攝津幸彦「太刀魚のとれとれを抱き殉死せり」(「俳壇」9月号より)・・


 「俳壇」9月号(本阿弥書店)、「俳壇時評」に鴇田智哉は「ユネスコ登録のこと」と題して、次のように記している。


(前略)もちろん、「教育」には簡略化や方便も必要だ。しかし教育自体が目的化すると、たとえば、義務教育で扱う俳句の定義を有季定型に限ると口出ししようとするとか、歳時記の例句から、季語の或る種の誤りとされる言い回し(「夏痩せて」など)の句を外すとか、私から見れば、俳句教育モンスターによる偏った原理主義的傾向としか思えない、恐ろしい動向も既に国内で目にしている。(中略)

 二つめの問題点。協議会のHPには「ユネスコ登録する意義」として、次のような図式が示されている。「俳句を詠む」➡「自然を愛する」➡「環境問題を考える」➡「お互いの多様性を認め合う」➡「世界の交流が深まる」➡「人間存在の争いが減り世界平和につながる」➡「日本から世界へ平和メッセージの発信」➡

 皆さんはどう思われるだろうか。私見を述べれば、胡散臭いと思う。(中略)このように一つの価値観として俳句を定義してしまうのは無理だし危険である。さらに、人種間の争いが減り世界平和につながるなど、読んでいて思わず赤面してしまう。(中略)

 もとより「運動」とおうものは、それを成功させることが目標だから、協議会においてこの「理念」をさらに強固に固定化することは、時間をへるにつれ必然となってくるだろう。既に流れは止められないのかもしれないが、俳句のユネスコ登録運動に、私は反対である。


 と真っ当に述べている。その他、本誌に連載されている仁平勝「俳諧文法への招待―-山田孝雄『俳諧文法概論』を読む(第三回)」は、愚生のような文法音痴にもよく分かるように書かれている(ぜひ、直接、本誌に当られたい)。

 ともあれ、以下に、本誌本号から、いくつかの句を挙げておこう。


  しばらくは水でいたいが霞もうか       矢島渚男

  秋に生れ秋に召されし一期なり       二ノ宮一雄

  むらさきの高嶺の花ぞ松虫草         戸恒東人

  水くらげ月の引力かすかなる         花谷 清

  啼鳥の縷々夢うつつ明易し          西村和子

  炎天を来て木の影の魔物めく         藤田直子

  虫入りてより虫籠の濡れてきし        和田華凛

  なびき合ふ木と黒髪よ涼新た         堀本裕樹

  すもも食み雲より上にやすらひぬ       飯田 晴

  滴りの慰霊碑に日は屈折す          依田善朗

  岳人に輪廻したての秋の蝶         甲斐由起子

  耳抜きを蜻蛉の波に逆つて         西山ゆりこ

  人間をとほくに捨てて午睡かな        長嶺千晶

  太刀魚の刀身すこし剥げゐたり        角谷昌子

  念仏も祝詞もなくて水団扇          安部元気

  眼の前に人の臍あり冷房車          後藤 章

  兜子以後葡萄の透くを哀しめり        西村智治


     撮影・芽夢野うのき「赤い実青い実×学園コンテスト」↑

コメント

このブログの人気の投稿

田中裕明「雪舟は多く残らず秋蛍」(『田中裕明の百句』より)・・

渡辺信子「ランウェイのごとく歩けば春の土手」(第47回・切手×郵便切手「ことごと句会」)・・

秦夕美「また雪の闇へくり出す言葉かな」(第4次「豈」通巻67号より)・・