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池田澄子「同じ世に生れて春と思い合う」(「くらら」創刊号)・・

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  「くらら」創刊号(編集発行人:梶浦道成)、表2に、 くらら句会  池田澄子さんを慕って集まった句会。  世界共通言語として作られたエスペラント語では澄んでいることを「Klara」といいます。  俳句もみんなの言葉となるように、と願いをこめて「くらら句会」となりました。  とあった。内容は、各人の俳句とエッセイで構成されている。ともあれ、以下に一人一句を挙げておきたい。    息をして喉を使って言葉かな        安達原葉子    芹鍋の夫が洗った根よ旨し         荒木とうこ    ぞうさんのいろと言う子よ養花天      遠藤千鶴子    敗戦の日や塩辛き口の髭           梶浦道成    出前取る七草粥は明日にする       加東ネムイチ    悲しみを毛布にくるむ戦地かな       神谷べティ    花曇鳥籠にゐる偽の鳥           紺乃ひつじ   夫婦してボタン掛け合い春日和        佐藤昭子    猫は箱に私はセーターの中に         丹下京子   ワルガキも暫し休戦柿を食う         中村我人    あれよあれよ竹皮を脱ぎ塀を越え       畑上麻保    子の足に名を書く母やガザ煙る       馬場ともこ    からつぽなあの世この世や冬青空       山本恵子 ★閑話休題・・大井恒行VS能村研三【論点/俳句の「文化遺産」登録】(4月30日・水、毎日新聞 オピニオン)・・ キャプションに、   日本の短詩型文学「俳句」を国際教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産にしようと、俳人協会、現代俳句協会、日本伝統俳句協会、国際俳句協会4団体と関連自治体でつくる「登録推進協議会」が運動を進めている。一方でしうした動きに異論を唱える)俳人も。俳句の遺産登録をめぐる双方の見解を聞いた。  とある。当日の新聞記事を紹介しておこう。興味のある方は、図書館などで是非、読んでいただきたい。        撮影・鈴木純一「耳鳴りは右がうるはし藤の下」↑

佐々木六戈「封ずるに物皆美しき初氷」(「艸」第21号)・・

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 「艸」第21号(編集・発行 佐々木六戈)、その「跋 note」に、 (前略) もう一冊、前田英樹の『保田與重郎の文学』。これがいけなかった?勢い国学の渦中に身を投じてしまった。本居宣長の『古事記伝』を読まねばならぬ。えい、面倒な、全集を揃えることはなった。加茂真淵、契沖の数冊は積読の山裾にある。鹿持雅澄の『万葉集古義』も安価に入手した。足立卷一の評伝小説『やちまた』は更に渦中に輪をかけた。富士谷御杖という怪物がいるらしい。御杖は「みつえ」と読むらしい。彼の全集が二巻から八巻まで古書肆に出た。一巻と九巻は図書館に取り寄せてもらった。彼の所謂「言霊倒語」説に夢中である。「一は比喩なり。比喩はたとへば、花の散をもて無常を思はせ、松のときはなるをいひて、人のことぶきをさとせる。これ也。二には比喩にあらずして、外へそらす。これ也。たとはば、妹をみまほしといふをば、妹が家をみまほしとよみ、人の贈りものを謝するに、其物の無類なるよしをよむ類也。」とか書いてある。御杖は難攻不落である。それに比べて平田篤胤の分かりやすさ?よ。どっこい、舐め過ぎてはいけない。平田国学は黒船襲来以来の尊王攘夷運動のイデオロギーであり、島崎藤村の父、青山半蔵(小説『夜明け前』の登場名)はこれにいかれて座敷牢で狂死している。木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いている。夜明け前以後の昭和百年であるのだ。 (六)  とあった。ともあれ、本誌本号より、いくつかの句を挙げておこう(短歌、詩作品は除いた)。    聴け雪のサンタマリアをさへづれる        佐々木六戈    田楽や衣を返すまじなひも           かとうさき子   駅で待つ北鎌倉の猫柳                佐喜春    老い易く少年のまま鳥の恋           田分人人(字が出ず失礼!)    軋ませて八十年の北開く              花房なお    母と嗅ぎし梅のひほひの淡きかな         日野万紀子    益荒男の股座暗き桜かな              藤原 明    しりとりの又もラ行よ落第生            前澤園子    こつそりと...

河本緑石(ろくせき)「村は水田の夕空となり墓に火を焚く」(「緑石と子供たち」より)・・

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 波田野頌二郎「緑石と子供たち/青田のほとりに風は吹き 合歓の花は咲きつづける」(河本緑石研究会機関誌「ふらここ」第9号より)。 その中に、 (前略) 狂人の家に狂人居らず茶碗が白し  緑石には社会から疎外された人がどうしても気がかりだった。人権を守る法も意識もない大正の時代であった。その人を社会生活から疎外することも狂人という言い方をすることすらおかしいとしない時代、緑石にはそれは普通のことではなかった。緑石は疎外された人の生活が案じられた。それが白い茶碗に象徴される。こころは近づき、その人の孤独を想い、不在になぜとその安否を問わずにはいられない他者であった。大正六年、若いときの句である。 (中略)     百姓子を失ひなげきつつ土を打つ  緑石は貧しい農家の人が気がかりであった。勿論そこには自分は大きな百姓家の子であることが重くあった。どんな哀しみがあっても農作業は時を待たない。土の中につらい気持ちを黙々打ち込む子を亡くした父親の姿にこころがとまる。それは後の緑石の姿であった。 (中略)     父と子  順子の亡くなった翌年の昭和八年七月、八幡の海で緑石が亡くなった。農学校の水泳訓練中のことであった。同僚の配属将校と町の若者が沖でお溺れているのを救助に出た緑石に突然に心臓麻痺が襲った。溺れた二人は救助されたが、救助に当たった緑石は帰らぬ人となった。緑石三十六歳であった。  昭和八年は、盛岡高等農林学校時代の友人宮澤賢治が十五年前盛岡の駅頭で、「わたしのいのちもあと十五年はあるまい」と寂しそうに緑石に告げたまさにその年であった。賢治は二か月後に亡くなった。 (中略)  緑石の子供たちのその後について簡単に触れておくと、河本家は戦後の農地解放により農地のほとんどを失った。。長男一明は、祖父定吉と力を合わせ、皆を学校へ通わせ妹たちを嫁がせるなど、大黒柱として一家を支えた。二男の輝雄は東京外語大学を卒業。在学中学徒動員で神宮外苑を行進する。戦後通産省に勤務するも肌に合わないと高校の英語教師となる。四十代で亡くなった。三男俊彦は拓殖大学を卒業長命であった。長女の葉子、四男の静夫は倉吉に住み今も健在である。五男の行雄は明治大学を卒業後横浜に住み、平成二十六年に亡くなった。  緑石は子らのことを考える間も暇もなく他界した。子らの成長を見守るこtができなかった。その緑石は今、...

河村悟「木洩れ日に傷つく蟲の悲鳴あり」(「俳句展望」第26号より)・・

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 「俳誌展望」第26号(全国俳誌協会)、巻頭の連載稿に秋尾敏「『俳誌展望』を読む」がある。それには、 (前略) 第二号には、昭和四十八年十月に「俳句文化祭」を開催したとある。会場は東松山市の勤労会館。埼玉大学教授の野間郁史、和光大学教授の佐伯昭市(「檣頭」主宰)が講演し、句会が行われている。   蝉時雨海より碧い切手貼る       岡田水明〈もず〉   裂けそうな空あり日曜画家の秋   竹ノ谷ただし〈紫〉  「俳誌往来」に編集委員の堀井鶏が十二誌を紹介しているが、そのうち今に残るのは大阪の「ひこばえ」のみ、最後に紹介されている「雑草」は昨年十二月に終刊。  とある。また漆拾晶「『書評』前衛俳句再訪/河村悟『弥勒下生』(七月堂 二〇一七年)」には、   寺山修司が青春を過ごし、句作を始めた頃の戦後間もない青森県に生まれた詩人、河村悟は今から二年前の二月二日に亡くなった。一九八四年から詩集を主に著していたが、二〇一七年になって生涯一冊にみとなる句集を残す。その活動は詩作のみに留まらず、写真、ドローイング、書、朗読、舞踏の演出など多岐にわたる。詩歌集の他に土方巽を論じた著書もあり、前衛芸術に深く関わっていた。その前衛性は本句集『弥勒下生)でも顕著に見られる。   悪しき母 なにゆえに肉を産めり   とあり、興味深かったが、作者は二年前に亡くった、とあるが、享年もなく、基本的なプロフィールが記してなかったのは残念だった。愚生には、もう少し手がかりがほしいと思った。ともあれ、以下に本誌より、いくつかの句を挙げておきたい。    描かれし猫にナスカの天高し       小沢真弓    銀河から転がつてくる寒たまご      河村正浩    くすぐりて笑はぬ人や山笑ふ       佐藤文子    右岸から左岸から花吹雪かな       髙田正子   さびしさの蛇で編まれし筏がとほる   鳥居真里子    水仙の香の越前と思ひたし        波切虹洋    地のいろとなる冬耕の暮れ残る      野木桃花    生涯の下戸を通して去年今年       増成栗人    白鳥来なぜ不機嫌な新紙幣       松田ひろむ    秋風が過ぎる帰らぬ人のやうに      武藤紀子    ゆふかぜにたたまれてゐる白芙蓉    村上喜代子    ポインセチア深海となる窓辺かな   ...

高山れおな「さわらびや何を握りて永き日を」(『百題稽古』)・・

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    高山れおな第5句集『百題稽古』(現代短歌社)、栞には,藤原龍一郎「 道場の格子窓から 」、瀬戸夏子「 恋のほかに俳句なし 」、高山れおな「我が俳句五徳解」、「霧中問答(聞き手・花野曲)」。その藤原龍一郎は、   高山れおなは、言葉に対する超絶技巧の持ち主である。彼がその技量を十全に駆使して、俳句という詩形に真向っていることは、誰でもが気づいていることだろう。そして、作品をまとめる句集のかたちについても、一冊一冊意表を衝いてくる。 (中略)  この句集『百題稽古』の動機と趣向のからくりは、この栞に俳人本人の言葉で解説されている。  もちろん、ここに展開されている稽古は、中位から上位の技法のものに疑いはない。高山れおなの稽古を見られることは短歌、俳句にたずさわる者としては、きわめて興味深く得難い体験だといえる。観客というレベルにまで届かず、道場の格子窓の外から覗いている見物人程度かも知れないが、ともかくも作品に私的感想を述べてみたい。  と記しており、瀬戸夏子は、 (前略) 春雨や既視感 (デジャ・ビュ) のほかに俳句なし  我こそが伝統の保守本流だという名乗りに胸のすく思いがする。意地の悪い、粘り強い、隙のない右派の姿はもうなかなか見つけるこができなくなった。    御代の春ぐるりの闇が歯を鳴らし    昭和百年源氏千年初鏡  自分の命が滅びるときに何をうたうか、ではなくて、この詩型が滅びるときに何をうたうか、そしてこの国が滅びるときに何を最後にうたうか、たしかにそれを恋と呼ぶことは最も美しいひとつの回答である。  と記していた。そして、高山れおなは、 (前略 )「甚・擬・麗・痴・深」とし、我が俳句五徳ということにする。その心は以下の通り。   甚  甚 (こってり) を旨とし(味付けは濃いめに)   擬  古詩に擬 (なぞら) え(本歌取りとアナクロニズム)   麗  麗しきを慕い(姿は美しく)   痴  痴 (おろ) かに遊び(中身は狂っていて)   深  心は深く(深く生きている感じがほしい)  実現しているかどうかはともかく、俳句において庶幾するところと齟齬はしていないはず。 向こう十年くらいは、この路線で行きたいと思う。  とあった。扉に以下の献辞がある。                         藤原顕輔朝臣   家の風吹か...

折原ミチ子「不揃いの切手貼り足す花便り」(第184回「吾亦紅句会」)・・

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   4月25日(金)は、第184回吾亦紅句会(於:立川市高松学習館)だった。兼題は「桜貝」。以下に一人一句を挙げておこう。    隣組総中流化昭和の日            田村明通    やせ我慢顔に出ている西東忌         齋木和俊    シーラカンス鰭ゆったりと桜貝       折原ミチ子    妖精の宿りそうなる桜貝          吉村自然坊    地球今 (いま) 関税前線花の冷え       松谷栄喜    砂川闘争跡地草萌ゆる            渡邉弘子    亀鳴くや米露の欲に恥じらひて        須崎武尚    君逝くや勿忘草を束にして          西村文子    さくら貝また会いたいよ会いに来て      関根幸子    あっ来てる見上げる先にひなつばめ     三枝美枝子    人いとし桜しずかに咲きにけり       佐々木賢二    姉妹うふふうふふ土筆摘む          牟田英子    自撮りする三人少女に花吹雪         奥村和子    君の手に黙って渡す桜貝           村上さら    青春の返らぬ日々や桜貝           佐藤幸子    桜貝記憶と共にビンの中           武田道代    戦争はヒトの敗北さくら貝          大井恒行  次回は、5月23日(金)、兼題は「柏餅」。 ★閑話休題・・奥村和子「門松や南極の地に年の神」(「現代俳句協会主催・図書館俳句ポスト」1月選句より)・・  「現代俳句協会主催・図書館俳句ポスト」1月選句(選者は太田うさぎ・岡田由季・寺澤一雄)に吾亦紅句会の三名の方々が入選されている(他の二名の方)。もう一名は、これも愚生が呼ばれている「立川こぶし句会」の方である。立川市高松図書館。紹介しておこう。    祖父の杖夫が持ち行く初大師        佐藤幸子    雪女英語露語修得す            田村明通    煮凝りや今もメニューにコップ酒る     井澤勝代       撮影・芽夢野うのき「曇天の葉桜生きとし生ける岸」↑

高野芳一「囀りや川面をすべる水の声」(第40回「きすげ句会」)・・

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  4月24日(木)は第40回「きすげ句会」(於:府中市生涯学習センター)だった。兼題は「馬酔木」。また、今年も、「きすげ句会」代表・杦森松一が手作りの「きすげ句会」第4集を作ってくれていた。  以下に一人一句を挙げておこう。    金平糖の角 (つの) とけており春惜しむ      井上芳子    春風や娘 (こ) の声はずむ二重跳び        高野芳一    石段の鹿の濡れ目や花馬酔木           山川桂子    君待つや花ひとひらに雨の落つ          新宅秀則    筍のゆで汁かおる暗き土間            杦森松一     緊急入院    危機きみに三つきに三たびさくさくら       濱 筆治    水の辺の庇となれり花馬酔木           寺地千穂    風薫る馬酔木の壺に眠る馬           大庭久美子    清明祭亀甲墓にて死者と呑む           井谷泰彦    トランプはゲームの中で踊りおり         清水正之   山藤の紫まとふ風の大木            久保田和代    はにかみて葉桜や鳴るピアノ           大井恒行         撮影・鈴木純一「時おそし                 ひとみのなかの虹のをちこち」↑

小川桂「沈む術知らぬ椿が流される」(『アンドロメダの咀嚼音』)・・

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  小川桂句集『アンドロメダの咀嚼音』(ジャプラン)、帯の惹句に、      葉牡丹にアンドロメダの咀嚼音  なんという詩想の深さだろう/なんという詩語の豊かさだろう  ここに萌芽しているのは/私たちのまだ知らぬ  詩界の新しい構造である  とある。著者「あとがき」には、  しばらく休眠状態だった俳句を、又は始めるきっかけになったのは、コロナの流行でした。外出がままらなくなり、家でできること何かあればと思い、ふと浮かんだのが俳句でした。すぐ「現代俳句協会」に復帰させていただき、同時に以前お世話になっていた鹿児島県にある「形象」の高岡先生のお許しを得て、こちらも復帰させていただきました。  このたび高岡先生から句集のお話をいただき、考えてもみなかったことでしたので驚きました。しかし、今年の一月末で八十八歳の「米寿」を迎える私にとっては、これが最初で最後の句集であると考え、先生の御厚意を有り難くお受けすることにいたしました。  とあった。集名に因む句は、    葉牡丹にアンドロメダの咀嚼音        桂  であろう。ともあれ、愚生好みに偏するが、本集より、いくつかの句を挙げておこう。    流氷の肉が抜けたる花サラダ   花地図をたたんで母胎にみぞれかな   雲の胎から桐の胎から水の一族   風の透析青虫の血がまぶしい   単色の愛です牡丹きっています   笑って消えたはじめての雪だるま   時計屋が殺されに行く大花野   赫っとひまわり百万本の失語症   秒針が埋められている雪兎   白骨が一番きれいな冬銀河   恍惚の凍蝶月の階段へ   糸車これからきれいな蛇を生む   戦争とトマト煮崩れてゆく残暑   夏盛ん只今森は肉食中   鳥けものみんな濡らして月の罠   極刑かさくら一気に登り詰め   まんじゅしゃげ火刑の先に海を見る   パイプオルガン馬青々と壁に垂れ 小川桂(おがわ・かつら) 1937年、札幌市生まれ。 ★閑話休題・・50周年記念・無の会陶芸展ー花と食器をテーマにー(於:富士見市文化会館 キラリ☆ふじみ)~4月25日・金まで)・・                野村東央留作 「想」↑                              野村東央留氏(右)と↑  4月23日(水)一日雨となったが、「門」同人の野村東央留氏の「50周年記念・無の会陶...

佐竹伸一「四方の山笑う真ん中妻の墓」(『山峡』)・・

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           カバー写真も著者、「初冬の大朝日岳」↑   佐竹伸一第一句集『山峡(やまかい)』(朔出版)、序は高野ムツオ、その中に、  (前略) 迎え火やさあさあ虜囚五万の兵    阿部宗一郎     死して熄む兵の戦争遠雪崩  などは、戦争と平和が改めて問われる今日、再評価されるべき作品だと思っている。  佐竹伸一は、氏を父のように慕って育ち俳句に導かれてきた。「私が留守の時も、家に勝手に入って飯を食っていた」とはわらいながらの阿部の弁。今でも息子を語るように目を細めていたのをはっきりと覚えている。 (中略)   だが、やっと熟した人生の果実を味わう、これからという時に生涯の伴侶を失う悲劇に見舞われた。末尾の「銀」の抄は、その看取りと別離の慟哭の記録でもある。   とあり、著者「あとがき」には、  (前略)さて、「一句は十七音のどらまであり、 句集からは作者の感性や人となりや生き様が見えてこなければならない」は、「小熊座」同人であった阿部宗一郎の生前の口癖だったが、そのような句群は、むしろ省略の効いた無駄のない十七音からしか生まれてこない。寡黙は雄弁に勝るだが、そのような句をこの句集でいくつ残し得たかは誠に心許ないかぎりである。  句集を編むにあたり、私が暮らす出羽の山峡の自然や、その中での意図での営みや生き様がよりよく伝わるように、編年ではなくカテゴリーで括ることにした。また、作句を中断した時期があったことも編年にしなかった理由である。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みになるが、いくつかの句を挙げておこう。    ぽんぽんとぽぽぽんぽんと葱坊主        伸一    一言も語らぬ遺影蟬時雨   荷を山毛欅に預け歩荷の三尺寝   芋の葉に露配られているところ     宗一郎    語り部の声耳朶にあり終戦忌   頂は雪へと変わる花芒   拿捕しても拿捕してもなお放屁虫     宗一郎逝く   抑留の友の迎えや渡り鳥   戸を閉ざし朽ちてゆく家実南天   星降る夜山鼠が落葉鳴らす音   雌伏とは志すこと冬木の芽   灰色の空ありて灰色の雪   産声が吹雪の底に生まれけり   肩でする息のせつなき虎落笛   亡骸の手にあかぎれの深き指   さよならを言わぬさよなら春の雪   妻の声残る携帯星月夜   妻に陰膳退職の春の夜  佐竹伸一(さたけ・しんい...

中村与謝男「雪中花すぐ木の影の乗るところ」(「像」第10号)・・

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「像」第10号(像俳句会)、巻頭のエッセイは「時々の言葉」、それには、   二十代の半ばだったかで買った内の一枚が、ブラームスの交響曲第三番だった。割りに短い曲だから、他の曲と共に収録されたレコードだったかも知れない。 (中略)   筆者を惹きつけたこの曲は一八八三年、ワーグナーが亡くなって、ブラームスが五十歳の時。当時はブラームス派対ワーグナー派の時代だったようだが、エドゥアルト・ハンスリックは曲を絶賛し、反ブラームス派のフーゴ・ヴォルフは「まったく独創性というものが欠けた、できそこないの作品」と酷評する。作品の評価とは時にそうなるのでろう。それでも第三番は他の曲と共にブラームスが残し、今も演奏され続けて聴衆を魅了する。作品に対して百対ゼロという批評がある場合も、創作者は同時代批評などさほど意識すべきではないだろう。叩かれて時には無視されたとしても、作品は遥かなる時間の中で、濾過される他に選択肢はないのだ。  とあった。招待作家特別作品は、千葉晧史、   永き日や夕映のまた永かりき          千葉晧史  ともあれ、本集より、いくつかの句を挙げておきたい。    まぼろし渤海の船雪荒び            中村与謝男    咳止めの飴舐む栗鼠のごとき頬          中島素女    如月の日差し早くも豆に花           占部佳代子    身の丈のマンモスの牙は春の雪          美濃吉昭    丹後路の雪つり並ぶ屋敷かな          美濃けい子 ★閑話休題・・山内将史「弟の肩に兄の掌春の星」(「山猫便り/二〇二五年二月二十日」)・・ 「山猫便り」は山内将史の葉書通信。その中に、  蜘蛛動くあしがピアノを弾くごとく  松葉久美子『屋根を飛ぶ恋人』 「観念的な言い方をすれば、切り込みが深いね松葉は。ぼくは大いに買ってます」と星野石雀に言わしめた果断さは健在。放射状の蜘蛛の巣の縦糸は粘らない。ピア二ストの指のように慎重に野蛮に動く。  とあった。        撮影・鈴木純一「地図上のひとふでがきの世の終わり」↑

夏目漱石「自転車を輪に乗る馬場の柳かな」(『漱石がいた熊本』)・・

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   村田由美著『漱石がいた熊本』(風間書房)、その「はじめに」に  夏目漱石は、大正五(一九一六)年一二月九日、満五〇歳まで一ヵ月足らずというところで亡くなった。その五〇年の人生で、生まれ故郷の東京を離れて暮らしたのは、松山時代一年、熊本時代四年三ヵ月、ロンドン二年で、熊本時代が最も長い。しかし、漱石研究の中でも長い間、熊本時代の漱石は顧みられなかった。私自身、熊本に生まれ育ち、大学で漱石を研究しながら、熊本と漱石について特別に考えることはなかった。  あるとき、漱石研究者として著名な熊坂敦子教授から「あなた熊本だったわね。野出 (のいで) 峠の写真を撮ってきてくれない?」と頼まれた。当時の私は『草枕』の「峠の茶屋」のモデルが「鳥越 (とりごえ)」 の茶店以外にあることさえ知らなかった。  とあり、著者「あとがき」には、  本書は、漱石没後一〇〇年・生誕一五〇年を記念して平成二八年(二〇一六)年一月六日から平成三〇(二〇一八)年五月三〇日まで毎週水曜日掲載で「西日本新聞」(熊本県版)に九九回、二年半にわたって掲載された「漱石がいた熊本」を、出版するに当たって、新たに内容に沿って章立てし、加筆修正したものである。  連載中忘れられないのは、熊本を襲った二度の大地震(平成二八年四月一四日、同一六日)だが、奇しくも漱石が赴任し結婚式の六日後に「明治三陸地震」があったことを書いた第一三回(本文七四頁)が掲載された(四月一三日)翌日のことだった。立つこともできず、机にしがみつかなけれなばならない揺れを経験する中で、「明治三陸地震」の挿絵が頭をよぎった。余震は数十回におよんだが、連載は一週間休んだのち再開された。  とあった。ともあれ、本書の「四 旅行・俳句」の章から、いくつかの漱石の句(全集未収録句もある)を挙げておきたい。     内君の病を看病して    枕辺や星別れんとする晨 (あした)        漱石     小天に春を迎えへて    温泉や水滑らかに去年 (こぞ) の垢      天草の後ろに寒き入日かな   我に許せ元日なれば朝寝坊    凩 (こがらし) や岩に取りつく羅漢路 (らかんみち)    かしこしや未来を霜の笹結び   二世かけて結ぶちぎりや雪の笹   漸 (ようや) くに又起きあがる吹雪かな   温泉湧く谷の底より初嵐   午砲 (ごほ...

新谷壮夫「鞍部(コル)に来て迷ふ進退日雷」(『翠嵐』)・・

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  新谷壮夫第二句集『翠嵐』(俳句アトラス)、帯文は柴田多鶴子。それには、    夏草の繁りかき分けはせを句碑   火の入るる封人の家そぞろ寒  新谷さんは趣味多彩で俳句はもちろんのこと、弓道・登山・旅行などエネルギッシュに行動されています。中でも奥の細道をたどった数々は圧巻です。第一句集から六年間の充実の第二句集です。  とあり、著者「あとがき」には、 (前略) この間の作句活動を振り返ってみると、「停滞とその打破に懸命にもがいてききた年月」と言えます。少し光が見えそうに思えてきたのが、令和六年から本格的に実施した「奥の細道を訪ねる旅」がきっかけです。毎月二、三日ずつ芭蕉が歩き、書き記した現場を訪ね色々と想像をめぐらす愉しい日々でした。(中略)「翠嵐」にはその字義として「みどりに映えた山の気。山にかかる薄青の水蒸気」とあります。これはそのような清々しい句を詠んでいきたいとの願いをこめて句集名といたしました。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておきたい。    海神の登るてふ磴星月夜            壮夫    甲矢乙矢 (はやおとや) ともに的中弓始め   もつと高く柊挿せと妣のこゑ   祝はれてさうか傘寿か四温晴   アンデスの夕日は大き蕃茄熟る   踊り子に手を取られゐて抜けられず   加茂川と名を替へ北は時雨けり   勇魚なる佳き名熊野の海に生れ   恋の首尾読ませぬ猫の澄まし顔   人は嘆き獣は仰ぐ寝釈迦かな   飛魚とんで南溟の空明けゆけり   左手に託す平和や長崎忌   この先は標なき海燕去ぬ   新谷壮夫(しんたに・ますお) 1941(昭和16年) 兵庫県生まれ。   ★閑話休題・・杉本青三郎「考える人から戻れない日永」(第68回「ことごとく句会」)・・   昨日、4月19日(土)は、第68回「ことごと句会」(於:ルノアール新宿区役所横店)だった。兼題は「人」。以下に一人一句を挙げておこう。    はじまりの白おわかれの白辛夷         林ひとみ    遠国の冬を吸い込み春を吐く          金田一剛    蜃気楼手垢のついた言回し          杉本青三郎    あいさつだけの二人の暮らし桜咲く       石原友夫    漢文の授業は午後や目借時           村上直樹    出来...

細谷源二「鳥泣きながら木のてっぺんの木の旅行」(「ペガサス」第22号より)・・

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 「ペガサス」第22号(代表・羽村美和子)、「雑考つれづれ」は瀬戸優理子「細谷源二~生きるための俳句⑥」で完結編。その中に、 (前略) ただ、問題はその詩的工夫の方法である。定型詩である俳句の場合、詩的肉付けは言葉を足したり引きのばしたりするのでなく、精選した言葉の凝縮によって密度を高める方向へ向かうのが通常である。だが、庶民の詩として俳句の口語化を進める源二は逆方向へ進んだ。すなわち、定型に合せて無理に音数を縮めず、発想の内面韻律や声調の美しさを優先して一句の詩性を高めようとしたのだ。  具体的に句をみていこう。   寒い柱に凭れたが寒い心を拾つただけ   夕餉目刺をみんなで分けて祈らず食う とあった。ともあれ、本号より、いくつかの句を挙げておこう。    いつの間に違ふ小石を蹴る日永          伊藤左知子    春朧ひとり遅れてバスに乗る           伊与田すみ    牡丹雪楽譜を読まぬ子のように          F よしと   母が縫い吾が縫いふきん日足伸ぶ          小川裕子    花八つ手白き光の中にあり              きなこ    肩貸します張り紙ひとつ牡丹雪           木下小町    鶴帰る白いクレヨン折れたまま           坂本眞紅    桜舞う街はアルカイックスマイル          篠田京子    少女期を漂白されし雛の顔            瀬戸優理子   亡国の民の銃後の朧かな              高畠葉子    春の雪ヒジャブの少女駆け出した          田中 勲    三寒四温変換キーを押してみる           中村冬美    徴兵に神の枠ある月夜茸             羽村美和子    能登は沖まで慟哭の余寒なり            水口圭子    梅一輪あなたのことはまだ待てる          陸野良美    代り映えする明日を下さい吾亦紅          浅野文子    ピカソシャガール岡本太郎福笑           東 國人    Wokeの蛇穴を出て議事堂へ           石井恭平    塒へとロールシャッハな春の泥           石井美髯 ★閑話休題・・森須蘭「行間を空けて下さい立春です」(自由句会誌「祭演」71号)・...

坂本登「鳥おどし音も光もごちやまぜに」(『松の位置』)・・

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 坂本登第一句集『松の位置』(ふらんす堂)、跋は、しなだしん。それには、 (前略) 登さんとの交流は、二十余年になる。登さんは昭和二十六年生まれで、筆者より十一年上だが、これまでに最も多くの句座を共にし、最も多くの酒席を共にした俳人である。 (中略)  さて、登さんの俳句は「蘭」の抒情性を汲みつつ、幅広い経験、知見が盛り込まれた作風。一方で、いわば庶民的な視線で、身辺の機微を掬い、人間の細かな仕草や場面を切取る巧みさも併せ持つ。  とあり、著者「あとがき」には、   職場句会から始まった私の句歴は五十年近くになるが、『松の位置』は恥ずかしながら私の第一句集である。  句集名は次の句から採った。   松の位置気になつてきし雪見酒  本句集には、二〇一四年以降「OPUS」他に発表した句と二〇一三年以前に詠んだ句から自選した四百句余りを収めた。 とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、いくつかの句を以下に挙げておこう。    名園に咲いてヂゴクノカマノフタ         登    逆上がりして春愁を忘れけり   職安の上に労基署梅ひらく   式次第なき春の夜の家族葬   ブータンは幸せの国ところてん   長き夜や亡き人ばかり出る映画   宝くじ誰かに当たる寒さかな   水やれば風おづおづと胡瓜苗   木の股にはうきちりとり神の旅   言の葉は未生のままに雪となる   花冷の頃の葉書は濡れて来る   豆飯をよろこび祖母をよろこばす   二人抜けすこし小さく踊の輪   飯場閉づ轍と草の花残し   蓮根掘る荒ぶるホースなだめては   ペーチカの燃えて魁夷の白き馬   どんど火の照らす此岸の人ばかり   坂本登(さかもと・のぼる) 1951年、和歌山県生まれ。    ★閑話休題・・藤原暢子写真展「北へⅨーポルトガルの村祭ー」(於:フリースペース緑壱)2025年4月16日(水)~27日(日)、13:00~19:00、最終日17時まで(休廊日:月・火)・・  藤原暢子写真展に、両国まで出掛けた。葉書の案内には、  2015年より「北へ」と題し、以後はポルトガル北部の村祭に主題を絞り、年一回のペースで写真展を開催。今回は北東山間部アヴェレーダ村とヴァルジェ村、隣り合う二つの村の冬至祭を取り上げる。同地方には、キリスト教由来ではない古来の祭礼が多く残っている。村の青年達は仮面を...