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福田知子「一色ずつ虹をはがせば火傷痕」(『情死一擲』)・・

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     福田知子第4句集『情死一擲』(ジャプラン)、跋は、先般急逝し、遺稿ともいうべき竹岡一郎「 宇気比 (うけい) に焦がれる句、観るための 」。それには、   俳句が穏やかなもの、誰にでもわかるもの、存問の詩となってから、どのくらい経っただろう。それは俳句が生き残る手段でもあったように思う。それはそれで良い。俳句が穏やかに懐かしく、心を慰めるものである事に、何の間違いもない。しかし、その穏やかさ、判り易さに留まる事の出来ぬ者もいるのだ。留まる事こそが生だと。   生きている駅と国境 (さかい) にある裸身   髪洗う水の繊 (ほそ) きに雁渡       (中略)  では、辺境に在れば、此の世の本質はみえるのだろうか。そうとも限らないが、少なくとも、見ようとする己が望みは護れる。直截に見ようととする意志、それは焔だ。   一色ずつ虹をはがせば火傷痕  「技法に長ける事」と「技法に悪馴れする事」との判別は難しいのかもしれない。それならば、いっそ意味を跳躍してでも鮮やかであろうとする方が良いかもしれない。何が幻で何が現実かなど、此の世の誰にも、そして彼の世の誰にも分りはしない。   隙なく絞めむ鯨の精の果つるまで   囀りに命おちこち落ちやまず   火柱を舐め合う夏野漆黒の        (中略)  此処に一巻の句集があり、あけっぴろげで不器用で、時にたどたどしく時に鋭く、時に婉曲であり時に直截だ。此の世と彼の世を、人間と八百万の神々とを、あるがままにみたいと立つ焔、宇気比に焦がれる焔の、その欠片が、それぞれの一句である。  読者よ、その明かりの一片でも、己が心に灯されんことを。    令和六年四月             竹岡一郎                とある。その竹岡一郎は、去る6月21日、大動脈解離によって死去、享年62だった。ご冥福を祈る。また、著者「あとがき」には、  (前略) 集名の「情死一擲」について記しておきたいことがある。それは、映画『華の乱』(1988年)を観て触発され手かいた俳句〈首筋に情死一擲の白百合〉に拠るということ。そしてそれは、それだけにはとどまらなかった。というのは、神風連の変〈乱じゃない)と西南の役についての連作を書いた後、この2つの歴史的事実が歴史的評価は別として、文学邸には情死あるいは心中ではないか、という考えに至った

寺井谷子「わが筑紫の血や荒れはじむ麦の秋」(「現代俳句」8月号より)・・

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「現代俳句」8月号(現代俳句協会)、特集は「第24回現代俳句大賞受賞 寺井谷子」である。そのエッセイに寺井谷子「よき人に会う」。その中に、  八歳になった早春の一日、父横山白虹に連れられて探梅句会へ行った。 (中略) 小流れの縁に立つ緑の草に目がゆき、一本手折った。美しい水が滴る。 (中略) 句会が終ったのか、私を呼ぶ父の声がする。何本かのその草の手ごたえを握りしめたまま家に帰った。翌日、担任の先生にお話しすると、「木賊(とくさ)ですね。水?出てこないでしょ」とあの私の指を濡らした清々としたのは何だったのだろう。素っ気ない言葉に、八歳は不機嫌になった。   しばらくして次のような句が発表された。   二コよ!青い木賊をまだ採るのか   白虹  「青い木賊」は、「俳句」と同義語となって、今も私を力付けてくれる。 (中略)  横山家の家訓に、「よき人に会う」というのがある。横山白虹が長く会長の責を負い、活動の中心となった地区活性化や大会開催の拡大も「相会う」ことで生まれるものへの期待があったろう。  とあった。他に、寺井谷子自選30句、論考に高野ムツオ「 新興俳句から 」、久保純夫「 寺井谷子という存在 」とある。 また、愚生は本号に。写真を見て一句「わたしの一句」を求められたので、多行表記の句を投じた。   一睡 (いつすい) の   一穴 (いっけつ)   戦 (いく)さ   夏嵐 (なつあらし)          大井恒行  また、前号にひき続いて、星野高士と筑紫磐井の対談「 『花鳥諷詠と前衛』―—三協会統合の可能性(下 )」がある。そして、宮崎斗士「 新現代俳句時評/現代俳句新人賞は今 」、  巻頭エッセイ「直線曲線」には、川崎果連「 俳句を広めるための私の取り組み報告 〈地区協会の初心者講座開設に寄せて」など。ともあれ、本号より、いくつかの句を挙げておこう。    我という化物の手に笹百合よ       鳴戸奈菜    ひとはみな首ひとつ持ち花樗      渡辺誠一郎    砂時計の砂の頂上送盆         神田ひろみ    私を改行している日永かな        白石司子    背泳ぎは無防備すぎる泳ぎ方       西谷剛周    原爆投下予定地に哭く赤ん坊       寺井谷子    青林檎嚙むたび海が新しい        茂里美絵    はつなつや

暮田真名「良い寿司は関節がよく曲がるんだ」(「川柳スパイラル」第21号より)・・

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 「川柳スパイラル」第21号(編集発行人・小池正博)、「編集後記」の中に、  (前略) 本号の特集は「現代川柳Q&A」とした。ベテラン川柳人にとっては既知のことばかりかも知れないが、川柳をはじめて日の浅い読者のために現代川柳史の視点も居れて編集してみた。「天馬」などの川柳誌を再掲載したので、現代川柳創成期の雰囲気が少しでも伝わればと思う。  とあった。それは「 【資料1】川柳誌再録/現代川柳は如何にあるべきか(「天馬」2号、一九五七年二月)」座談会〈出席者、松本芳味・山村祐・金森冬起夫・堀豊次・上田枯粒・宮田あきら・墨作二郎・河野春三) の抄録である。愚生は、墨作二郎にはお会いしたことがある。川柳誌も送っていただいたことがある。川柳に無智な愚生には、目からウロコの感じだった。ここでは、 渡辺隆夫「〇なんでもありの五七五」 から、さらに抄録させていただく。   「川柳とは何ぞやと問われたとき、私は、『なんでもありの五七五』と答えることにしている。いささか投げやりに聞こえるかもしれないが、冷静に現在の川柳を観察すると、これは川柳の最大公約数だと思う。何でもありだから、当然、俳句を含む。俳句が五七五を守るかぎり、それにどんな条件(季語も文語も切れも詩性も)をつけても、つけなくても、丸ごと機械的に俳句を包み込んでしまう。 (中略) また、俳句と川柳にもし境界があるとしても、それはなんでもありの大風呂敷の中で、ゆっくり考えればよい。川柳人にとっては、俳句も身の内であるというところがミソである。川柳人たるものは。現代俳句の何たるかくらいはわかっていないと困るのである」  (初出「川柳杜人」176号、1997年『セレクション柳人・渡辺隆夫集』に収録)  これでは、まるで、「 俳句は何でもありの五・七・五 」と言っている愚生と一緒だ。「川柳」の部分を「俳句」に変換すればよい。ともあて、以下に、本誌の同人作品を挙げておきたい。    八掛けで売る戦闘機かいもなく       湊 圭伍    マシンガン・トークで恋の種字を消す    小池正博    くちびるの残像 耳たぶの忘却       浪越靖政    大根を炊くわたしにも願いごと       畑 美樹    ふらここはいつも今こことして揺れ     飯島章友    羊羹に寂の時間が降り積もる        悠とし子    呪術師の

坂田晃一「朧より来てはおぼろへ軍用機」(『耳輪鳴る』)・・

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 坂田晃一第一句集『耳輪鳴る』(ふらんす堂)、懇切な序は対馬康子、その中に、  (前略) 「麦」に掲載した作者の文章に、俳句を始めて間もない一九九八年ころ、河原枇杷男の〈誰かまた銀河に溺るる一悲鳴〉に出会い衝撃を受けたとあります。  「未来への漠然とした不安を抱いていた」とき、夜空の星々のかなたから悲鳴が聞こえてきた。悲鳴の主は自分かもしれないし、明日はまた別の人かも知れない。「悲鳴は個人的な嘆きを超えて永遠に続く」。そしてこの「大きな詩的空間の広がりの中に自分のちっぽけな不安など消えていく」のを感じたのだと。  枇杷男の句に悠久なる時間の河に溺れるような悲鳴を聞いた作者。見えないものによって癒され、見えないものが現実を受け止める力となっていく。それが俳句という詩との出会いだったのです。 〈中略)     耳輪鳴る海亀海へ帰るとき    海亀が夜の砂浜に産卵して静かに海に帰って行く。真夜中の波音を背に涙して卵を産む海亀。そのしんとした神聖な時間を私も徳島日和佐の海岸に見に行ったことがあります。 (中略) 神の証の耳輪の音がシャランと響いたその瞬間、日本人の遥かな時空とふるさと四国の海の景が一つにつながり晃一俳句の原郷となっていく。  とあった。そして、著者「あとがき」には、 (前略) 今回句集に編んだ句は、大半が「未来図」、「磁石」時代に作った句である。しかし、二十五年あまりという月日は長く、その間に、鍵和田秞子、黒田杏子と相次いで師を失ってしまった。心残りは、ずっと私を見守ってくれていたであろうお二人の師に句集をお見せできなかったことである。  現在所属している「麦」の対馬康子会長とは、母校の高松高校の先輩、後輩というご縁で、高校の卒業生で始めた句会で毎月お世話になっていた。これももう一五〇回を超えて続いており、その間、対馬会長(句会では康子先生と呼ばせてもらっている。)にはご多忙の中ずっと選をいただいており、私をはじめ句会参加者には大きな励みになっている。  と記されている。ともあれ、愚性好みに偏するが、以下にいくつかの句を挙げておきたい。    献花する海のしづけさみちのく忌        晃一    葱坊主塔は千年立たされて   雲雀啼く空のどこかにピンホール   予報士の予報せし空虹生れぬ   太古より空は動かず青あらし   月徐々に痩せて高みに獺祭忌  

広渡敬雄「根の国も照らす線香花火かな」(『風紋』)・・

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  広渡敬雄第4句集『風紋』(角川書店)、著者「あとがき」には、   このたび、平成二十八(二〇一六)年から令和五(二〇二三)年末までの作品から、三三三句を自選して、第四句集『風紋」にまとめた。  風紋は、津波で亡くなった方も含め、冥界の懐かしい方からの便りと思うと愛しい。 (中略)   日本の灯台は、徐々に無人となり、平成十八(二〇〇六)年には完全に無人化となった。現在の日本に有人灯台はない。  山登りの途中で、荒れた茶畑や朽ちた猪垣、廃屋をよく見かけるが、家の中には大きな冷蔵庫が現役のように残っていることがある。そういう時、そこで暮した人達の営みを記憶に残したいと思う。  とあった。集名に因む句は、      東日本大震災から五年・気仙沼    風紋は沖よりのふみ夕千鳥           敬雄   であろう。ともあれ、愚生好みに偏するが、以下に、いくつかの句を挙げてぽきたい。    クリアファイル重ねて曇る山は秋   朧夜の灯すことなき浮御堂   浅間山 (あさま) には浅間隠山 (あさまかくし) や雪催   山開き空葬 (からとむら) ひの友ありし   御来迎彼の世の我に手を振りぬ         御来迎:高山の頂上で日の出、日没の時、太陽を背にして立つ        と自分の影が全面の霧に映り阿弥陀仏が光背を負って来迎する        ように見える現象。いわゆるブロッケン現象をいう。    寒行のいつさい滝を仰ぐなし   荼毘に付すもう昼寝せぬ子となりて   振る塩を弾く喪服や夏の山   きのふよりけふは明るし銀杏散る   弔ひの叶はぬ死ありけふの月   タンカーは空荷であらむかひやぐら   慰霊碑なき軍犬軍馬散るさくら   絵師彫師摺師版元初仕事   果のなき戦火に松を納めけり      広渡敬雄(ひろわたり・たかお) 1951年、福岡県遠賀郡岡垣町生まれ          撮影・芽夢野うのき「胸に抱く精霊流しの一燈を」↑

羽村美和子「水中花しのしの足を出してみる」(第163回「豈」東京句会)・・

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 本日、7月27日(土)は、奇数月最終土曜、二か月一度の開催、第163回「豈」東京句会(於:ありすいきいきプラザ)だった。いままで使っていた白金いきいきプラザは改修工事のため、2年間は使用不可。広尾の都立図書館そばのありすいきいきプラザになったのだ。猛暑日続く最中で、いつもより少ない人数だったが、それはそれで、充実した時間を過ごした。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。    平熱の紫陽花 感触は乳房       山本敏倖    徴兵に神の枠ある月夜茸       羽村美和子    体内にうごめく磁石熱帯夜       中村初穂    都市化砂漠化独唱の油蝉       杉本青三郎    梔子の香りや表札ディオ        早瀬恵子    明るいパティオに壺中天あり沙羅双樹  大井恒行  次回は、9月28日(土)、雑詠3句持ち寄り。 ★閑話休題・・篠弘「人ひとりなしうることは小さかりデスクにならぶ週末のメモ」(日本現代詩歌文学館館報「詩歌の森」第101号より)・・      11月17日(日)14時~16時半「きたかみ・鬼の国/俳句フェステバル」↑              (於:日本現代詩歌文学館講堂)  巻頭のエッセイは佐々木幹郎「いかに『生』と『死』を扱うか」である。それには、   詩歌において人間の「生」と「死」を扱うことは、言葉が言葉を越えた世界へ出て行こうとする限り、必然的なことだ。生きるということは何であるのか、死の世界から見つめなおすことで、この世の仮の世界として通過していく人間の儚さを読みとろうとすること。それは詩歌んに「おいてこそ可能だ。 (中略)   しかし、あるときからそこで扱われている「生」も「死」も、あまりにも凡庸でデジャブ感があり、最初から答えが決まっているかのような書き方が多すぎることに気がついた。何も切迫感がないのである。言葉の上で詩らしく誤魔化しているだけで、きれいごとでありすぎる、と思うようになった。  遅まきながらわたしがそのことに気づいたのは、わたし自身が三十年間連れ添ったパートナーを突然亡くす、という出来事があったからだ。 (中略)   人間の「生」と「死」は、ミクロサイズでそれぞれ物語は異なり、普遍性などはない。畏れおののきながら生き延びる勇気。それを求めることが、詩という言葉の可能性と魅力なのだ。  とあった。他

齋木和俊「『にんげんをかえせ』と三吉、広島忌」(第175回「吾亦紅句会」)・・

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    本日、7月26日(金)は、第176回「吾亦紅句会」(於:立川市高松学習館)だった。兼題は「打水」。以下に一人一句を挙げておこう。    息災の母は百五の生身魂             須﨑武尚   東屋に寄るデリバリー汗しぼる         折原ミチ子    夏草や更地にかつて荒物屋            渡邉弘子    白髪の美容師空に水打てり            牟田英子    蟬しぐれ男時女時 (おときめとき) の勝負あり   村上さら    水打ちてディサービスを迎へけり         田村明通    緑陰にそっと風待つ浮母車            高橋 昭    水打ちてやがて一人の夕餉かな          佐藤幸子    病む友とメール交信合歓の花           奥村和子    日本 (ひのもと) の春夏秋冬遠くなり      三枝美枝子    梅雨さなか天寿全う猫逝きに           武田道代   すすみつつ風にもどりつみずすまし        西村文子   蟻の道ちょっといたずら小石おき        吉村天然坊    打ち水や駄菓子屋子らの来る時間        井上千鶴子    雷一閃忽ち浮かぶ眼下の景            松谷栄喜    青い空アイス最中と夏の恋            笠井節子    打水や人の足元冷すなり            佐々木賢二    打水やときには天からもらい水          齋木和俊    幼き日笑顔はじけるソーダ水           関根幸子    生きるとは責めを負うこと草の花         大井恒行      次回は、8月23日(金)、兼題は「踊」。 ★閑話休題・・図書館俳句ポスト4月選句結果・兼題「蜂」(現代俳句協会主催、選者は太田うさぎ・岡田由季・寺澤一雄)・・  図書館俳句ポスト(現代俳句協会主催)・4月選句結果(選者は、太田うさぎ・岡田由季・寺澤一雄)に、立川高松図書館・吾亦紅句会から2名が入選に選ばれていた。    汽車煙新樹にからむ大井川         山野草    兄のくせ残る書込み花おぼろ       佐藤幸子       撮影・鈴木純一「夏が来て誰もいないが指をさす」↑

山﨑加津子「何があったのだろう虹が消えない」(『時の水辺に』)・・

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 山﨑加津子第一句集『時の水辺に』(現代俳句協会)、序は、山﨑十生「そして一年」、その中に、  (前略)「 紫」では、編集部員、会計、行事部と活躍されていた。二〇二二年に開催された彩の国ベガ俳句大会では   万緑や産湯の嬰を裏返す の作品で埼玉県知事賞に輝いた。「紫」への入会の切っ掛けが、ベガ俳句大会で、そのベガ俳句大会の締め括りの翌年に「紫」を退かれた。ベガ俳句大会は不思議な縁と言えば不思議な縁である。二〇二三年は考えるところがあり「紫」を離れて自由に俳句活動をされることになった。私にすれば、片腕をもがれたようで辛い思いであった。その年私も審査員を務めている第五十四回埼玉文学賞の俳句部門で準賞の栄に浴された。埼玉文学賞二度目の受賞である。「そして」の章題ではないが、そして一年が経ち序文を書くことになった。  とある。また、著者「あとがき」には、  (前略) 重ねて二〇二三年は、私にとってのターニングポイントとなった。「紫」を離れる道を選んだのだ。毎月の句座で必ず会える方々との時の積み重ねは、紛れもない事実であり、財産であると強く感じ入って入るこの頃である。退会にも拘わらず過分なる序文を頂いた山﨑十生主宰、よちよち歩きの俳句の道を、手を携えて導いて頂いた「紫」の方々、深い感謝と共に懐かしく思い出される。これからも「紫」の一員であった事実を誇りに俳句を手放すことはないだろう。それは日々の哀歓を十七音の象徴詩にしていく作業を知ったからだ。そのプロセスの先に辿りつくための歯痒い時間が、私は一番好きなのかもしれない。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。    はつなつの肩より上で手を叩く      加津子    抱きぐせを赦してしまう緑雨かな   原爆忌ピアスの孔から見えるもの   人体の窪みは温し風邪ごころ   妹より先に生まれて滴りぬ   敗戦日どこをほっても土は土   天高し象に重たき鼻と夢   やっかいな乳房を浮かす柚子明り   七十億片のジグソーパズル春よ来い   満月を洗ったあとの手がきれい   洗っても落ちない目鼻雁渡し   木犀やどの部屋に居てもひとり   やわらかく背鰭をはずす無月かな   小春の日いつでも空けておく両手   山﨑加津子(やまざき・かつこ) 1947年、埼玉県生まれ。           撮影・

夏目漱石「叩(たた)かれて昼の蚊を吐く木魚哉」(『夏目漱石の百句』より)・・

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 井上泰至著『夏目漱石の百句』(ふらんす堂)、その結び近くに、  (前略) ここに選んだ百句もまた、漱石の「日記」に代わるものであり、そのツールとして俳句が選ばれていた事実を肝に銘じておきたい。  子規無しに近代俳句はなく、その子規と肝胆相照らした漱石無しに日本の近代小説もない。その子規から感化を受けた漱石が、俳句を生きることで、「幸福」を得ていた事実とその重みを、俳句に関わる人は無論、俳句を知らない漱石ファンも、忘れてはならないと思うのである。  とあった。本書の巻頭の句には、      聞かふとて誰も待たぬに時鳥 (ほととぎす)    明治二二年  漱石を俳句に誘ったのは子規だった。喀血をして早死にを覚悟した彼に、四日後漱石は「小にしては御母堂のため、大にしては国家のため自愛せられん事こそ望ましく」と手紙で激励し、この句を贈った。 (中略) 親孝行と国家への貢献を以て励ますあたり、明治のエリートの「志」が見て散れる。俳句は交際のツールでもあり、近代文学の主役の二人を繋いでいく。  とある。たまたま手元の坪内稔典(としのり)『漱石俳句集』(岩波文庫・1990年刊)には、   (前略) 漱石の今に伝えられているもっとも古い俳句は、明治二十二年の次の句。    帰ろふと泣かずに笑へ時鳥 (ほととぎす)    聞かふとて誰も待たぬに時鳥  これはこの年の五月十三日の子規への手紙に記されている。漱石と子規の交遊がはじまったのがこの年の一月からであり、落語好きだという共通点などがあって、二人は急速に親しくなった。そんなこの年の五月九日の夜、子規は突然に喀血し、翌日に医師から肺病と診断された。そのショックの中で、子規は四、五十句の時鳥の句を作り、以来、子規と号したという。 (中略) つまり、漱石の句は、子規の句に応じた挨拶のようなものである。   とあった。ともあれ、以下に句のみなるが、『夏目漱石の百句』より、いくつかの句を挙げておこう。    愚陀仏は主人の名なり冬籠         漱石    凩 (こがらし) や海に夕日を吹き落す   木瓜咲くや漱石拙を守るべく   菫程な小さき人に生れたし   安々と海鼠の如き子を生めり      倫敦にて子規の訃を聞きて   筒袖や秋の柩 (ひつぎ) にしたがはず   無人島の天子とならば涼しかろ   朝貌や売れ残りたるホトゝギス

林桂「花(はな)といふこの世(よ」に開(ひら)く彼(か)の世(よ)かな」(「俳句人」7月号・第759号)・・

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 「俳句人」7月号・第759号(新俳句人連盟)、特集は「朱夏のしずく」、「後記」によると俳句作品10句とミニエッセイを、「 今回、磨き抜かれた言葉の表現を堪能させてくれるベテラン作家に、新しい光をあてることとした。各作家の魅力を堪能していただきたい」 とある。また、「俳人『九条の会』」(新緑のつどい・2024年4月14日・於:北とぴあ)の講演会「激動の世界と向き合う」の報告(山本恵子)があり、大石芳野(写真家)と堀田季何(俳人)の講演要旨が記されていたが、講演後の交流会では「 堀田季何さんが俳人『九条の会』の呼びかけ人になるというサプライズがあった 」とまとめられていた。  また、本誌本号の「招待席」は、林桂「松の花まで紀行」と愚生・大井恒行「水月伝余滴」の5句とミニエッセイである。ともあれ、本誌より、いくつかの句を挙げておこう。    水団と汗の記憶よガザの飢餓      飯田史朗    子手毬に今年も触れて米寿生く     石川貞夫    真っ白い時間の帯を染める藤     田中千恵子    たんぽぽは太陽の子と画くこども   望月たけし    薔薇の棘北斎の波突き刺さる     吉平たもつ     ガザ五月瓦礫の中に椅子一つ      伊藤哲英    長靴に日本が入るつばくらめ      山中西放    コンテナに蒲公英も見え基地相模    佐藤 信    リラ冷えの男頻りにきしむ椅子     入江勉人      チャップリンの杖峰々を踏んだ杖   柄澤なをこ    いつしかに屋号消えたり竹の秋     内田賢一    こでまりの樹齢百年若き白       小田金幸    車輪梅咲く除染廃棄土の丸抱え     佐藤正子   百歳体操連れ立っていく街薄暑    大後戸綾子    ひとり身の自由不自由夏に入る     菊池義一    日本国憲法前文夏木立         大森恒夫    松 (まつ) の花海遠 (はなうみとほ) くても近 (ちか) くても                      林 桂    見残しの地に降るひかり花の雨     大井恒行   ★閑話休題・・加藤節江「窯焼きの娘に生まれ美濃は夏」(「第一回 木暮沙優音楽個展」より)・・                左・中條萌乃、右・小暮沙優 ↑          先日、7月21日(日)、昨年の木

春日井建「獵の舟黒き湖上に灯を垂らす」(『春日井建論ー詩と短歌について』より)・・

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  彦坂美喜子著『春日井建論ー詩と短歌について」(短歌研究社)、その帯に、   残された九歌集とこれまで論じられることの少なかった詩作品を繙き、  新たな側面からその言葉の世界に光を当てる  師との出会いから四十余年、没後の二十年を機に刊行  春日井建の言語表現者としての思想に迫る/その言葉の世界と思想  とある。そして、著者「あとがき」の中に、  (前略) 歌の別れから再び歌の世界に戻ったときから、建の表現の思想は、プルーストの〈虚構の自伝〉という方法へ向けられていたと考えてもいいのではないか。そう考えれば、春日井建の晩年、身辺に近いところで発想されている作品も決して事実そのままではない、造型された世界として理解されるのではなかろうか。プルーストが時を追い続けたように、春日井建もまた時を求めて、自分の過ぎ去った時間を素材に、自我の再創造を構築しようとしたのではないか、と。  とあった。ブログタイトルにした句は、春日井建高校三年生のとき、「裸樹」第二号に掲載された「モザイク」と題された15句のなかのもの。他に、    指白く妊婦凍土の墓濡らす         鉄路より昇りて宙で花火散る   祭笛泥酔の父の貧あらた  などがある。詩篇についての紹介、批評は本書中のほぼ半分を占める。労作である。詩篇について、     9「国鉄旅路」創刊号と終刊号の詩    春日井建には、一九六八(昭和四十三)年一月に発行された「国鉄旅路」(国鉄・現JRの月刊㏚誌、名古屋鉄道管理局旅客課編集/国鉄旅路の会発行)に、創刊号より一九八八(昭和六十三)年の終刊号まで、二十一年間、掲載された詩作品と、一九九三年(平成五)年四月から二〇〇二(平成十四)年三月まで「いきいき中部」(建設省・現国土交通省の中部地方建設局PR誌)の巻頭に掲載された詩作品が存在する。これらの作品は、雑誌の企画や特集によって、写真とのコラボレーションという形であった。二つの雑誌の詩作品を合わせると三百五十篇近くの詩が書かれている。詩集『風景』(人間社)が発行されたのは、春日井建没後十年の二〇一四「平成二十六)年五月二十二日。著作権者である森久仁子氏の意向意によるものである。  と記されている。ともあれ、本書より、春日井建の短歌を、以下にいくつかあげておこう。   受胎の日未生の我が持ちし熱保ちきて肉のわななき深し  大空の斬

董振華「まだ濡れている空を割る夏つばめ」(『静涵』)・・

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 董振華日中対訳句集『静涵(せいかん)』(ふらんす堂)、帯文は長谷川櫂、それには、     黄河秋聲その漣のその延々   中国の豪胆と日本の繊細。董振華の俳句はその幸福な結婚である。 とある。序は。黒田杏子「藍生」2020年10月号の「選句と鑑賞」から採録されている。     おほかみの咆哮ののちいくさ無し   董振華さんのこのこの句が「藍生」三十周年の巻頭句であえうことに、よろこびと同時に深い感慨を覚えます。董振華さんは兜太先生の秘蔵っ子とも言うべき北京出身の俳人。兜太先生の中国の旅のすべてに同行、先生と金子皆子夫人の信頼を一身に受けてこられました。この句は兜太先生追悼ともうけとれます。 (中略) 「董振華をよろしく。彼には才能があるし、人間的に信頼できる」と兜太先生は私に向かって何度も繰り返されました。  とあった。そして、跋文は、懇切なる安西篤「日中文化交流の架け橋として」には、 (前略) 日中の瓶か交流には、古い歴史的経緯がある。国家関係は必ずしも順調な経緯を辿ってきたわけではないが、文化交流は絶えることなく続いて来た。董さんはその絆を結ぶ貴重な礎石となっている。日中バイリンガルの文化人として活躍出来る人材はそうざらにはいない。  ともある。また、著者「あとがき」の中には、  (前略) 兜太師に序文と句集名の揮毫を頂いた時、「君にとって俳句は聊か楽しいものだと思って書けばよい。将来、自分の句会を持った時に、句会名または雑誌名として使っても良い」とおっしゃって、「聊楽」(いささかな楽しみの意)の二文字を頂きました。また、動揺する私の気持ちを見透かしたようで、「俳句は書きたい時書けば良い。無理に書く必要もないし、急ぎ必要もない。しばらく休んで、充分気持ちを潤してから、再開すればよい」ともおっしゃって、俳句を再開するときに使えるような題字も書いて下さいました。それが今回の句集名「静涵」(心を落ち着かせて学問を修め、品性を養う意)です。大変有難い師の心遣いでした。  また、今回の句集もこれまで同様、中国の方々にも読んで頂きたいため、句の後ろに中国語訳を付けました。  とあった。ともあれ、本集より、日本語のみの作になるが、いくつかの句を挙げておきたい。   眼裏に余震のゆらぎ冬一語           振華    麦を踏む軽さよ無印良品 (むじ) のスニーカー    

杦森松一「玉音の八月の空何色か」(第61回「ことごと句会」)・・

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 本日、7月20日(土)は、第61回「ことごと句会」(於:ルノアール新宿区役所横店)だった。兼題は「火」。東京は、梅雨明けから続く摂氏35度の猛暑日。以下に一人一句を挙げておこう。    花冷えや遺品の中に手紙あり       武藤 幹    大螢ガザの火を消せ灯を灯せ       村上直樹    別れの手紙だった線香花火        渡邉樹音    半夏生夜目にも白き手を挙げて      渡辺信子    斜め四十五度長生きのコツ線香花火    石原友夫   朝日浴び一声かけて花南瓜        杦森松一    心太掬う乱反射掬う           江良純雄    凌霄花ロートに文月の雨をため      金田一剛    夏は光と波 床に動かぬ魚        照井三余    打ち水や袖触れ合うも他生の縁      大井恒行    ★閑話休題・・山内将史「寒月光直立不動の歌手ありき」(「山猫便り」2024年7月5日)・・ 「山猫便り」は、山内将史個人の葉書通信である。それには、 (前略)  ふらふらと草食べている父は山霧  西川徹郎『町は白緑』  「山霧」のい発音に「山羊」が隠れている。か弱く足もとおぼつかなく迷子のような父と山霧と山羊が三重写しに見える。  安井浩司さんは葉書に「貴作にふと戦前歌謡の大家、東海林太郎を想いました。彼は此の秋田出身にて我が日頃の散歩道に銅像が建っております。貴作に出会い心が躍りました」と書いてくれた。自慢。  とあった。      撮影・鈴木純一「乗せまいる茄子や胡瓜に母おとと」↑

古田嘉彦「形が無いのがうれしい木も燃え上がる」(「LOTUS」第53号)・・

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 「LOTUS」第53号(LOTUSの会)、特集は、古田嘉彦句集『移動式の平野』評。巻頭随筆の古田嘉彦「書くこと」には、 (前略) 人は愛と責任という束縛を求め、そこではそれ以外の自由を拒否する。そこでは書くことはたとえば終わることの無い手紙、あるいは生死を超えた、やはり終わることの無い信徒の告白になるだろう。(私は今なお反宇宙の言葉に身を潜めていると言わねばならないのだが。)  とある。特集の論考は、江田浩司「 抽象の直接性 ー『移動式の平野』を読む。」、未補「 みなしごになるということ ー「移動式の平野」句集評ー」、斎藤秀雄「 テクスト、坑人間的なもの ー古田嘉彦『移動式の平野』句集評」、高橋比呂子「 第二の素面 ー古田嘉彦句集『移動式の平野』評。その他は、各同人による一句鑑賞。その鑑賞で、九堂夜想は、 思惟はすぐに時計の時刻、出会う外的世界へと超越してしまう。しかしこの古田というやつに閉じ込められた、なまの、堕罪した、そしてそいつが自分が持っていると妄想しているー時があり、おそらくその死によって始まるー命の時ーがある。 半分鳥になりかけの少年を追う   古田作品の魅力のひとつに詞書と俳句の主客転倒ということがある。掲句はその好例で、そうしたアンバランスを面白がるのも我ながら倒錯しているが、詞書に珍しく作者の名前が刻まれ古田の内面を垣間見るようで興味深い。 (中略) ここから察するに古田は「詩を恐れている」という詩を書いていることに自覚的だ。無論、彼の詩業と信仰の相関を考えるとき「詩」は即「神」に入れ替わるだろう。  とあった。ともあれ、以下に、本誌本号より、いくつかの句を挙げておこう。    掌のなかの息に眺めるクリスマス       表健太郎    唄いつつ雲雀は天の殺青を          九堂夜想    わたくしも人に容れてと子狐が        小野初江    ゆきおうておちくるもののゆきなるや     熊谷陽一    遠ざかる鳥の明るいいつかの小火       三枝桂子       歳入りて   月下は   月の埃とぞ                酒巻英一郎    大欅卑怯なまでに打てば鳴り         志賀 康   藤万句はるかに生駒山霞み          曽根 毅    きのくにのくまのあめよりやたがらす    高橋比呂子    滝 水の

神野紗希「起立礼着席青葉風過ぎた」(「月のしずく」より)・・

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「 きのこと発酵文化 ニュースレター / スーパーきのこ時代の地球を考える『月のしずく』」 第52号(シュールなきのこ探検クラブ なつきじろう)。「カエンタケ土器」、「第一回茸幻想展/2024年6・16(日)~6/30(日) 芦屋月光百貨店」などの記事に混じって、米岡隆文「 続・俳句の形而上学(Ⅰ) 」がある。その中に、 (前略) 五七音だけが定型なのではない。四六音もまた定型なのである。筑紫氏の同書 (愚生注:『定型詩学の原理』ふらんす堂) の410頁には琉球歌謡で、8・8・8・6音構成の琉歌についても考察されている。ここに至って私たちは定型とは音数律の数ことではなく、ある音の反復(繰り返し)であることに気付かされる。これがリズムなのである。翻訳家で英文学者の別宮貞徳氏が短歌や俳句が4拍子の音楽だと発見した『日本語のリズムー4拍子文学論』(講談社現代新書1977、ちくま学芸文庫2005)と通じて来る。 (中略)  21世紀の今、俳句の韻律は五七五十七音数律をはみ出そうとしている。それは初句から句またがりで中句へ至り中間で切れて中句から下句へという技法である。それは次のような八音九音あるい九音八音計十七音数律中間切れ俳句である。   こがね打ちのべしかからすみ炙るべし    小澤 實   佐渡ヶ島ほどに布団を離しけり       櫂未知子   てぬぐひの如く大きく花菖蒲        岸本尚毅   はんざきの水に二階のありにけり      生駒大祐   神野紗希起立礼青葉風過ぎた        神野紗希   つまみたる夏蝶トランプの厚さ       髙柳克弘  これらは新たに俳句の中に上句と下句という分離を生むことになる。短歌が上句下句と分離した中から俳句が表れたのにその俳句がまた分離する。そこから、どの様な詩歌形式が表れるのであろうか。それとも、これは究極の詩歌あるいは俳句の終りをを示しているのかもしれない。  とあった。 ★閑話休題・・・高野芳一「『引越しました』迎え火を焚くシンクかな」(「きすげ句会」第31回・於:府中市生涯学習センター)・・  本日、7月18日(木)は、「きすげ句会」第31回(於・府中市生涯学習センター)だった。兼題は「雲」。以下に一人一句を挙げておこう。   ザリガニの墓となりしや古き箸        高野芳一    トロッコの踏切わたり雲

髙柳蕗子「波を背にかぶりつつかがむてのひらに毛が生えているやさしいひと」(『海のうた』より)・・

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 左右社編『海のうた』(左右社)、約100首の「海のうた」を収載し、巻末に、各作者の略歴と歌の掲載ページと歌の出典が記されている。編者は左右社編集部、編集は筒井菜央とある。ともあれ、本集より、アトランダムになるが、いくつかの歌を挙げておこう。   釣り船のあかりと星とを分かちゐし水平線が闇にほどける       光森裕樹  海とパンがモーニングサーヴィスのそのうすみどりの真夏の喫茶店   正岡 豊   さあここであなたは海になりなさい 鞄は持っていてあげるから    笹井宏之   海を見よ その平らかさたよりなさ 僕はかたちを持ってしまった  服部真里子  光るゆびで海を指すから見つけたら指し返してと、遠い契約      石川美南   傾くとわたしの海があふれ出す いとこのようなやさしさはいや    田中 槐  殴り合いみたいなキスをしたこともカウントせずに始発で海へ     枡野浩一   海に血を混じらせながら泳ぎ切る果てにしづかな孤島を見たり     山田 航  机にも膝にも木にも傷がありどこかで海とつながっている       江戸 雪  海に来てわれは驚くなぜかくも大量の水ここにあるのかと       奥村晃作  いつか くる おわりを みないで すむように さかなは うみから/でませんでした                                  多賀盛剛   携帯電話海に投げ捨て響かせる海底世界にきみの着信         小島なお  愚か者・オブ・ザ・イヤーに輝いた俺の帽子が飛ばされて 海へ    穂村 弘    その海を死後身に行くと言いしひとわたしはずっとそこにいるのに   大森静佳  みっしりと寄りあう海の生きものがみんなちがってうれしい図鑑    佐藤弓生  海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した      平岡直子   海の画を見終へてひとは振り向きぬその海よりいま来たりしやうに   川野芽生  海を背にしていることも強みとし君はやさしい夏を打ち切る      吉川宏志  寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら     俵 万智   遠浅の海にひたした足がなくなっていく帰らなくちゃいけない     井口可奈         撮影・鈴木純一「雨あがる冷し中華のハム細く」↑

行方克巳「戦跡の露の一斉蜂起かな」(『肥後守』)・・

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    行方克巳第9集『肥後守』(深夜叢書社)、その帯に、    炎昼の音叉のごとくすれ違ふ  明滅する生と死のつらなりに目を凝らし、犀利な感性と諧謔の精神で掬われた245句―—  ポエジーと洞察が交錯する瞠目の第九句集。  一行が孕む物語  とある。また、著者「あとがき」には、   私にとって俳句とは、「季語発想による一行のものがたり」と考えるようになった。  ずいぶん前から、「深夜叢書」から句集を出すことを決めていたのだが、齋藤愼爾が亡くなってから出版するとは思ってもみなかった。句集の中に、彼を悼む句があるなんて、なんともさびしい限りである。 (中略)  『 肥後守』は、『晩緑』につぐ私の第九句集になる。題名は、    肥後守蛇の匂ひのこびりつき  からとった。私の裡なる「少年A」の物語である。 とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。    死ぬあそびおしろいばなの化粧して       克巳   秣ほども薬出されて十二月   筏んさし柵 (しがらみ) なして散紅葉   遠足のカババカカバと通りけり   戦争は遠くて近し犬ふぐり      齋藤愼爾死す   花の雨飲食嫌になりにけり   考へる蟻とはなまけものの蟻   死がありて死後がありけり金魚玉   晩緑やあと十年で片が付く   渡御筋を丸洗ひせし白雨かな   父の日のなき歳時記を持ち古りし   てんしきの五連発とは生身魂   奥の手も逃足もなく蓑虫は   ノンステップバスに躓き秋の暮   灯火親し見ぬ世の友と見しひとと   誕生も死も海染めて鯨の血   老来の企み一つ春を待つ   行方克巳(なめかた・かつみ) 1944年、千葉県生まれ。           芽夢野うのき「百日紅ひと日は彼岸の色をなす」↑

山頭火「分入つても分入つても青い山」(「自由律の風」6号より)・・

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 「自由律の風」6号(自由律俳句協会機関誌)、佐瀬風井梧「巻頭言」の中に、 (前略) 一昨年、自由律俳句大賞を企画し、今年はそれを実行に移す段階となりました。俳句は日本発の短詩型文学です。江戸時代以降、俳句はその時代にふさわしい短詩の形態をたえず模索してきました。 (中略) 定型律俳句であれ、自由律俳句であれ、句作者は個々の身に添う句のリズム。井泉水の言う「「一人一境」の俳句のリズムの形の器、を自由に選べばよいと思います。  とあった。記事中の特別寄稿に高松霞「自由律連句」、小池正博「自由律川柳小史」がある。小池正博は、  山頭火の『其中日記』をときどき読んでいるが、昭和十一年十二月十六日のところに俳句と川柳の違いについて書かれているのに気づいた。「新俳句と新川柳とを劃する一線は、前者が飽くまで具象的表現を要求するに反し、後者は抽象的叙述を許容する。言ひ換へれば、観念を観念として表白しても川柳にはなる、断じて俳句にはならない」  山頭火による柳俳についての認識である。  と記している。ともあれ、本誌中より、平林吉明「『自由律の泉』⓱~⓳から」の孫引きになるが、いくつかの句を挙げておこう。    隙間風届く喪中葉書                野谷真治    いっぱい笑った今日自転車は月の光を浴びていた   井尾良子    立春大吉きのうの遺書を書き換える        平岡久美子    モニターに呟く医師の若い背中           富永鳩山    煩悩ですか いや引越し荷物です        金澤ひろあき   月明かり 梅の白浮く               大岳次郎   本のカバーはクラシカルな包み紙         佐川智英実    父もいない母もいない 夕立            部屋慈音    先生おりてきたはつ夏のターミナル       さいとうこう   句読点にこめられた吐息を読んでいる        久光良一    束ねた髪の後悔はしない              篠原紀子    色々とあり老友の呟き葉書を埋め尽くす     白松いちろう   どろんどろん秋の光の中へどろん          黒瀬文子      撮影・中西ひろ美「良い距離というものがある夏衣」↑

宇多喜代子「ガラス器のガラスのようにさくらんぼ」(『雨の日』)・・・

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 宇多喜代子第9句集『雨の日』(角川書店)、その帯に、    ひとつぶの雨はひとすじに結ばれて、  やがておおきな水のかたまりとなる。  「やまはおおきな水のかたまり」祖母から教えられた言葉は、  自然観と生活信条の礎となった。  雨や風や太陽や水、なにより清新な森の匂い―ー。  身辺のものは、みな愛おしく。  当たり前のことを当たり前に詠めるようになった。  俳句には、退屈がない。  と記されている。また、「あとがき」には、   句集『森へ』から五年が過ぎましたが、不覚にも体調を崩してしまい、存分な心身で句作に向かうことがむつかしくなりました。それでも好きな俳句があることで日々を楽しく、滅入ることもなく過ごせたことは、まことに有難く嬉しいことでした。  とあった。少しでも健やかに過ごしていただきたいと思う。思えば、坪内稔典らの「現代俳句」(ぬ書房・南方社)を共にして以来、40年以上を愚生らの姉貴分としておられて る。  若き日、ご自宅に、仁平勝とともに泊めていただいたこともある。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておきたい。    この世ならではの相聞雪明かり         喜代子    夜明かしの双耳に届く春嵐   この雨が阿部完市の春の雨   よかったようなそうでなかったような春   神として湧きたる水も凍りたる   前に若葉うしろに青葉の他郷かな     江成常夫写真集    これは誰この襤褸はなに夕焼中   水に水を重ねて曲る夏の川   八月の火に死んで火に葬られ   良夜楽し老いも楽しとこれは嘘   よき友のよき一言や新豆腐   初明り老いには老いのこころざし   寒習佐藤鬼房全句集   余命とは明日明後日の春の風   戦よあるなこの冬雲の果ての果   亡き人らみな戻り来よ白障子     宇多喜代子(うだ・きよこ) 1935年、山口県徳山市(現周南市)生まれ。  ★閑話休題・・志鎌猛展「観賞―—雪月花」(於:日本橋髙島屋本館6F・美術画廊X)~7月29日(月)まで・・ 志鎌猛氏↑  リーフレットには、「 志鎌氏は2008年より、デジタル全盛の現代とは対極にある、プラチナ バラジウムプリントに取り組んでいる写真家です。19世紀後半にイギリスで発明されたこの古典的技法と、日本の伝統的な手漉き和紙・雁皮紙を用いて自作した印画紙を使うこ