三橋敏雄「たましひのまはりの山の蒼さかな」(『ピュシスへ』より)・・
有住洋子著『ピュシスへー俳句をめぐる五つの断章』(本阿弥書店)、帯の背には「 俳句の本質へ 」とあり、表の帯文には、 時空を十七文字で表現できる俳句。 この不思議な詩型に宿るアウラを求めて―ー。 五つの断章が語る俳句への施策の旅。 とあった。「ピュシス」の章には、 ロゴスとピュシスについては、音楽家の坂本龍一の言葉がわかり易い。「簡単に言うなら、ロゴスとは人間の考え方、言葉、論理」「ピュシスとは我々の存在を含めた自然そのもの」。 (中略) 人間が物理、生物、音楽、あるいは文学も美術もそうだが、思考を進め、それを深めるほど、ある一つのことが見えてくる。人間が考えること=ロゴスと、自然=ピュシスは、一致することがない。ピュシスを言葉に置き換えようとした途端に、ピュシスはロゴスとなる。 とあり、「浜辺の石」の章には、 (前略) 短夜を書きつづけ今どこにいる 鈴木六林男 六林男は一方の端を探し続けている。それは、短夜に象徴される光度や熱量を含んだ闇、この時期の長さを増す昼に比べて、その分短くなる夜との落差、その時間と空間。「夏は、夜。月のころは、さらなり。闇もなほ。 (中略) 雨など降るも、をかし」(『枕草子』)。そういう時空である。もう一方の端は六林男であある。「六林男にとって、俳句は〈書く〉もの」という記述が高橋修宏の『鈴木六林男の百句』にあるので、この「書く」は俳句のことだろうか。俳句を書きながら、意識は漂泊をしている。 とあった。著者「おわりに」には、 これは私の個人誌「白い部屋」に、二〇二一年一月号から二〇二五年五月号まで書き継いできた「浮寝鳥夜ごと時計の螺子を巻く」を加筆修正し、一冊にまとめたものである。 私は何に対しても、幅のあるゆるやかさ、それぞれのあいだのふくよかさ、やわらかさ、逸脱したときに見える深さに興味があるが、それは俳句についても同じである。この本では五年余りのあいだ、俳句の本質に向いたいと願いながら彷徨い、そのあいだに感じ、考え、出会った、さまざまな経験を記した。 ともあった。ともあれ、本書に抽かれたいくつかの句を以下に挙げておこう。 女身仏に春剥落のつづきをり 細見綾子 階段が無くて海鼠の日暮かな 橋 閒石 初夢のなかをどんなに走つたやら 飯島晴子 ...