鈴木節子「遠野火や孝女のふりの二十年」(「俳句界」10月号より)・・



 「俳句界」10月号(文學の森)、特集は「はじめの一句~俳句への扉」、執筆陣は佐藤郁良「考えるより素材を探す」、加藤かな文「俳句でしか言えないことを」、髙田正子「普通上等」、岸本尚毅「『解釈』と『鑑賞』に分けて考える」。塩見恵介「句会には出なくてもよし、出てもよし」、鳥居真里子「遠野火へ」、野中亮介「中学生のぼくには」、小林貴子「荒地の橋に立って」。その中で、愚生に少しばかり縁のあった鈴木鷹夫「帯巻くとからだ廻しぬ祭笛」と鈴木節子「遠野火や孝女のふりの二十年」の句が挙げられ、かつ、能村登四郎、金子兜太と高柳重信の句に触れてある鳥居真里子の「遠野火」から、


(前略)人体冷えて東北白い花盛り     兜太

    「月光旅館」

    開けても開けてもドアがある    重信

  以来、大切な愛唱句となった。自らは作り得ない俳句であっても読むことは出来る。そんな作品との数々の出会いの僥倖をもたらしてくれたのは、やはり「門」への入会がきっかけである。気負うことなく枯れ木も山の賑わいの心持ちと節子姉の「遠野火」の一句が、私と俳句との強い縁を紡いでくれたような気がする。


 とあった。「俳句界」には、注目している連載がいくつかある。その一つは、田島健一「俳人の本棚⑩」である。今月号は、「『否定的なもののもとへの滞留』(スラヴォイ・ジェシク著/酒井隆史・田崎英明訳)。哲学書が多いので、愚生には全くお手上げなのだが、いつも最後の締めの部分は、俳句に落とし込んでくれているので、少しは理解できそうなのである。今月号の、その結びの部分を引用しておこう。


 (前略)俳句はどうだ。今書かれている多くの俳句が問題になるのではない。、むしろ、どの様な俳句が書かれていないのか(・・・・・・・・・・・・・・・・・)、が問題なのだ。

「書かれていない俳句」、それは、我々の手元にはない。それを保証してくれる「大文字」の〈他者〉」も失われつつある。

 我々が直面している時代の運命は、まさに俳句の運命でもあるのだ。


 ともあれ、本誌掲載句より、いくつかの句を挙げておこう。


  潮の香の混じりてゐたる虫の闇      松尾清隆

  紅梅であつたかもしれぬ荒地の橋     飯島晴子

  海上に富士より高き雲の峰        島村 正

  アンパンの臍の胡麻とる四月馬鹿     荒井 類

  かき氷どの部分から崩さうか       八木 健

  夜行バスゆく万緑の呼吸抜け      佐藤光太楼

  春うららキッズカメラの斜め掛け     横手夕貴

  お降りや家霊は赤き褞袍着て      鳥居真里子

  納棺に余りし菊の無念かな        山﨑十生

  くれないの魚のさびしさ熱帯夜      武田伸一



★閑話休題・・春風亭昇吉「母からの手紙無月の段ボール」(TVプレバトより)・・



 9月12日(木)放送のTVプレバトに、「遊句会」の仲間の春風亭昇吉が久々に登場した。残念ながら最下位に沈んでいたが、夏井いつきの添削もなく、句も悪くはなかった。それにしても、最近の夏井いつきの句の選び方の傾向として、句またがり、中切れの句が多い印象がある。愚生のような古い時代の句づくりを学んだ者は、先輩諸氏からは、ダメ出しをされたものだ。時代は変わり、今やそれが句づくりの新しい傾向となっているのかもしれない。



       撮影・芽夢野うのき「汀まで鏡拭きつつ秋の暮」↑

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