橋本夢道「みつまめをギリシャの神は知らざりき」(『橋本夢道物語』より)・・


 殿岡駿星『橋本夢道物語/妻よおまえはなぜこんなに可愛いんだろうね』(勝どき書房)、

著者「あとがき」に、


殿岡くん、浩佳は君をたよりにしているようだから、よろしくお願いしますよ」

わたしが次女浩佳と交際を始めた学生時代に、月島の自宅に電話すると、夢道はいつもやさしい声でそういってくれた。(中略)昭和四十五年(一九七〇年)十月に浩佳と結婚し、披露宴は、かつて夢道が創業に参画した「月ヶ瀬」の伊藤佐太郎社長が経営する銀座五丁目のレストラン「コックドール」で開いてもらった。(中略)

 夢道の俳句人生は、静子の支えがあったからこそといえる。夢道はわたしに、

「世の中に偶然というものはない。すべて必然ですよ」

といった。

「静子と僕が出会ったのも、多くの俳人や友人たちと出会ったのも、人生に偶然なんてものはない。全部必然ですよ。運命とは出会い、こうして君と僕が呑んでいるのも、必然なんですよ。偶然なんてどこにもありません、とんでもないですよ」

 といった。わたしが夢道物語を書いていることも、必然だったことになるのだろう。夢道は、わたしがこの物語を書くことを予感してくれていたかもしれない。


 とあった。そして、夢道の日記には、


   一九二八年七月十日

 俳句のこと/句をみてこれは巧いと讃められることよりか、

 私は句を見てこれがこの人なのかと思われることが何よりうれしいのだ

 私は俳句に巧みにはなりたくない

 私は私とという人間の俳句を作り出したい

 何時もそのことを思いねがってはいるが、それがなかなかむつかしいことなのだ


 とある。ともあれ、本書より夢道の句のみなるが、いくつかをあげておこう。


  僕を恋う人がいて雪に喇叭が遠く吹かるる     夢道

  せつなくて畳におちる女のなみだを叱るまい

  恋のなやみもちメーデーの赤旗を見まもる

  泣くまいたばこを一本吸う

  死顔に逢う私に逢いたかった弟だったのです

  おさえがたい震える脚をたてていまとなった馘首をじっとからだで聴いていた

  寝ても無職、起きても無職のからだに風がきて吹く

  恨むまいとすれどこの心癒しがたしむねにひろがる赤い火を見る

  大戦起るこの日のために獄をたまわる

  うごけば寒い

  蜜柑一つ食べて元日の夜が獄に来る

  みんな戦争のからだを洗って春夜

  からだはうちわであおぐ

  もう笑う子を抱いてちゅんちゅん雀の柿の木芽ぶく

    「八月十五日」

  敗戦を人と語らず釣り昏れぬ

    「俳壇復興」 

    敗戦後、俳壇に俳句作家の気運往来し、

    新俳句人連盟結成これに加盟す。昭和二十一年

  村は新緑戸籍に死にし兵帰る

  いくさなき人生がきて夏祭

  無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ

  あれを混ぜこれを混ぜ飢餓食造る妻天才

  ふるいどじょうやが生きていてどじょうでござい

    「石橋辰之助の死」

  貧乏と仕事に辰之助は立派な衣服つけず死ぬ

  妻よおまえはなぜこんなに可愛いんだろうね

  絶望や戦争にわがゆく日妻表裏なく打泣きし

  夜明けの逮捕僕に靴下二枚重ねて妻乱れず

  石も元旦である

  母の忌を修し鳴門の涙渦

  五十年幻や妻と銀座のビヤー館(ホール) 

  妻よ五十年吾(あ)と面白かったと言いなさい

  嫁(とつ)がせて妻が吾(あ)に謝す「ありがとう」

  桃咲く藁家から七十年夢の秋


 橋本夢道(はしもと・むどう) 1903(明治36)年4月11日~1974(昭和49)年10月9日、徳島県名東郡(現在は板野郡)生まれ。享年71。

 殿岡駿星(とのおか・しゅんせい) 1942年、静岡県浜松市生まれ。



    撮影・鈴木純一「好かれたい気持ちも大事ユウゲショウ」↑

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