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好井由江「吾亦紅つんつん夕日離さずに」(『今日の日』)・・

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   好井由江第5句集『今日の日』(ウエップ)、著者「あとがき」に、   本集は『風見鶏』につづく第五句集です。二〇一九年十一月から二〇二四年六月迄の中から三五六句を収めました。  句集名「今日の日」は、これから先も一日一日を無事に明るく過ごすことが出来ますように、との願いでもあります。  五十六歳から始めた俳句も三十二年。八十八歳の今にして見えるもの、聞こえるもの、なかなかに面白く、ある時は哀しいこともありますが、老いもまんざらでもないと思っております。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。    神よりも遠出しており神の留守         由江    冬蝶が橋ながながと渡りけり     山手線二周の家出春の月   マッチなき暮しくちなし夜も匂う   ボサノバを鉢の金魚に聞かそうか   けん玉がかつんかつんと今日の秋   種茄子のまだ太る気よ天気雨   冬野来る吹かれ細りの人と犬   ぶらんこの影ぶらんこの寒い午後   四月馬鹿胸押しつけてレントゲン   夏帽子橋の途中で飛びたがる   母でもない色にマニキュア小鳥来る   どんぐりを持ちかえてから手をつなぐ   白粉咲くとなりでもなくうちでもなく   ふりむけば風ばかりなり笹子鳴く   桃咲いて遠く鴉が鳴いて昼   好井由江(よしい・よしえ)1936(昭和11)年、栃木県生まれ。   ★閑話休題・・駄作絵師・サラスワティ・トラ(末森敬子)初展覧会「ありそうでなかった/祈りの駄作絵/うつくしきとうとい」(於:あるがまま舎)9月14日~10月末予定・・   あるがまま舎 (JR吉祥寺駅・三鷹駅から柳沢行きバス、武蔵野営業所下車歩2分)は、愚生が腎結石その他、泌尿器科での二度の手術をし陽和会病院(現在も定期経過観察中)からも近く、コーヒーも美味い喫茶店の外、内での展示である。  サラスティ・トラのプロフィールには、 あるときはヒマラヤの娘、パールヴァティ・トラ。世界を旅しこと特別な想いを注ぐインドに幸福をなしとげる、オマージュを落描きのよせあつめかきあつめに戯れつつ、自由を舫い、自由、木洩れ日姫。むべなき駄作絵師。旅の音楽一座。ナマステ楽団、狂犬バクシーンの最愛のパートナー。  とある。その最愛のパートナー・末森英機の 「 さぷらいずらいぶ『狂犬バクシーン 語り唄の小さな会

岡田史乃「蝉時雨私のために泣かないで」(『岡田史乃の百句』より)・・

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  辻村麻乃『岡田史乃の百句』(ふらんす堂)、帯文は高橋睦郎、  岡田史乃は華やかな存在感のある女 (ひと) だった。その華やかさを満たしていたのが大きな悲しみであったことがくきやかに見えてくる、娘辻村麻乃さんの百句読解。生きることは悲しく、そのゆえにこそ美しい、と改めて教えられる史乃さんの句であり、麻乃さんの読みだ。  とある。また、著者「あとがき」には、 (前略) 晩年の母は体調が悪く、俳句に関する様々な細かい作業を私に一任していた。当時、私も子育てと仕事に追われて充分に役に立てているとは思えない。それでも、句集をふらんす堂から出す約束をしているとずっと言っていたので当時力及ばずながら連絡はとっていた。 (中略)   そのため、母の遺志がまだふらんす堂にあるのではないかと考えて『岡田史乃の百句』を出版するに至ったのである。  とあった。二例のみだが、鑑賞部分を抽いておこう。     かなしみの芯とり出して浮いてこい      『浮いてこい』  この句は岡田史乃の代表句といっても過言ではない。『浮いてこい』は、まず標題からしても口語がところどころ使われている。横浜で笹尾家の長女として何不自由なく育てられた史乃は、自宅まで頻繁に通って求婚をした隆彦の熱意に根負けして結婚したという。それが、「砂のような男」隆彦の情熱が冷めて、酒に酔っては帰らない。最終的に虎の門病院分院で治療をしていた隆彦に当時の周りの人間が動いて離婚届を書かされる。のちに二人は後悔して再婚しようとするが、日にちが満たないため税金対策と思われ婚姻届けは受理されない。そんな色々のことがあった。体面的には女一人で私を育てていたため、その悲しみは「芯」となって終生残ってしまったのだ。季語である「浮いてこい」に動詞としての意味ももたせた句となっている。      昨日会ひ今日も会ひたし娘のショール     『ピカソの壺』  この句は娘の私が一番驚いた。赤坂から我が家のある朝霞のケア施設に入ってもらってからは「近いんだから毎日来い」と言われ、行くと「帰れ」という不機嫌な日(のちに癌が二箇所に転移)もあった。会いたいのは娘たちの方で、私とは思わなかったからだ。あとで本人に聞くと「麻乃のことよ」と。読むと今でも涙を禁じ得ない。   以下に句のみなるが、いくつかを挙げておこう。   花人のうしろへまはる影法師    

古田嘉彦「夜明けが川べりまでついてきて手毬つき」(『奴隷の抒情』より)・・

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   神山睦美『奴隷の抒情』(澪標)、帯の背に、「『戦争とは何か』続編」とある。その「まえがき」の後半に、 (前略) 続編を書くにあたって、私がもくろんだのは、この主人と奴隷の問題を文学の思想と言葉の問題として考えていくことだった。その意味では、「戦争とは何か」を文芸評論として問題にしていくことだった。その意味では、「戦争とは何か」を文芸評論として問題にしていくというモティーフを一貫させてきたといえる。  文芸評論の本質を「他人の作品をダシにしておのれの夢を懐疑的に語ることだ」といったのは、小林秀雄だが、本書において、私は、この方法をこれまで以上に実践してきたといえる。  とあり、また、「あとがき」の中に、  (前略) 年初に起こった能登半島地震の被害が、次第に明らかになるつれ、何とも言いようのない気持ちにになっていった。ウクライナやガザの被害と重なり、苦難を負わされた人々の絶えることのんし現実に言葉を失ってしまった。  しかし、こういう時に こそ、「希望なき人々のためにこそ、われわれには希望があたえられている」というベンヤミンの言葉を噛みしめなければならないと思う。そして、世界中の人々が、「憎むのでも、ゆるすのでもなく、苦しみや痛みを共にする」日が来ることを心から祈りたい。   とあった。ここでは、「ロータス」の同人でもある古田嘉彦の『移動式の平野』(邑書林)について書かれた「痛みはすべての形式を拒む」の項から、一節を引用しておきたい。 (前略)  移動式の平野に一人しかいないみなしご  この句に付けられた詞書「痛みは形式を拒む」という一節には、古田嘉彦の俳句形式に対する根源的違和が感じられる。それは同時に、形式に収まらない人間存在の受苦にほかならない。痛みの実存の最初のあらわれとは、イエスの断食に見られる身体的苦痛だが、最後のあらわれは十字架から降ろされた傷だらけのイエスの姿に象徴されるものだ。  復活したイエスは、清らかな姿でマグダラのマリアの前にあらわれたのではない。あの傷だらけの損傷した身体をもってあらわれたのだ。「私に近づいてはいけない」というイエスの言葉は、私の痛みに近づいてはいけないという意味ではないだろうか。なぜなら、痛みはすべての形式を拒むから。   ともあれ、本書中の古田嘉彦の句をいくつか挙げておこう。   「攻撃=凍った魚」とメモ書き    

石田郷子「秋の蜘蛛神さびの威を張りにけり」(『万の枝』)・・

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 石田郷子第4句集『万の枝』(ふらんす堂)、その「あとがき」には、  『万の枝』は、 『草の王』以後九年間の作品を収めた第四句集である。  新型コロナウイルス感染症の世界的流行を経て、ようやく対面での句会が復活し、「椋」誌もこの秋には創刊の二十周年を迎える。私も、この句集を一つの区切りとしたかった。  とあった。本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。    悲しみも春もにはかに来るらしき        郷子    古徳利十五夜花を高く挿す   大鷺のたてばつくづく冬ざるる   白梅のにじむどんなに見詰めても   あじさゐを曲がれば居なくなるごとし   いづこから見ても逆光春の鳥   干し物の影とぶ日脚伸びにけり   手庇のしばらくとらへ春の鷹   卯の花のケーキのあとのお煎餅   薄ら日やにはとこの芽のふつさりと   このところ亀鳴くことの多かりき   六月のこんな雨にも歩き出す   山の墓なれど供華あり風の秋   花柊うつむきて貌失へる   木の花のこぼれ止まざる泉かな   そこにゐるはずの人呼ぶ冬はじめ   北風に出づ拳なら二つある   亡き人と聴く七月の蜩は   杉の香のこもつてゐたる初氷   石田郷子(いしだ・きょうこ) 1958年、東京生まれ。          撮影・中西ひろ美「何の実が成るとも知らず通り雨」↑

伊澤勝代「奥入瀬の瀬ごと瀬ごとの秋に風」(こぶし俳句会)・・

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  本日、9月13日(金)、愚生にとっては2回目の「こぶし句会」(於:立川市女性総合センター アイム)だった。雑詠4句集である。愚生は3句出しだとばかり思っていたので、あわてて一句、短冊に追加したありさま・・・。  ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。    サイパンの玉砕悲話知る敗戦忌       和田信行    除染後の硬き土くれ泡立草         伊澤勝代    一輌が緑の道央駆けぬける         尾上 哲    子等の留守空蝉ひたつ置きてあり      大澤千里    秋色の雨のバス停影まばら         山蔭典子    流れ星空の広さに燃え尽きて        伊藤康次    星になりショパンに会えるわ星月夜     高橋桂子    此処にいた目が合ったがず屋守かな     川村恵子    秋鮭の卵こぼして波だてり         大井恒行     次回は、10月11日(金)、場所が変わって、立川市高松学習館である。       撮影・鈴木純一「保守党の政治家たちががんばろう」↑

矢島渚男「緑蔭に余命をはかりゐたりけり」(「梟」9月号)・・

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 「梟」9月号(発行・矢島渚男)、本誌本号に國清辰也が「現代俳句を読む(九十二)」で、愚生の『水月伝』を評してくれている。見開き2ページのスペースを割いていただいている。おそらく、あまたの俳句結社誌での『水月伝』評では、精緻さといい、質量ともに初めてかも知れない。有難うございます。少し、引用、紹介させていただきたい。その中に、 (前略) 洗われし軍服はみな征きたがる     死というは皆仰向けに夏の兵  強靭な精神を思わせる響きが印象的である。憂うるこころが直截に伝わってくる。軍服の句には、大井恒行がかつて投句していた『渦』の主宰 赤尾兜子の作品「ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥」『虚像』の面影を見る思いがする。 (中略)     セシウムと赤黄男の落葉 切株に  本歌取りの句であり、新興俳句のアンソロジーのような面白さがある。中七は「爛々と虎の眼に降る落葉 富澤赤黄男」を踏まえており、冬に生きる虎の孤心と矜持が暗示されている。座五は空襲が始まろうとする不安の中で詠まれた「切株に 人語は遠くなりにけり 同」を踏まえており、東日本大震災に起因した原発事故によりセシウムに汚染された地域の惨憺たる状況が暗示されている。さらに「切株があり愚直の斧があり 佐藤鬼房」を踏まえて読んでみると、セシウム汚染に直面している冬の時代を愚直に生きる日本人の孤心と矜持を形象化した作品と言えるであろう。(中略)    くるぶしを上げて見えざる春を踏む  眼前の春を幻想的に捉えた空虚感や退廃的な気分が主題である。「見えざる春」は大井恒行が理想とする平和で明るい社会の晵喩でもあり、戦争が絶えない世界を憂いている。「軍の影鯛焼きしぐれてゆくごとし 赤尾兜子」『歳華集』を遠望しているのかもしれない。  とあった。   ともあれ、本号より、愚生好みにいくつかの句を挙げておきたい。   一つ葉に雨降つてゐる忌日かな      原 雅子   ねこじやらし悲しみの種零しゐる    森田美智子    寒山拾得筆と箒を立て涼し        岡本紗矢     大亀を吊るし焼く奇祭    燃えつきし大亀帰す秋の川        廣渡 好    森は甕蝦夷春蟬を響かせり       鈴木アツ子    鳴き止みし蝉に見られて水を飲む     小田允夜    ツユムシに生まれ文士に愛さるる    小川真理子   

東直子「火を消しておしまいにする夜祭の闇に立ち続けている姉さん」(『短歌の詰め合わせ』より)・・

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(文)東直子・(絵)若井麻奈美著『短歌の詰め合わせ』(アリス館)、「はじめに」には、  (前略) 短歌には、作者のその時にしか書きとめることのできなかった喜怒哀楽 (きどあいらく )や発見、アイデア、いたずらごころなどが、一首一首に込 (こ) められています。誰かの心が詰まった一首は、誰かの心に響 (ひびき) きます。 (中略)   この本の中には、、身近かな八つのテーマに沿って、楽しさや切なさ、おもしろさなど、誰かの心が詰まったたくさんの短歌を集めました。 (中略) ぜひ、お気に入りの短歌を見つけて下さいね。短歌を通して世界が少し違 (ちが) って見えてくるかも知れません。あなたの心もお守りになる一首を見つけてもらえたら、ほうとうにうれしいです。そして、自分でもぜひ、五七五七七に言葉をあてはめる楽しさを、味わってみてくださいね。  とあった。その八つのテーマとは、「食べ物」「動物」「家族」「自然」「喜怒哀楽」「恋」「不思議」「乗り物」である。ともあれ、本書中より、いくつかの短歌を紹介しうておこう。   こころよりうどんを食へばあぶらげの甘く煮たるは慈悲のごとしも    小池 光   おおいなる梅干し知り合いがみんな入っているとおもって舐める     雪舟えま   「やさしい鮫」と「こわい鮫」とに区別して子の言うやさしい鮫とはイルカ                                   松村正直   兄ちゃんが隣に座りすきやきを私の小さな茶わんに入れる       池田はるみ  ゆたかなる弾力もちて一塊の言葉は風を圧しかへしたり        横山未来子   いとしさもざんぶと捨てる冬の川数珠つながりの怒りも捨てる      辰巳泰子   対岸をつまずきながらゆく君の遠い片手に触りたかった         永田 紅   夢に棲む女が夢で生みし子を見せに来たりぬ歯がはえたと言ひて     吉川宏志   雨の日のひとのにおいに満ちたバスみんながもろい両膝をもつ      山崎聡子   中心に死者立つごとく人らみなエレベーターの隅に寄りたり       黒瀬珂瀾  東直子(ひがし・なおこ) 1963年、広島県生まれ。  若井麻奈美(わかい・まなみ) 1989年、神奈川県生まれ。 ★閑話休題・・永瀬ゆらとスエモリヒデキ(於:下北沢 lete)・・  去る8日(

大竹多可志「守らねばならぬものあり百日草」(「かびれ」9月号・休刊号)・・

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 「かびれ」9月号・休刊号(かびれ発行所・加毘礼社)、中に、かびれ社 大竹多可志「俳誌「かびれ」休刊について」がある。それには、  俳誌「かびれ」は第九十四巻・通巻一一一五号)令和六年九月号を以て休刊することに致しました。  思いますと、昭和六年三月に、大竹孤悠が茨城県日立市で創刊した「かびれ」は戦中戦後の混乱期を乗り越えて、昭和五十五年に小松崎爽青、平成十三年に大竹多可志が、「かびれ」主宰を継承し、現在に至っております。この度、諸般の事情により、かびれ同信の皆さまには、かびれ終刊の旨申し上げました。しかし、終刊とせず休刊にして欲しいとの意見があり、期限未定の休刊とすることに致しました。心の拠り所を無くさないでほしいとのご意見もいただきました。  「かびれ」休刊後も、俳句を続けたいという多くの同信と共に、私も生涯を通し俳句を続けたいと思っております。句会、吟行などにお声を掛けて戴ければ、そちらに出掛けて皆さまと一緒に俳句を楽しみたいと思っております。  俳誌「かびれ」には、 (中略) これらを実践する「社会人として、己の責務生活に真摯に生きその生き様の中から湧き上った詩的情感を俳句に詠む」という孤悠の唱導した「生活即俳句道」の生活信条があります。これらの俳句思想は「かびれ」の生命です。俳句の道標として「かびれ季感詩俳句」を探究し続けて参りたいと思っております。    秋晴や求むる道の杳かなり      多可志   とあった。ともあれ、「『かびれ』休刊特集/かびれ俳句作品/私の十二句」から、以下にいくつか挙げておきたい。    年の夜や紙の差もなき運不運         大竹多可志      身ほとりに聖書と季寄せ去年今年       石川美和子    あやとりの指の記憶や春の雪          岸井まゆ    ほととぎす恋の付句を急かせさるる      大山とし子    フクシマの子らを泣かすな一茶の忌       岡 久子    書塾の灯消して一人や雪降れり         小西敬子    菜の花を抜けてこの世の暗きこと        小山 孝   光陰は早さのたとへ虫時雨           斎藤 政    この国に表と裏や黄砂くる          佐々木リサ    聖五月汗をにじませ少女来る         柴田美枝子    たふとしや先師の眠る花の山  

森俊人「夭折の詩の神とはに花嫁菜」(『ゆくりなき日々』)・・

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 森俊人遺句集(第二句集)『ゆくりなき日々』(ふらんす堂)、その付記には、   本句集『ゆくりなき日々』は第一部(Ⅰ)の「静観」、第二部(Ⅱ)の「ゆくりなき日々」の二部構成としました。父が生前、二冊分の句集稿としてまとめていたものです。 (中略)    集成はただのあしあと十二月 (二〇二三年十二月四日 病院にて)  巻末に父が散歩の途中で撮った写真を載せました。マクロルーぺも活躍しました。  背伸びしたりしゃがんだり、崖の上にのぼっったり、夕日のシャッターチャンスのために懸命に急ぎ足で歩いたり。  二〇二三年十二月、急な旅立ちとなりましたが、二週間前まで公園を一人で歩き回っていました。その散歩を多くの方々が見守って下さり、声をかけてくださいました。 (中略)   母がいたときから私たちを見守ってくれている竹田さんご家族のご厚意で、長男翼くんがマクロルーぺで撮ってくれた写真も掲載させていただきました。 (中略)                                 隅田聡子(遺族)   とあり、著者生前に、句稿としてまとめられ、著者「あとがき」もしたためられていた。それには、  (前略) 句集名を「ゆくりなき日々」とした。  ゆくりなしとは、不意に、思いがけないなど、たまたまとか、偶然とかと理解されているが、その出会いからは逃れられなかった事実である。つまり、必然であり、偶然ではない。そんな日々んお記録を綴った句集である。  九十歳を機に、一日一季語の句を、明石海峡を望む城址内外の小径で徒然なるままの二本杖の歩歩の間に詠みました。 (中略) 海に耳を傾けながらの日々に浮かぶ句を、一日一季語にて、重複を避けながら、七十二侯ごとにまとめました。所々の余白の頁には、気分転換に、句に因む自作の漢詩を入れました。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう    遠浅の波頭より初燕            俊人    奥つ城の雨の残花となりにけり   白雲や翁ひとりの半仙戲   麦熟れて爆撃機音耳底より   残る虫突如転調したりけり   年の瀬の晦日未明に病むを止め   若草をふにやふがふにやと牛の口   末黒野はすべて白紙となりにけり   何もなき生家跡より冬の虫   十二月八日の山河在りにけり   何の群れも一羽は起きて浮寝鳥

大井恒行「憂国愛国革命無念竹岡忌」(俳句短歌誌「We」第18号より)・・

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 俳句短歌誌「We」第18号(俳句短歌社We社)、「追悼・竹岡一郎」特集でもある。その「編集後記」に、  (前略) 竹岡一郎さんが6月21日深夜に急性大動脈解離で急逝されたのはショックで残念で悔しい。その日の18時46分、竹岡さんからのメール受信が最後だった。「We」への俳句作品は、「まだ気にくわないから、30日迄待って」ということだった。「切迫した独自性が無い句はつまらん」とよく仰っていたが、「切迫した独自性」にこだわる俳句作家であり、論客だった。〇7月刊行の拙句集『情死一擲』の跋文を快く引き受けて下さり、私の俳句上の師友だった。初校校正時「よくこんな跋文が書けたな」と自賛ふうであった。ご自分でも来年句集上梓を考えてあり、『けものの笛』以降の約5年分については、既に498句絞ってあった。これに今年の選句分約600句で出そうとされていた。いっぽう、とても家族思いの人だった。ご本人にとってもご家族にとっても、最も無念極まりない最期だったことと思う。  とあった。また、夏木久の追悼句の次に、竹岡一郎の言葉を引用して、次のようにあった。 —…私が認識する詩は、もっと切迫した、映像でも音楽でも舞台でも表現できない事、直ぐに散り散りに破れてしまう言葉を、何とか形ある一行に固めて、白紙の中にでもまぎれてしまう一滴の叫びを、掬い上げようと試みるもの—(竹岡一郎・「We」第17号)  この厳粛な言葉を肝に銘じて、哀悼!  愚生が思い出すのは、「豈」への執筆を機に、攝津幸彦論を彼に書いてもらうこと。現代俳句評論賞(現代俳句協会員以外でも応募は自由)に応募を勧めたのだった。その際、竹岡一郎に言ったことは「君の論に評論賞を与えないのなら、それは、選考委員に見る眼がないということだ。竹岡一郎のままに遠慮せずに思い切って書くこと」だと。彼は、短時日でそれを書き上げた。そして、見事に、「 攝津幸彦、その戦争詠の二重性 」で2014年、第34回現代俳句評論賞を受賞したのだった。  ともあれ、以下に、本誌より、追悼句を以下に挙げておこう。   「ふるさとのはつこひ」反旗は比良坂へ        谷口慎也   あるときは空手チョップの如き怒り          筑紫磐井   憂国愛国革命無念竹岡忌               大井恒行    吶喊のごと水晶多棘梅雨に遺る            関 悦

武馬久仁裕「玉門関月は俄かに欠けて出る」(『俳句手帳/青の都』より)・・

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    武馬久仁裕/俳句手帳『青の都』(黎明書房・税込み660円)、挿画も著者。簡単に言うと、俳句手帳の体裁をとった、武馬久仁裕の句集である(他の版元の俳句手帳と違うのは、他の俳人の句は無く、武馬久仁裕の句のみがある)。巻末には「二十四節気一覧」「七十二侯一覧」が付いている。本手帳の題名に因む句は、    風と行く青の都の女たち        久仁裕 であろう。ともあれ、以下に、本手帳より、いくつかの句を挙げておきたい。    妄執のブーゲンビリアプルメリア   リスボンの出口入口赤い花   fadoの夜やがて真紅の話する   マスクして玉虫色を生きている   いるはずのない人がいる春の駅   矢車草揺れ寸秒の狂い出す  武馬久仁裕(ぶま・くにひろ) 1948年、愛知県生まれ。 ★ 閑話休題・・石井八十太「さがしもとむ兄には逢わず南海の空に散りたる哲三あわれ」(『戦場の人事係/玉砕を許されなかったある兵士の「戦い」』より)・・  七尾和晃著『戦場の人事係/玉砕を許されなかったある「兵士の戦い」』(草思社)、その「はにめに」には、  第二次世界大戦中の沖縄戦史において、石井耕一 (いしいこういち) は無名の人物である。  玉砕した沖縄本島南部の戦線にあって、自身が所属した中隊における下士官一八人のうち、ただ一人の生還者であることは知られていない。  日本軍の司令部が置かれら摩文仁 (まぶに) を擁する破壊し尽くされた南部にあって、戦後、洞窟( ガマ) に隠していた人事記録や戦時中の記録を本土に持ち帰ることに成功した、ただ一人の人物であることも知られていない。 (中略)   のちに鉄の暴風と呼ばれることになる、阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、人事記録や戦時記録を守る抜き、奇跡的な生還を果たしたのが准尉(軍曹)、石井耕一である。  しかし、石井の新たな任務は故郷・新潟に戻ってきた復員後に始まることとなった。  全滅した中隊の遺族らに、戦友の「最後の瞬間」を伝える、終わりのない旅路が始まったのだ。 (中略)  石井は仲間の死を伝えるために生き抜いた「戦場の人事係」であった。  とあった。著者・七尾和晃は、本書の結びに、  玉砕の沖縄戦で戦った、野戦高射砲第八十大隊第三中隊。 一九四五年六月、中隊長・山田兼成が残した言葉は、戦場の人事係、石井純一の人生を経て、今に伝わり続けていく。

竹下しづの女「金色の尾を見られつゝ穴惑ふ」(『竹下しづの女の百句』より)・・

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 坂本宮尾『竹下しづの女の百句』(ふらんす堂)、巻尾の「俳句に理性を」には、 (前略) しづの女の句はしばしば難しい漢字や構文を用いて堅苦しく、また、複雑な内容を一句に盛り込もうとして定型をはみだして破調となる。師高浜虚子が「詰屈聱牙 (きっくつごうが) 」の句と評したように、一見して難解で取っつきにくい印象を与える。しかしじっくり味わえば、その句は誰も詠んだことがないような新鮮さと力強さで読み手を魅了する。さらに作品の背後に、波瀾の大正から戦中、戦後社会を、颯爽と独立独行の姿勢を貫いて生きたあっぱれな女性が浮かびあがってくる。 (中略)   大正九年四月に「天の川」と「ホトトギス」に投句を始めると、早くも八月に両方の雑詠欄の初巻頭を飾った。冒頭で触れた〈短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎 (すてつちまをか) 〉は、女性に慈母、賢母であることが求められた時代に、家事や育児で疲れ果てた母親の脳裡を過った本音を、率直に吐露したところに新しさがある。このような大胆な句を発表した女性はいなかったのである。 (中略)   同じ頃に九州で活躍した杉田久女は、しづの女と生き方も句風も大きく異なるが、やはり家庭と創作活動の両立という課題に直面し、作句を中断している。大正から昭和初期の男尊女卑の社会では、特別に恵まれた環境にある場合を除いて、家事の担い手である主婦が俳句に専念することには大きな困難があったことが窺われる。しかし、この二人は時代が女性に課した制約をやがて乗り越えて、女性俳句の先駆者となった。まさに驚嘆すべき才能と意欲である。  とあった。掲載の句々に見事な鑑賞が付されているが、ここでは一例を挙げて、あとは句のみを掲げておこう。   春雪の白きよりなほ潔かりし    「雪折れ笹」福岡日日新聞                    昭和八年四月一日  伴蔵は入浴中に脳溢血で倒れて、四十八歳の若さで亡くなった。第一次大戦を契機に産業構想が農業から工業へと変化してゆくなかで、農学校の校長の職務は心労が多く、激務であった。しづの女は「一片の私心なく、一抹の陰影をもとめぬ八荒晴明」であったと夫を偲び、葬儀の夜の春雪と引き比べて彼の清廉潔白な人格を讃えている。春の雪だけに、ことさらに純白の輝きが感じられ、深い敬愛の情のこもった悼句となった。  一家は校長官舎を出て、借家に移ることになる。

鈴木美江子「木頭(きがしら)の涼しき柝音(きおと)山揚がる」(『山あげの街』)・・

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  鈴木美江子句集『山あげの街』(コールサック社)、帯の惹句は長谷川櫂、それには、 山あげの街水清し山清し  鈴木美江子さんの句集の読者は/新しい季語「山あげ」の誕生に/立ち会うことになるだろう。  とある。栞文には、谷口智行「 毛の国からの矢文 」、櫂未知子「 情熱の街 」、永瀬十悟「 水清し山清し、そして人清し 」。序文に、髙田正子「 鈴木美江子第一句集『山あげの街』に寄せて 」、いずれも玉文だが、ここでは序文の中から、   ある日、「山あげ俳句全国大会実行委員会 委員長 鈴木美江子」様から大きな封筒が届いた。「山あげ」といえば那須烏山、   炎ゆる炎ゆる揚がる揚がる山揚がる   黒田杏子『八月』 の聖地である。先師・黒田杏子のこの句は二〇一七年作。師の最終句集を編むにあたり、私自身が選出したのだから忘れようがない。  とあった。また、著者のエッセイ「烏山の山あげ祭『山あげを季語に』」には、 (前略) 山あげ祭は毎年七月の最終金・土・日の三日間行われる。真夏の炎天下、演じる踊り子たちは汗にまみれながらも美しい衣装を纏って真剣に演技する。豚緒右手の常盤津の太夫席からは二丁三枚(三味線二人、常磐津三人)と言われる力強い響きが流れる。舞台背景に山と呼ばれる作りものの背景が高く大きく遠近に配されている。 (中略)  時は戦国時代(一五六〇年)永禄三年、烏山城主那須家七代目資胤 (すけたね) の時代に疫病退散、五穀豊穣を願って勧進した神社の祭で、延々と受け継がれたのである。 (中略)   山あげ祭は昭和五十四年に国の重要無形民俗文化財に指定された。 (中略) 平成二十八年には「烏山の山あげ行事」として全国の「山・鉾・屋台行事」とともにユネスコ無形文化遺産に登録された。 (中略)   山あげ祭は、風土性、歴史性、詩情性に溢れているという事を知って頂き、ぜひ、各出版社の歳時記に、インターネットの歳時記に収載されることを切に望んでいるというい事を広めたかった。季語として「山あげ」「山揚げ」傍題として「野外歌舞伎」「はりか山」などと定めた。  ともあった。そして、その最後の頁には「山あげ祭とその歴史をご覧ください」とQアールコードが付いているので、スマホで簡単に観ることができる。ともあれ、以下に本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。   山あげや滝夜叉姫の巻手