福田知子「一色ずつ虹をはがせば火傷痕」(『情死一擲』)・・

  

  福田知子第4句集『情死一擲』(ジャプラン)、跋は、先般急逝し、遺稿ともいうべき竹岡一郎「宇気比(うけい)に焦がれる句、観るための」。それには、


 俳句が穏やかなもの、誰にでもわかるもの、存問の詩となってから、どのくらい経っただろう。それは俳句が生き残る手段でもあったように思う。それはそれで良い。俳句が穏やかに懐かしく、心を慰めるものである事に、何の間違いもない。しかし、その穏やかさ、判り易さに留まる事の出来ぬ者もいるのだ。留まる事こそが生だと。

  生きている駅と国境(さかい)にある裸身

  髪洗う水の繊(ほそ)きに雁渡      (中略)

 では、辺境に在れば、此の世の本質はみえるのだろうか。そうとも限らないが、少なくとも、見ようとする己が望みは護れる。直截に見ようととする意志、それは焔だ。

  一色ずつ虹をはがせば火傷痕

 「技法に長ける事」と「技法に悪馴れする事」との判別は難しいのかもしれない。それならば、いっそ意味を跳躍してでも鮮やかであろうとする方が良いかもしれない。何が幻で何が現実かなど、此の世の誰にも、そして彼の世の誰にも分りはしない。

  隙なく絞めむ鯨の精の果つるまで

  囀りに命おちこち落ちやまず

  火柱を舐め合う夏野漆黒の       (中略)

 此処に一巻の句集があり、あけっぴろげで不器用で、時にたどたどしく時に鋭く、時に婉曲であり時に直截だ。此の世と彼の世を、人間と八百万の神々とを、あるがままにみたいと立つ焔、宇気比に焦がれる焔の、その欠片が、それぞれの一句である。

 読者よ、その明かりの一片でも、己が心に灯されんことを。

   令和六年四月             竹岡一郎

            

 とある。その竹岡一郎は、去る6月21日、大動脈解離によって死去、享年62だった。ご冥福を祈る。また、著者「あとがき」には、


 (前略)集名の「情死一擲」について記しておきたいことがある。それは、映画『華の乱』(1988年)を観て触発され手かいた俳句〈首筋に情死一擲の白百合〉に拠るということ。そしてそれは、それだけにはとどまらなかった。というのは、神風連の変〈乱じゃない)と西南の役についての連作を書いた後、この2つの歴史的事実が歴史的評価は別として、文学邸には情死あるいは心中ではないか、という考えに至ったからである。(中略)

 ある会議において、福元(愚生注:満治・石風社代表)が発した言葉に対して渡辺(愚生注:京二)が、「小賢しいことを言うな!これは浪花節だ!と飛ばしたという。更に記して言うに、「あの時渡辺さんが私に言いたかったのは、『水俣病闘争』とは、理屈を超えて基層民(水俣病患者のこと。加藤注)を支える闘いであり、それは近代市民社会も論理とは異質の『浪花節』だということだったのだ」と。(中略)私は弧文章に触れた瞬間、渡辺の「浪花節」と拙句集名にある『情死』は、通底すると確信し、意を強くしたのである。

 文学とは、個人的情緒的なモノで浪花節的な抗いなのである。是が、この句集を編む過程で辿り着いた思いである。

 とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。  


  こしょろよこしょろどうしょろか       知子

  暗河(くらごう)の母のようたりもがり笛

  月とるにあばらの骨をそぎ落とす

  鶴唳(かくれい)に鬱翁の面打ちにけり

  なめくじらひとすじぬめる試着室

  この自販機でんでらりゅうばででむしで

  花火とは違う歓声キノコ雲

  われを呼べ霧の快楽を華として

  ひとりきり澄むほど凍え咲くすみれ

  いねつむよういねあぐるよう骨あぐる

  雪兎戦車の砲の中にあり

  詩を書くな戦争だけをさるすべり

  花冷の翅ふるわせて海坂へ

  宇気比(うけい)にかけ志士冴え返る水鏡

  千手観音一手は白し曼殊沙華

  亂ならず變または戀帰り花


 加藤知子(かとう・ともこ) 1955年、熊本県菊池市(現)生まれ。


      撮影・中西ひろ美「夏雲や奥多摩行きを待っている」↑

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