小西昭夫「小鳥来る少し大きな鳥も来る」(現代俳句文庫Ⅱー3『小西昭夫句集』より)・・
現代俳句文庫Ⅱー3『小西昭夫句集』(ふらんす堂)、著者「あとがき」の中に、
(前略)旧制松山高等学校の流れをくむ「愛媛大学俳句会」は自由だった。その俳句観は「十七文字前後の詩」というものだった。早い話がメンバーは無季俳句、自由律俳句、口語俳句、有季文語定型とおのおのが書きたい俳句を書いた。(中略)自分がどんな俳句を書くかは自由だが、自分がよしとす物差しでしか他人の俳句を読もうとしない俳人が多いことに閉口している。俳句はもっと豊かである。
とある。エッセイに講演の「寅さんの俳句」、解説に内田美紗「句集『ペリカンと駱駝』のやさしい頑固さ―ー私の小西昭夫」と小西雅子「ライバル登場」。その小西雅子には、
私たちは夫婦だ。
⓵誰にでもわかる句、②エロティシズムなど非日常の句、③写生句(写生も虚構だと認識して)、④滑稽な句、と進んできた夫、大学時代からずっと自分の俳句を点検し、熟考し、意識し、今もって文学青年である。
仏壇は要らぬさくらんぼがあれば
雪だるま毛は付けられておらぬなり
これらの句にはかなわない。(中略)
「愛妻家なれど冷奴を愛す」「立春の妻を見ておりうしろから」など妻の句は多数。妻に引け目でもあるのだろうか。どんな男か顔を見たいと思った。なるほど。会って話すと彼の句の抒情性に納得する。
ということで私たちは夫婦ではない。船団誌上ではいつも隣に俳句が載るので夫婦だと勘違いされる。苗字も生年も同じ。今夏の旅は、昭夫夫婦「ヤクシマ」、雅子夫婦「フクシマ」。似てる。
とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。
山国の蛇を投げあふ遊びかな 昭夫
ふるさとの坂ペリカンと出会うなり
バラよりもつばくろよりも酔っており
マラソンの最後の坂は歩きけり
草の花大人も小さくなればいい
青田又青田雨雨雨青田
太初から浮いているのかあめんぼう
言うなれば筋金入りの猫じゃらし
上流の水も下流の水も澄む
定年のあとの勤労感謝の日
天の川水を零してくださいな
薪みな縦に割るなり横に積む
西鶴忌恋に死ぬとは贅沢な
被災地の踏ん張っている雪だるま
かく群れてかく静かなり赤とんぼ
蝶飛んで時間の歪みはじめたり
一列に行く軍隊もお遍路も
小西昭夫(こにし・あきお) 1954年、愛媛県伊予郡砥部町生まれ。
★閑話休題・・澤好摩「音のみの波また波の去年今年」(9月28日朝日新聞・岸本尚毅「俳句時評」より)
岸本尚毅「俳句時評」(朝日新聞9月28日)のなかに、
(前略)その澤から「貴君は志賀康を読むといい」と言われたことがある。自分より若い伝統的な作風の私に、心象性の高い句を薦めたのは、澤の見識だったのだ。
時明(あか)りまず一骨を動かさん 志賀康
近刊の『志賀康俳句集成』(文學の森)所収の未刊句集より。「時明り」には辞書的な意味があるが、それよりも〈星影を時影として生きてをり 高屋窓秋〉を連想した。「時」を「時影」「時明り」すなわち光として意識しながら刻一刻と生き続ける存在。何もかもそぎ落とした「生きてをり」に比べ、「一骨を動かさん」には自身の肉体の感触が残っている。窓秋、康の句はいずれも無季。季節を超越した句境だ。
とあった。慧眼。
撮影・鈴木純一「秋風や命つきても翔ぶふうに」↑


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