摂津幸彦「三島忌の帽子の中のうどんかな」(『俳句に学ぶ「生きる力」』より)・・
髙柳克弘著『俳句に学ぶ「生きる力」』(慶応義塾大学出版会)、その帯文に、 「俳句は生きる証」である 「ひとり」とはもっとも小さく、油断ならぬ力を持った「座」である。 とあり、「あとがき」 には、 「座」という言葉は、もっと広い意味で使っても良いのではないか。「座の文学」についての話題からはじまった、本書の結論である。目の前にいる人ばかりが「座」の面子であるわけではない。師や句友はもちろん、同時代で句を作っている人々も「座」に含まれる。そして歳時記をひらけば、そこには江戸時代から現代までの俳人の例句が櫛比して並んでいる。それを参考ににしながら句を作っているということは、古今の作者もまた、自分の「座」に入っているわけだ。 また、見逃されがちであるが、俳人といっても俳句ばかり読んでいるわけでもないので、俳人にとどまらず、哲学者や思想家、芸術家の影響は、大なり小なりと受けているはずだ。だとすれば、これらの作り手もまた「座」に入れるべきだ。 (中略) ことごとく未踏なりけり冬の星 克弘『未踏』 二十歳の頃に作ったこの句は、スタンリー・キュ―ブリック監督のSF映画『2001年宇宙の旅』を踏跡している。私たち人類は、どこから来て、どこへゆくのか。何よりそのことに関心を持って、文学や芸術にのめりこみ、現代日本の企業文化に背を向けるに至った私の、まだ若年ではあるが確かな「生きる証」であった。いや、この句によって私は自分の目指す方向を教えられ、結果として「生きる証」になったと言うほうが正確だ。自分の発した言葉に自分が導かれるという、不思議な経験だった。 とある。「第九章 いつか死にゆく者として」の、摂津幸彦の部分を以下に引用したい。 (前略) 三島忌の帽子の中のうどんかな 摂津幸彦『鳥屋』(昭和六十一年) 飛躍ある忌日俳句としては、この句の右に出るものはあるまい。仮に「帽子の中の頭」であればごく素直な句となるが、あろうことか「うどん」だ出てくるから難物なのである。皇国思想に殉じて自衛隊の決起を促し市谷駐屯地で自決したのが十一月二十五日、その行為を頭でっかちな人間のすることと揶揄しているようだ。帽子の中に詰まっていたのは脳味噌ならぬうどんではないのか、という強烈な皮肉である。あるいは、そのような皮肉を読み取るよりも、つやつやと茹で上がったうどん...