夏目漱石「叩(たた)かれて昼の蚊を吐く木魚哉」(『夏目漱石の百句』より)・・


 井上泰至著『夏目漱石の百句』(ふらんす堂)、その結び近くに、


 (前略)ここに選んだ百句もまた、漱石の「日記」に代わるものであり、そのツールとして俳句が選ばれていた事実を肝に銘じておきたい。

 子規無しに近代俳句はなく、その子規と肝胆相照らした漱石無しに日本の近代小説もない。その子規から感化を受けた漱石が、俳句を生きることで、「幸福」を得ていた事実とその重みを、俳句に関わる人は無論、俳句を知らない漱石ファンも、忘れてはならないと思うのである。


 とあった。本書の巻頭の句には、


    聞かふとて誰も待たぬに時鳥(ほととぎす)   明治二二年

 漱石を俳句に誘ったのは子規だった。喀血をして早死にを覚悟した彼に、四日後漱石は「小にしては御母堂のため、大にしては国家のため自愛せられん事こそ望ましく」と手紙で激励し、この句を贈った。(中略)親孝行と国家への貢献を以て励ますあたり、明治のエリートの「志」が見て散れる。俳句は交際のツールでもあり、近代文学の主役の二人を繋いでいく。


 とある。たまたま手元の坪内稔典(としのり)『漱石俳句集』(岩波文庫・1990年刊)には、


 (前略)漱石の今に伝えられているもっとも古い俳句は、明治二十二年の次の句。

   帰ろふと泣かずに笑へ時鳥(ほととぎす)

   聞かふとて誰も待たぬに時鳥

 これはこの年の五月十三日の子規への手紙に記されている。漱石と子規の交遊がはじまったのがこの年の一月からであり、落語好きだという共通点などがあって、二人は急速に親しくなった。そんなこの年の五月九日の夜、子規は突然に喀血し、翌日に医師から肺病と診断された。そのショックの中で、子規は四、五十句の時鳥の句を作り、以来、子規と号したという。(中略)つまり、漱石の句は、子規の句に応じた挨拶のようなものである。


 とあった。ともあれ、以下に句のみなるが、『夏目漱石の百句』より、いくつかの句を挙げておこう。


  愚陀仏は主人の名なり冬籠        漱石

  (こがらし)や海に夕日を吹き落す

  木瓜咲くや漱石拙を守るべく

  菫程な小さき人に生れたし

  安々と海鼠の如き子を生めり

    倫敦にて子規の訃を聞きて

  筒袖や秋の柩(ひつぎ)にしたがはず

  無人島の天子とならば涼しかろ

  朝貌や売れ残りたるホトゝギス

  文債に籠る冬の日短かゝり

  有る程の菊(な)げ入れよ棺の中 

  灯を消せば涼しき星や窓に入る

    木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに

  春の川を隔てゝ男女哉

  秋立や一巻の書の読み残し


 井上泰至(いのうえ・やすし) 1961年、京都市生まれ。



    撮影・中西ひろ美「草のなか梅雨の名残りがありますか」↑

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