河本緑石(ろくせき)「村は水田の夕空となり墓に火を焚く」(「緑石と子供たち」より)・・
波田野頌二郎「緑石と子供たち/青田のほとりに風は吹き 合歓の花は咲きつづける」(河本緑石研究会機関誌「ふらここ」第9号より)。 その中に、
(前略)狂人の家に狂人居らず茶碗が白し
緑石には社会から疎外された人がどうしても気がかりだった。人権を守る法も意識もない大正の時代であった。その人を社会生活から疎外することも狂人という言い方をすることすらおかしいとしない時代、緑石にはそれは普通のことではなかった。緑石は疎外された人の生活が案じられた。それが白い茶碗に象徴される。こころは近づき、その人の孤独を想い、不在になぜとその安否を問わずにはいられない他者であった。大正六年、若いときの句である。(中略)
百姓子を失ひなげきつつ土を打つ
緑石は貧しい農家の人が気がかりであった。勿論そこには自分は大きな百姓家の子であることが重くあった。どんな哀しみがあっても農作業は時を待たない。土の中につらい気持ちを黙々打ち込む子を亡くした父親の姿にこころがとまる。それは後の緑石の姿であった。(中略)
父と子
順子の亡くなった翌年の昭和八年七月、八幡の海で緑石が亡くなった。農学校の水泳訓練中のことであった。同僚の配属将校と町の若者が沖でお溺れているのを救助に出た緑石に突然に心臓麻痺が襲った。溺れた二人は救助されたが、救助に当たった緑石は帰らぬ人となった。緑石三十六歳であった。
昭和八年は、盛岡高等農林学校時代の友人宮澤賢治が十五年前盛岡の駅頭で、「わたしのいのちもあと十五年はあるまい」と寂しそうに緑石に告げたまさにその年であった。賢治は二か月後に亡くなった。(中略)
緑石の子供たちのその後について簡単に触れておくと、河本家は戦後の農地解放により農地のほとんどを失った。。長男一明は、祖父定吉と力を合わせ、皆を学校へ通わせ妹たちを嫁がせるなど、大黒柱として一家を支えた。二男の輝雄は東京外語大学を卒業。在学中学徒動員で神宮外苑を行進する。戦後通産省に勤務するも肌に合わないと高校の英語教師となる。四十代で亡くなった。三男俊彦は拓殖大学を卒業長命であった。長女の葉子、四男の静夫は倉吉に住み今も健在である。五男の行雄は明治大学を卒業後横浜に住み、平成二十六年に亡くなった。
緑石は子らのことを考える間も暇もなく他界した。子らの成長を見守るこtができなかった。その緑石は今、田に囲まれた墓所に二人の子供、一明と順子とともに眠っている。
とあった。 因みに、『河本緑石句集』(河本緑石記念館・河本緑石生誕120年記念出版、)が波田野頌二郎(はたのしょうじろう)編集で2017(平成29)年に刊行されている。
この『河本緑石句集』の紹介は後日にしたいと思う。ともあれ、緑石の句を、本冊子よりいくつか挙げてきたい。
人間の兒をうみ落とす人間の夜 緑石
嬰児の目深くくすみ冬夜の物影
裸の子らに花が光りをしたたらす
いちにち繪ばかりかいている子でちちはははない
病む兒あれば日向の暖い水仙を折る
一杯の水うまく我がつたなく生くる夕べ
霰ふる音どの子も寝た
山は星の降る火葬の火を入れる
夕月に合歓さいて子の墓にまひる
子をなくした妻で筍の皮むいてゐる
河本緑石(かわもと・ろくせき) 1987(明治)年3月21日~1933(昭和8)年7月18日、鳥取県東伯郡社村(現・倉吉市)生まれ。本名・義行。
★閑話休題・・仲寒蟬講演「戦争俳句と大牧広」(俳人「九条の会」新緑の集い」)・・
「戦争俳句と大牧広」のレジメは、戦前の俳句史から「1、アジア太平洋戦争と俳句」「2.戦中派の人びと」「3,大牧広の戦争俳句」とよく整理されていて、愚生には、大牧広の俳句の歩みもよくわかった。
日本の負けいそぐとき卒業す 広
戦中の知覧にもさぞ青嵐
知覧特攻鄭和会館
春深き遺書は地球の重さなる
ヨットレースの海に眠りし特攻機
「なにもかも焼けた」と母の灼けし髪
エスカレーターがくりがくりと開戦日
臍の緒は空襲で焼け桐の花
開戦日が来るぞ渋谷の若い人
戦中に似たもの食べし七草粥
撮影・中西ひろ美「夢の如き一夜一風春惜む」↑
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