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山本潔「花ゆうな少年の読む平和の詩」(『草莱』)・・

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 山本潔第二句集『草莱』(東京四季出版)、その「あとがき」に、   『草莱』は『艸』に続く私の第二句集である。二〇二〇年春から二三年冬までの三三五句を収めた。新型コロナウイルスの出現で世界が混迷を深めた時期と重なるが、俳句を休もうと思ったことは一度もなかった。非日常的な暮らしを強いられるなかにあっても、むしろ俳句は生きる力になってくれると信じていた。 (中略)  句集名は「艸」主宰雑詠欄の「草莱抄」にちなんで名付けた。「草莱」とは、草原、草叢のほか、未開の地という意味がある。混沌とした時代―—世界は常にそういうものかもしれないが―ーにあって、俳句は己のなかにある詩的感覚やことばの未開の領域を開いてくれるものだと感じている。庭の草叢も手をかければ美しい花が咲き、樹木が育てばいつしか鳥もやってくる。これからも「草莱を開く」気持ちを失わずに俳句と向き合ってゆきたい。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておきたい。    マスクしてマスクを探す青鮫忌         潔    夏草やアンリ・ルソーに謎多し   地球から銀河の外へ絵双六   魂は一人にひとつ寒卵   なに着ようかしら憲法記念の日   熱々のナンをカレーに敗戦日   十二月八日ガラスのスヌーピー      母永眠   数へ日を数へず独り逝きたまふ   北斎の星は動かず冬の山   天国と地獄のほかに梅の里   廻廊の水かげろふを抜けて春   うさぎやのどらやき買ひに菊日和   今生を浮いて沈んで雪ぼたる     山本潔(やまもと・きよし) 1960年、埼玉県秩父市生まれ。    ★閑話休題・・「大井恒行句集『水月伝』/厳しい現実を透視する視座」(6月21日「長周新聞」第9131号)・・  「長周新聞」6月21日(金)、第9131号(長周新聞社)の4面書評欄に「大井恒行句集『水月伝』/厳しい現実を透徹する視座」が掲載された。しかも、これまでの他の新聞では見られなかった的確な評をしていただいた。深謝!それには、    東京空襲アフガン廃墟ニューヨーク 句集冒頭のこの一句が、、この俳人の現代に向き合う精神を象徴しているようだ。ニューヨークの同時多発テロ事件を機に、世界史は恐慌と戦争、広がる格差と抵抗の激動をはらんで進んだ。国内では東日本大震災と福島原発事故。さらにコロナ禍が被さってく

宮本佳世乃「うぐひすの窓をひらいてキーボード」(「かばん」6月号より)・・

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 「かばん」6月号・通巻483号(発行人 井辻朱美/編集人 高村七子)、本号の特集は睦月都歌集『Dance with the invisibles』(角川書店)と岡田美幸(屋上エデン)歌集『グロリオサの祈り』 (コールサック社)。それぞれ、読みどころ満載である。各自選歌より二首ずつ挙げておこう。  春の二階ダンスホールに集ひきて風をもてあますレズビアンたち    睦月都   やさしいと言はれて私に優しさはあなたのためにあるのではないのに   〃   手にすればこわれやすくてあいらしいクロワッサンはみかづきの舟   屋上エデン   たい焼きの型にはまった笑顔でも誰かをきっと笑顔にできる       〃  中に、「俳句で返句」というのもあったので、  ひとつでも汚い花火はないかなと見つめていたが不発も綺麗     屋上エデン     [返]   空を弾 (はじ) く音を探せば遠花火         久真八志   ともあれ、アトランダムになるが、本誌本号より、以下にいくつかの歌を挙げておきたい。   人からは掴みどころがない人と思われたいから変化している    小鳥遊さえ   待ち合わせなんかしてないこの場所で日没を見る、暗くなるまで   田中真司   コロナ前に女児誕生を祝ったが…遇えば、早くも可愛い4才     久保 明   知り合ひは一人も居らぬ名簿ゆゑ暗号表としても使へる       松澤もる   人類は気づかないこの星がすでに姿を消していること        前田 宏   身も世もなくわらっているのだ桜たち分かち書きするサインコサイン                                 井辻朱美  春風に桜が散れば浅草の街は祭へ一歩踏み出す           大黒千加  許されずなきものにして蓋をした 応えよと今名前呼ばれる     榎田純子  針を忌み庭の夜薔薇の紅を吸い息さえふかく生に震えて       河野 瑶  2本あるハサミが嫉妬しないよう互い違いに使ってる     たけしたまさこ    最愛の娘を喜ばすために林檎売りから林檎を買った         沢 茱萸  桜さくら桜はなびら踊りながらコメントのこしさよならをする   ユノこずえ   気づいたらアスファルトからはえていた生まれた場所が死に場所でした                  

野村東央留「日本の狂いはじめる烏瓜」(『戦後75周年記念文集・次世代に語り継ぐ戦争体験』より)・・

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  富士見市ピースフェスティバル実行委員会・富士見市教育委員会『戦後75周年記念文集/次世代に語り継ぐ戦争体験』。巻末に添えられた「鶴瀬公民館をメインとしたピースフェスティバルのあゆみ」には、第一回目が1987(昭和62)年に開催され、その前年の国際平和年(1986年)には、「平和の夕べ」「平和コンサート」「平和と芸能のつどい」を開催したと、長年にわたる活動が記録されている。  ブログタイトルにした句「 日本の狂いはじめる烏瓜 」の作者・野村東央留は、俳誌「門」にあって主宰・鈴木鷹夫、鈴木節子、鳥居真里子の「門」の三代を支えてきた重鎮のお一人である。陶芸家でもある。その彼の戦争体験は、今号の「 学童疎開と朝鮮から引き揚げてくるまで 」にで語られている(愚生注:3年前・2021年、野村東央留85歳)。その敗戦直後のこと、 (前略)そ の最終列車に乗り遅れたら、身の安全がなかったと後で聞かされた。父は会社の残務整理で数人の日本人社員と残る。数日後にはソ連軍が進駐して来たという。父達はシベリアに抑留される途中、貨物列車から数人の仲間と脱走し、昼間は草むらに隠れ夜は闇にまぎれながら三十八度線を数日かけて越えて逃れたという。  父を残し私達は十月の中旬に仁川港から貨物船(ダルマ船)に乗った。船底は引き揚げの者の家族でぎゅうぎゅう詰であった。母は十二月に生まれる予定の児を身籠る中で、私達兄弟を必死に守ってくれた。日本のどの港に上陸したかの記憶はないが、上陸後にDDTの白い粉を頭から浴びた事は、今でもはっきり覚えている。 (中略)   この終戦直前の一年間の私の体験から、戦争の恐ろしさがトラウマになって今を生きている。再びあの様な体験がおきないよう祈るのみである。  とあった。ともあれ、本誌に収められた短歌・俳句作品の中から、いくつかを紹介しておきたい。   戦死せし父の代わりに叔父ちゃんを「とうちゃんと呼べ」幼なは反抗   秋山幸子   届かないB29への高射砲父の語りし小松川陣地             岡田栄子   シベリアの抑留死者名読む活動一人四秒三日掛りの           金井和光   フェスティバルピースと伺い盛りあげた彼 (あ) の人この人鬼籍に入りぬ  佐藤マサ代   乳児にて引き揚げ者の惨強いられし吾平和を甘受し七十五才       福留紘子   父母は戦

築網臥年「月に眠る身はうつくしき廃墟なす」(「Picnic」No.12より)・・

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   「Picnic 」No. 12(TARO冠者)、その巻頭エッセイ、鈴木茂雄「5・7・5を企む『Picnic』」に、  俳句を読むとき、そこになにが書いてあるかということより、いかに書いてあるかということに、わたしは注視する。俳句にかぎっていうと、そこに書かれたものが意味することより、書かれた俳句のしくみの方を重視する。十七文字の一語一語に創作のヒント、読解の手がかりがあると思うからである。  とあった。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。   ほな、羽を叩きつけたらええんやね       榊 陽子    はにかんだ浦島太郎に花吹雪          妹尾 凛   推定無題村人はみな同じ顔           月波与生    樹の下にあしたを置いてくるママン       松井康子    ひぐれからふりおとされるひえらるひ    あみこうへい    ちりぬると水の括りのひとしずく       木下真理子    表札屋横入ル和泉式部の忌           波田野令    万緑や笑い過ぎでは痩せなくて         岡村知昭    鶏が汚れてすまう春の暮            梶 真久    良心の呵責に焦げてゆくスルメ          叶 裕    妻からは和尚と呼ばれ新茶汲む        木村オサム    あやふやなボタンを押すと芽吹きけり      鈴木茂雄    大胆な腰のリズムに桜散る           野間幸恵                                                乾佐伎↑               乾佐伎の父・夏石番矢矢↑                   母・鎌倉佐弓↑ ★閑話休題・・乾佐伎第二句集『シーラカンスの砂時計』出版祝賀会(於:アルカディア市ヶ谷)・・                発起人・久々湊盈子↑                 発起人・内藤明                発起人司会・田村雅之↑                   神野紗希↑                  浅川芳直↑                  大塚 凱↑                   中村和弘↑                   神山睦美↑                   池田澄子↑  

橋本夢道「みつまめをギリシャの神は知らざりき」(『橋本夢道物語』より)・・

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 殿岡駿星『橋本夢道物語/妻よおまえはなぜこんなに可愛いんだろうね』(勝どき書房)、 著者「あとがき」に、 「 殿岡くん、浩佳は君をたよりにしているようだから、よろしくお願いしますよ」 わたしが次女浩佳と交際を始めた学生時代に、月島の自宅に電話すると、夢道はいつもやさしい声でそういってくれた。 (中略) 昭和四十五年(一九七〇年)十月に浩佳と結婚し、披露宴は、かつて夢道が創業に参画した「月ヶ瀬」の伊藤佐太郎社長が経営する銀座五丁目のレストラン「コックドール」で開いてもらった。 (中略)   夢道の俳句人生は、静子の支えがあったからこそといえる。夢道はわたしに、 「世の中に偶然というものはない。すべて必然ですよ」 といった。 「静子と僕が出会ったのも、多くの俳人や友人たちと出会ったのも、人生に偶然なんてものはない。全部必然ですよ。運命とは出会い、こうして君と僕が呑んでいるのも、必然なんですよ。偶然なんてどこにもありません、とんでもないですよ」  といった。わたしが夢道物語を書いていることも、必然だったことになるのだろう。夢道は、わたしがこの物語を書くことを予感してくれていたかもしれない。  とあった。そして、夢道の日記には、     一九二八年七月十日  俳句のこと/句をみてこれは巧いと讃められることよりか、  私は句を見てこれがこの人なのかと思われることが何よりうれしいのだ  私は俳句に巧みにはなりたくない  私は私とという人間の俳句を作り出したい  何時もそのことを思いねがってはいるが、それがなかなかむつかしいことなのだ   とある。ともあれ、本書より夢道の句のみなるが、いくつかをあげておこう。   僕を恋う人がいて雪に喇叭が遠く吹かるる      夢道   せつなくて畳におちる女のなみだを叱るまい   恋のなやみもちメーデーの赤旗を見まもる   泣くまいたばこを一本吸う   死顔に逢う私に逢いたかった弟だったのです   おさえがたい震える脚をたてていまとなった馘首をじっとからだで聴いていた   寝ても無職、起きても無職のからだに風がきて吹く   恨むまいとすれどこの心癒しがたしむねにひろがる赤い火を見る   大戦起るこの日のために獄をたまわる   うごけば寒い   蜜柑一つ食べて元日の夜が獄に来る   みんな戦争のからだを洗って春夜   からだはうちわであおぐ

濱筆治「アリ地獄ガザに民アリ民に国なし」(第30回「きすげ句会」)・・

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  本日、6月20日(木)午後1時半~は、第30回「きすげ句会」(於:府中市中央文化センター)だった。兼題は「雨」。以下に一人一句を挙げておこう。    深緑の投網曳きたる八ヶ岳 (やつ) の峰    高野芳一    さくらんぼ一粒ずつに夏が来た        井上芳子    狐雨の秘め事もあり白絣           井上治男    ケニーGのサックス物憂き梅雨のカフェ    山川桂子    ラブシーン邪魔な雨降るスクリーン      清水正之    不揃いの雨の雫や桜桃忌           濱 筆治    卵とじ負けてたまるか大暑かな        杦森松一    吹っとんでしがみつきたり初とんぼ      寺地千穂    極辛のカレーにらっきょう夏に入る     久保田和代    亡き民とわが民乗せて飛ぶ螢         大井恒行  次回は、7月18日(木)、府中市生涯学習センターに於いて、兼題は「雲」一句+雑詠2句持ち寄り。  ★閑話休題・・森澤程「立浪草夢とは知らず摘んでおり」(「~ちょっと立ちどまって~2024.4~」)・・  「ちょっと立ちどまって」は津髙里永子と森澤程の一か月に一度の葉書便り。    ダービーが近づく階段駆け上がる     津髙里永子    蛇見たり急いでみたり明日香村       森澤 程        撮影・芽夢野うのき「丸くて白くてこころはどこ紫陽花白し」↑

相馬遷子「わが山河まだ見尽さず花辛夷」(『相馬遷子の百句』より)・・

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  仲寒蟬『相馬遷子の百句』(ふらんす堂)、「一人の医師として」の副題がある。巻尾の「相馬遷子の医師俳句・闘病俳句」の中に、     一、はじめに  相馬遷子と言えば「馬酔木」の高原派としか知らなかった。その遷子と同じ佐久に住むこととなり、同じ地域で医師として働くようになって偶然その俳句に興味を持ち始めた。  きっかけは筑紫磐井氏からインターネット上のブログ「-俳句空間ー豈weekly」の「選子を読む」に参加しないかと誘われたことであった。この企画は二〇〇九年三月から二〇一〇年七月まで中西夕紀、原雅子、深谷義紀、筑紫磐井と著者の五人(当初は窪田英治も加わっていた)による研究であり、その成果は二〇一一年に『相馬遷子―—佐久の星』(邑書林)という書物に纏められた。 (中略)  ここで医師俳句の定義をしておきたい。狭義の医師俳句は「往診や診療風景など医師としての業務を詠んだ俳句」とする。また広義の医師俳句を「病気・病人や人の死を医師の眼を通して詠んだ俳句」と定義する。  とあった。一例として本書中の一句鑑賞を引用する。     忽ちに雑言飛ぶや冷奴    『草枕』                  (昭和一八年作)  「送迎桂郎四句」(『山国』では「迎送桂郎二句」)と前書がある。桂郎は石川桂郎、石田波郷に師事し「鶴」「壺」の同人であった。遷子と桂郎(一歳年下)では性格も身の上も全く異なる筈だが意外と気が合ったようである。  「壺」にも所属していた桂郎が函館の斎藤玄らを訪ねて来たのだ。雑言は罵詈雑言というように様々な悪口、討論などの品のよいものとは言えず、酒も入ってかなり声高な暴言や批評の応酬があったか。馬酔木の貴公子と呼ばれた遷子はどんな顔をしていたのだろう。冷奴はこの場をやや冷静に眺めている遷子の象徴なのかもしれない。  とある。ともあれ、本書中より、句のみになるが、いくつかを挙げておこう。    風邪の身を夜の往診に引きおこす         遷子    年の暮未払患者また病めり   口中もまた貧農夫春の風邪   母病めり祭の中に若き母   隙間風殺さぬのみの老婆あり   ストーヴや革命を怖れ保守を憎み   病者とわれ悩みを異にして暑し   酷寒に死して吹雪に葬らる   甲斐信濃つらなる天の花野にて   夏痩にあらざる痩をかなしみぬ   あきらめし命なほ惜し冬茜   

おおしろ建「水平線は綴じ紐 抜けば無数の空がはばたく」(『俺の帆よ』)・・

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 おおしろ建第二句集『俺の帆よ』(コールサック社)、解説は鈴木光影「沖縄の水平線から宇宙へ羽ばたく心象俳句―—おおしろ建第二句集『俺の帆よ』に寄せて」。その結び近くに、 (前略)   オリオン座横倒しなら俺の帆よ      Ⅷ章  タイトルとなった句。オリオン座は、三つ星の上下に明るい星が二つずつ位置し、冬の南方の空で見つけやすい。三つ星マークのオリオンビールの商標からも、夜空に輝く様が沖縄の人々に親しまれてきたことがわかる。この句のオリオン座は、これまで述べてきたように建氏の想像力によって「横倒し」にされ「俺の帆よ」と建氏の心象の海を渡る帆船に掲げられる。 (中略)  現代沖縄の俳人・建氏は、オリオン座煌めく夜空の下、沖縄の海に心象の「俺の帆」を張り、豊穣の海風を集めて「俺の」船をを進めてゆく。  とあり、また、著者「あとがき」には、   句集『俺の帆よ』は、私の第二句集であるから、もう三十年が経つ。途中、何度か句集発行をと思ったが、忙しさにかまけ、怠け癖まで浮上し、うまくいかなかった。そうこうしている間に、家庭内ライバルの妻が「もう待てない」ということで先に第二句集・おおしろ房句集『霊力 (セジ) の微粒子』二〇二一年・コールサック社)を発行した。ライバルに二歩ほど遅れをとってしまった。 (中略)   二〇二三年に、「天荒俳句会」の代表・発行・編集を担っていた野ざらし延男先生が退いた。 (中略) 代表をおおしろ建。編集長を山城発子さんが担うこととなった。「新しい俳句の地平を拓く」俳句革新の精神がどこまで受け継ぐことができるか、不安は尽きないが天荒同人の仲間と共に頑張りたい。大きな視野で物事を見つめ、新しい発見ができればと思っている。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておきたい。    睫毛の送電線 虹かすかに切り取られ      建    風産まるアンモナイトのつむじより   二つ折りで吐き出される白紙の憤死   初噛みのジュゴン宇宙へ泳ぎ出す   「テロしかない」口臭強く匂う五月   芳一のちぎれた耳か寒椿   プールを出れば犬かきに似た日常   菜の花や水平線が崩れてる   黒ぐろと犬は水銀灯に喰われてる   雨一滴墜ちて水平線があふれ出す   うりずん南風 (ベー) 手足に水かき生えている   ティッシュ一枚乗せれば消え

石川青狼「幻海や群来(くき)る群来(くき)ると海猫の渦」(「幻日」第2号より)・・

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    「幻日」第2号(発行人 石川青狼/事務局 鮒橋郁香)、巻頭エッセイに石川青狼「『碧梧桐と幣舞会(へいぶかい)』の序」。その結びに、  (前略) 大沢高嶺二十一歳、菊地無花果二十歳、最年長で事務局の田村芦城二十五歳と血気盛んな青年たちは、鳴雪、露月、碧童らの選を仰ぎながら一年有余、四十一年 (愚生注:明治 )夏迄活発に活動したが、入営、移転などの事情で消滅したことは惜しまれる。しかし、釧路俳壇に強烈なカンフル剤を注入した事に意義があったのではないか。  とあった。ともあれ、本誌本号より、いくつかの句を挙げておきたい。    海に向く蕗の薹らの強情よ         石川青狼    助手席にYAZAWAのタオル師走来る     子飼紫香    リモートの学びの小部屋囀れり       斉藤郁子    月の気配がしたすっかり見られた      清水健志    寒晴れや矢羽根の逆をゆく鷗      中村きみどり    レントゲンに写らぬ自負や鰯雲       西村奈津    秋暑し歌詞は何度もby the way       鮒橋郁香            ギャラリービブリオ主人・十松弘樹↑ ★閑話休題・・「国立うちわ市」(於:ギャラリービブリオ)~6月25日(火)まで(入場無料)・・             御座敷ワンマンライブ・オオタスセリ↑  チラシに、国立ゆかりのアーティストが、手描きのうちわで大集合!とあり、出演者は総勢21名。で、会場は国立駅から徒歩3分ほど、愚生は散歩がてらに寄らせてもらった。午後三時から オオタスセリ が、ギャラリー内の別の芙蓉の間で行われる 「御座敷ワンマンライブ」 (60分1000円・定員12名)に、最後の一席がまだあるというので、滑り込ませてもらった。思わぬ出会いに楽しい時間をもらい、過ごした。  撮影・芽夢野うのき「夢の中夢の凌霄花(のうぜん)揺らす君」↑

有馬朗人「草餅を焼く天平の色に焼く」(『有馬朗人全句集』より)・・

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 『有馬朗人全句集』(角川書店)、帯の惹句に、 物理学者、教育者として数多くの偉業を成し遂げ、 2020年に90年の天寿を全うした俳人・有馬朗人 その豊かなる俳句世界の全貌! 既刊10句集に拾遺、補遺、『黙示』以後を加えた全5369句を収録 解題/年譜/あとがき/初句索引/季語索引  とあり、栞文には、堀切実「 伝統を継ぎ国際化をめざす 」、高橋睦郎「 八十五歳の坂 」、高野ムツオ「 ロマンの俳人 有馬朗人 」、星野高士「 直会殿」 、小林恭二「 初めてお会いした頃 」、神野紗希「 ぶらんこで語る永遠 」。  各句集の解題に、日原傳・佐怒賀正美・対馬康子・福永法弘・梶俱認・仙田洋子・横井理恵・明隅礼子・久野雅樹・坂本宮尾・岸本尚毅。そして、西村我尼吾「 有馬朗人という飛跡 」。その中に、 (前略) 先生は令和元年「天為」12月号で、「日本古代の歌謡片歌について」を論じはじめ翌年の4月号まで連載された。そこでの問題意識はそもそも俳諧連歌の存在をアプリオリのものとして、そこからの独立が芭蕉の発句改革であり、時代を経て正岡子規以降の短詩型文学としての俳句の成立につながるという通説に対して、根源追究という、ことばの根本に立ち返り考えようとする、いわば理論物理学者としての怜悧な問題意識に基づくものである。 (中略) 俳諧連歌から句が独立するのではなく、原型短詩というべき句から俳諧連歌が発達してきたと考えるのである。先生は、その問題意識の上に立ち古代における独立した短詩型は存在するのかということを探ろうとしたのである。 (中略) そして古事記、日本書紀にまでたどり着いた。そして古事記が示した片歌という一行詩にその淵源を見ようとした。日本武尊や木綿垂の神楽歌に575で季語。季題も含んだ作品を俳句の原点の片歌として認識した。( 中略) 有馬先生の原型短詩説はこのような日本独自の対属の発展の上に俳諧連歌が形成されているという考え方の道筋をつけたものと考えられる。  と記している。愚生は、生前のそれも若き日の攝津幸彦から、当時のことになるが、「朗人(ロージン)の句はオモロイで・・」と言うのを聞いている。30年ほど前のことになる。その時から。愚生は有馬朗人を意識して見た。そのことを、後に有馬朗人にお会いしたときに伝えたことがある。何かの会に出席する前の有馬氏は、時間前に、いつも散歩をしな

渡邉樹音「言葉にも表面張力梅雨の月」(第60回「ことごと句会」)・・

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 本日は、第60回「ことごと句会」(於:ルノアール新宿区役所横店)だった。兼題は「青・蒼・碧」。以下に一人一句を挙げておこう。    夏風を少し削りて青畳          江良純雄    切り出せぬ話の先や水羊羹        石原友夫    晩鐘の明るき町に夏めける        武藤 幹    仮名文字の雨降り続く桜桃忌       渡邉樹音   月融けて夢の中まで忍び来る       渡辺信子    聞かれてないが色は「青」が好きです   村上直樹    赤茄子のムニエルナムルマリネソテー   杦森松一   病棟の四階まで伸びメタセコイア     金田一剛    しとしとと夕の紫葵いま 熟女      照井三余    蒼茫の山脈をこえ渡る蝶         大井恒行  次回は、7月20日(土)午後2時~5時。兼題は「火」。   ★閑話休題・・山内将史「押入は寝台列車冬銀河」(「山猫便り/2024年6月11日」)・・  「山猫便り」は、山内将史の個人葉書通信。それには、 (前略) 安井浩司さんは「押入」の掲句の感想を「かつて小生も冬銀河の下、押入=寝台列車をさんざん体験しました。懐かしく存じます」と葉書に書いてくれた。下五は元は「黒髪行き」だった。句会に出し澤好摩さんに作者は黒髪行きと書きたかったんだよと苦笑された。  とあった。      撮影・鈴木純一「みずすまし好い人だけで終わるのさ」↑

三宅深夜子「ひらかなのおてがみさくらさくらかな」(「天晴」14号・夏号)・・

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 「天晴」14号・夏号(発行人 津久井紀代)、「第一回天晴賞発表」である。選考委員は津久井紀代・筑紫磐井・仙田洋子。「豈」同人もみえたので、以下に、正賞、準賞、佳作の方々の句を紹介しておこう。   巻貝の奥の紫立子の忌         三宅深夜子(正賞)    室咲の小さき花に小さき疲れ       森 巴天(準賞)    陽炎や舌にとけゆく和三盆        松浦泰子( 〃)    寒晴やピノキオは木に戻りたい     なつはづき(佳作)    エッシャーの螺旋階段鳥雲に       杉 美春( 〃)    海に向く棚田千枚燕来る        堀場美知子( 〃)    薔薇の芽の末はマリアかまくれなゐ   高橋多見歩( 〃)    どんぐりは立ち上がらない鍋の底     川崎果連( 〃)    冬ぬくし記憶のピース持ち寄れな     井口如心( 〃)    その他、本誌より、幾人かの句を挙げておきたい。    春雪の掌に載る重さともならず      董 振華    飛花落花次の処へ迷ふかな         夏 英   わさびよく効きすぎている春の昼    津久井紀代       撮影・芽夢野うのき「紫陽花の横顔ばかり海暮れて」↑

上原良司(22歳)「人の世ハ別れるものと知りながら別れハなどてかくも悲しき」(『いつまでも、いつまでも、お元気で』より)・・」

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   知覧特攻平和会館編『いつまでも、いつまでもお元気で/特攻隊員たちが遺した最後の言葉』(草思社)、目次には、「特攻隊員たちの遺書・遺影」とあり、33名のものが掲載され、巻末には、隊員プロフィールとして、氏名とともに写真、戦死日、隊名、階級、年齢が記録されている。その中の一人は、 和田照次…21歳 お父さん/お母さん/お元気ですか。 (中略)   酔生夢死 (すいせいむし) の人生、無為の人生、といった人生の多い内に敵艦必沈と言う大きな究極の目的をもって閉ずる私の人生は神々に祝福されたものと思います。  小さい時から肉親兄弟の溢れるばかりの愛情の内に育 (はぐく) まれた私は本当に幸福でありました。私の希望或 (あるい) は我儘 (わがまま) をみなきゝ届けて下さった私の人生は誰よりも幸福であり充実されたものでした。それに引換、我が子として御両親に何ら報ゆる処 (ところ) なくして征 (ゆ) くを非常に遺憾 (いかん) と致します。  と遺している。本書より、いくつかの句歌を挙げておこう。  雲を裂き地を挫 (くじ) かなん年明けぬ  (矢作一郎…23歳)  わが生命捧ぐるは易し然れども国救ひ得ざれば嗚呼如何にせん  (小林敏男…23歳)   皇国の弥栄 (いやさか) 祈り玉と散る心のうちぞたのしかりける                                (若杉潤二郎…24歳)  今更に我が受けて来し数々の人の情を思ひ思ふかな  (鷲尾克巳…22歳)    お母さま  夢にだに忘れぬ母の涙をばいだきて三途の河を渡らむ   (高田豊志…19歳)  国のため父母にうけたる精神 (こころ) もて我れは散るなり桜のごとく                             (松尾登代喜‥19歳)  吾が頭南海の島にさらさるも我は微笑む國に貢 (つく) せば  (隊長奥山道郎…26歳)   大命のまにまに逝かむ今日の日を吾が父母や何とたゝへん  (渡辺綱三…18歳)   ★閑話休題・・赤羽礼子・石井宏『ホタル帰る/特攻隊員と母トメと娘礼子』(草思社)・・  「ホタル帰る 戦中編」のプロローグに、石井宏は、  「 なんや、昭和二十年五月二十日出撃やって。アホか、三か月もすれば終戦やないか。なあ」  ふやけた平和な会話がそこにある。  しかし、この人たちも特攻平

田中信行「オキナワの昭和平成令和夏」(『プリムローズの丘』)・・

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  田中信行第1句集『プリムローズの丘』(私家版)、序の高橋将夫「序にかえて」には、   田中信行氏は日本経済新聞社を経て、テレビ大阪の社長、会長を歴任される傍ら、現在に至るまで槐俳句会の同人会長を務めていただいている。そんな多忙な毎日の中で詠まれた句を編纂されたのがこの第一句集『プリムローズの丘』。  とあり、著者「あとがき」には、   私には日記をつける習慣がない。だからというわけではないが、俳句を始めてから俳句が日記代わりとなった。 (中略)  俳句を始めて自分にはそれほどの才能がないことを思い知ったが、今回句集を出そうと考えたのは私の社会人人生の一区切りがついたからである。 (中略) ただ、日記なら人に見せることなく、自分でせっせと詠んでいればいいのだが、句集を出すととなるとそれは日記ではなく手紙になる。  とあった。そして、各章の終りに、エッセイが付されている。集名ともなった「プリムローズの丘」の中に、  (前略) 失意の中で私は大阪。枚方市で開かれていた槐傘下のようかん句会のメンバーとなった。見様見真似で句づくりを始めたころ、プリムローズヒルを走り回っていたチビの姿を思い、〈その先はプリムローズの丘にあり〉と詠んだ。句会で披露したところ、私の個人的な事情など知る由もない中島陽華先生から「プリムローズという言葉に作者の強い思い入れが感じられる」とほめて頂いた。うれしかった。十七文字の中に込めた思いが人に伝わるんだと俳句の力を思い知った。私を俳句へ導いてくれたのはチビであり、プリムローズの丘であったと思う。  とあった。「チビ」は愛犬の名である。ともあれ、以下に、愚生好みに偏するがいくつかの句をあげておこう。    笑うてる渥美清に似た金魚            信行    梅雨晴れや「さらばである」と義父の遺書   白鳥に黒鳥の艶なかりけり   ロザリオを握る手の皺原爆忌    (悼 ネルソン・マンデラ)   巨星墜ち虹色の国冴え返る   四ッ谷発新宿発の虹かかる   不器用が器用に生きて冬銀河   生き証人黙して逝けり沖縄忌   短夜やラフマニノフのやや重し   桜餅買ふもソーシャルディスタンス    (悼中村哲医師)   アフガンに捧げし誠冬銀河   凍縄に動かぬ意思のありにけり   瓦礫には青黄の小旗キーウ春   猛暑とかウクライナとかコロナとか