西東三鬼「算術の少年しのび泣けり夏」(『俳句の立ち話』より)・・
仁平勝著『俳句の立ち話』(朔出版)、その「はじめに」で、
(前略)内容から大きく二部に分けたが、第一部では、一言でいうと俳句の芸について述べている。私なりに重視したい芸として、省略の技法と一物仕立てを取り上げた。ただし、いわゆる芸談ではない。俳句はむろん文学だが、それ以前に芸事である。芸事をバカにすると、俳句という文学は成り立たない。そういう話です。
第二部の「五七五のはなし」は、俳句の「切れ」(切字)が主なモチーフで、そこから俳句と発句は違うという話になる。
とあった。 本ブログでは引用にも限界があるので、直接、本書に当たってほしい。損はありません。以下には、アトランダム、不十分になるが、もう少し、紹介しておきたい。「Ⅱ 五七五のはなし」から、
(前略)九/虚子は「俳句に志す人の爲に」(昭和六年)という文章で「切字といふことを昔は大変やかましくいつてゐましたが,それほどやかましくいふ必要はありません。要するに、終始言若しくはそれに代る言葉が一句のうちに一つあればよいといふことであります」と述べている。
山本健吉が、俳句に発句性を取り戻そうとするなら、虚子は、発句性に別れを告げたといっていい。(中略)
向ふ家の秋の簾も垂れしまゝ(・・)
小春ともいひ又春のごとしとも(・・)
ほとんど散文と変らない文体が、五七五という定型律によって(ここが大事なのです!)俳句になっている。句末の語に傍点をふってみたが、これが虚子の「終止言若しくはそれに代る言葉」にほかならない。「切れ」がないというより、むしろ意識的に「切れ」を避けていると考えていい。
そして私にいわせれば、これはすなわち平句のかたちである。子規は、俳句を近代の詩として蘇生するにあたって、連句の形式を否定した。それに対して虚子は、連句の意義を否定していない。連句論もいくつかあり、連句を論じた最初の文章は明治三十三年の「俳話二則」だが、そこで「人事を詠ずる上に於ては、元禄の連句は俳句より一歩を進めて居たのだ」といって連句の平句を評価している。(中略)
山本は「三十一音が十七音となるまでの間に、時間性の抹殺という暴力的飛躍が遂行されたのだ「(挨拶と滑稽)」と書いたわけだが、私はそこで時間性(つまり韻律)が抹殺されたとは考えない。では、五七五の発句が七七の脇句を切り離したとき、そこでどういう「飛躍」が行われたのか。
もう「切れ」という言葉には別れを告げたので、ここでは別の言い方をする。すなわち俳句は(あえて発句という必要はない)、短歌の五七五七七から七七を切り離すことによって、そこでまさに短歌的抒情を切り捨てたのである。
山本は「や(・)・かな(・・)の忌避」を「末節的拘泥」と批判したくだりで、その「根底に横たわるものは、和歌や詩の持っているような形での抒情性・詠嘆性への羨望なのだ」と書いた。でも私にいわせれば、俳句が「抒情性」を「羨望」しなければならない筋合いはない。なぜなら五七五という定型は、自ら短歌的抒情を切り捨てたのだから。
山本に批判された新興俳句は、たとえば先に引いた句からも分かるように、発句とは別の方法で五七五という音数律を維持し、むしろその効果を切字以外のところで発揮してみせたのである。
とあった。ともあれ、文中に引かれた句のいくつかを以下に挙げておこう。
年きけばちやんちやんこより指出して 長谷川双魚
日本語も箸も上手に冷奴 山田弘子
すててこにしては遠出をしてゐたる 石田郷子
蚊帳の中いつしか応えんなくなりぬ 宇多喜代子
盃を置きて橋まで大文字 西村和子
初蝶来何色と問ふ黄と答ふ 高浜虚子
夏楽し蟻の頭を蟻が踏み 岸本尚毅
緑蔭に車を待てばやがて音 星野 椿
春の砂こぼしこぼして象歩く 中西夕紀
★閑話休題・・国立うちわ市(於:国立 ギャラリービブリオ)・6月21日~7月1日(火)、25日(水)は休み・・
国立ゆかりのアーティストが手描きのうちわで大集合!、とある。出展者は、赤枝由子、赤坂政由、浅生ハルミン、あべななえ、アンヴィル奈宝子、大熊ワタル、オオタスセリ、五味健悟、田島征三、つきおかゆみこ、中川五郎、西村繁男、はたこうしろう、ひらまつみわ、降矢奈々・降矢七海子、降矢洋子、古内ヨシ、村上康成、渡邊美奈子。
ちなみに、ギャラリービブリオのオーナー・十松弘樹は、仁平勝の教え子である。
撮影・鈴木純一「蓮の音や中将姫はまつり縫ひ」↑
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