鳥居真里子「鬼蓮のおきつきのおく鬼の唄」(「俳壇」7月号より)・・
「俳壇」7月号(本阿弥書店)、特集は「〈港〉の見える俳句」その他、浅川芳直「俳壇時評/型についての覚書」、巻頭エッセイに土肥あき子「蛤の吐いたやうなる」、連載に、栗田やすし「碧梧桐研究余話、第一回鵜平氏の短冊」、長谷川櫂「二度目の俳句入門/第二章 言葉の意味と風味〈3)」、秋尾敏「旧派の俳句⑯」、井上泰至「知っているようで知らない俳句用語⑲・間」、坂口昌弘「名句のしくみと条件㉛芝不器男と高屋窓秋の名句」、栗林浩「俳書の森を歩む」など。ここでは、新連載の仁平勝「 俳句文法への招待/ー山田孝雄『俳諧文法概論』を読む 」を少し紹介したい。 (前略) 著者を知らない読者も多いと思うが(俳人・山田みづえの父君です)、その文法学は山田文法として、松下大三郎の松下文法、橋本進吉の橋本文法、時枝誠記の時枝文法と並んで日本語の四大文法と呼ばれる(学校で習うのは橋本文法)。私は吉本隆明の影響で時枝誠記を愛読していたが、とりわけ文法学に興味があったわけではない。たぶん「俳諧文法」というテーマに食指が動いたのだろう。 (中略) 私は三年程前、本誌の「俳壇時評」で「文法は法律とは違う」(二〇二二年三月号)という文章を乗せているが、そこにこんな事を書いている。 先に文法という規則があって、それに則って私たちが言葉を使っているいのではない。話は逆だ。私たちの祖先が自然に使ってきた言葉を、後から学者が法則化したものが文法である。 「俳諧文法」もまた、俳諧(俳句)で「自然に使ってきた言葉を、後から学者が法制化したもの」にほかならない。そして付け加えていうと、俳諧では、本来の文法が必ずしも守られない。 (中略) では次に、なぜ文法の破格が生じるのか。山田はその理由を「俳諧は(中略)短い形で、語数と句形とに著しい制限がある」からだと述べる。これはとても重要なことだ。 私なら「著しい制限」といわず、「語数と句形とが優先する (・・・・) 」といってみたい。「句形とはつまり五七五の定型のことで、その音数律を外せば俳諧(俳句)という定型詩は成り立たない。というより、文法とはそもそも散文の法則で、俳句のような韻文に当てはまらないのです。 (中略) 「俗語」とは、文法的にいうと口語のことだ。今日の俳句でも「主として文語の法格による」のが主流だが、俳諧では、そこへ口語を「交へ用ゐること」も...