつめたき桜の木

  傷口です右や左の旦那さま

  射たれたりおれに見られておれの骨

  国中(くになか)や死んだ者らと月を見る 

  冬の時〈見たものは見たと言え〉


 髙橋修宏(たかはし・のぶひろ) 1955年、東京都生まれ。富山市在住。



          撮影・鈴木純一「啓蟄や左の耳の奥深く」↑

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