高山れおな「麿、変?」(「現代俳句」10・11月号合併号より)・・

                                         

                                                         

「現代俳句」10・11月号合併号(現代俳句協会)、のメイン記事は、第46回現代俳句評論賞受賞作/山根もなか「俳句は第一芸術である——知覚・形式・運動の条件」である。一部分のみになるが、紹介しよう。


(前略)いま、改めてたち止まるべきなのは、俳句が第二芸術なのか否かという二択ではない。俳句がどのような条件のもとで第一芸術として立ち上がるのか、その条件のほうである。桑原の議論は、西洋近代芸術の物差しを外側から俳句に当てがった評価だった。本稿はそれとは逆向きに、句のなかにすでに動いている構造から出発したい。理論を上から降ろすのではなく、句の内側で起きている知覚の運動を辿ることで、俳句の成立条件を見直したいのである。

 この問題は、現代においてはかえって鋭くなっている。結社俳句では、季語・切字・五七五といった規範が先に与えられ、それに合うように言語が組み立てられるため、知覚の生成よりも形式への適応が優先されやすい。SNS環境ではさらに屈折が加わる。俳句は即座に共有され、評価は拡散と反応の速度に大きく依存する。言語はもはや知覚の媒介ではなく、流通の単位として動き出す。自由律もこの圧力から自由ではない。形式を退けたあとに知覚の生成が伴わなければ、言語は私的な断片のなかへ閉じてしまう。これら三つの傾向に共通するのは、知覚が形式や流通に先回りされているという一点である。賞や選考の制度は表現を評価可能性のほうへ引き寄せ、SNSは反応を見越した言語生成を促す。問題は個々の作家や個々の作品にあるのではなく、言語の置かれている構造そのものにあると言ってよいだろう。(中略)

 芭蕉から井泉水、山頭火、兜太へと続く流れは、直線的な発展史ではない。起きているのは形式の進歩というより、知覚の再発見の連なりである。俳句は前へ進むというより、回帰しながら更新する。ただし、この回帰は、同じ場所への単純な復帰ではない。少しずつずれを伴いながら立ち上がり直す運動――螺旋と呼びたいのは、そういう働き方のことだ。

 (中略)高山れおなの

    麿、変?

においては、言語そのものが断裂し、知覚は安定した場としてではなく破片として現れる。そこでは生成と崩壊が同時に起きている。現代俳句は、重層化と圧縮を極限まで推し進めたとき、しばしばこのような破綻の縁に触れるのである。(中略)

 俳句は第一芸術である。ただし、いつでもそうだというわけではない。個と共同体のあいだに緊張が生じ、言語の運動が知覚として立ち上がるその瞬間にかぎって、俳句は第一芸術として現れる。緊張が失われたとき、俳句は容易に第二芸術へと滑り落ちる。第一芸術と第二芸術を分ける線は、形式の有無ではなくて、知覚の運動が生きているかどうかである。(中略)

 言語が過剰に生成され、形式が容易に反復される今日だからこそ、形式に依拠しない知覚の強度が、かえって差異として浮かび上がってくる。問題は定型か自由律かではなく、形式があらかじめ与えられているのか、それとも知覚の運動から生まれてくるのか、その向きである。

 俳句の未来は、形式そのもののなかにはないと思う。知覚の強度と、そのあいだに生じる緊張をどれだけ持続させられるか――そこに賭けらている。形式を守ることではなく、形式を生み出し続けること。その運動が続くかぎり、俳句はまだ第一芸術であり続ける。崩壊の縁でなお立ち上がってくる知覚の運動、生成のままにある言語——俳句とはそういうものだろうと、いまは考えている。


 とあった。ともあれ、本誌より、いくつかの句を挙げておこう。


  月下とはりんどうが飲む水の音        高岡 修

  女帝いま載(た)たんさざめき立つ紅葉   夏井いつき

  大鉄橋の継ぎ目の著き敗戦忌        佐怒賀正美

  秋の昼崖ぎりぎりを抱く木の根        岡田由季

  鉛筆の遺書もものせずまた秋風        出口善子

       (紀音夫・誓子を偲び)  

  背骨へと風を通わせ秋立ちぬ         岡田耕治

  思ひ出を探さずにゆく霧の街         島崎寛永

  ファミレスはウチらの居場所かぼちゃプリン  千田洋平

  寒昴死線彷徨ふ星に棲み           武良竜彦  



★閑話休題・・富山勉「花入れに母の好みし白木槿」(第6回「多摩塾句会」)・・


 10月5日(月)は、第6回「多摩塾句会」(於:府中市市民活動センタープラッツ)だった。兼題は「木槿」。以下に一人一句を挙げておこう。


  猫じゃらし喜ぶ遠き日の幼(おさな)     森 和子

  蹲(つくばい)に赤き実二つ小鳥来る     富山 勉

  子のひと日真幸(まさき)くあらむ木槿閉づ  吉田久美

  宗匠の名を負いて咲く木槿かな        小川幸子

  咲きどきを知りてか赤き彼岸花        中西雅子

  ウマオイの声のみ届く夜半かな        篠木裕子

  列島が水浸しなり野分あと          花見育子

    杉本博司「絶滅写真」展

  杉本の気韻(きいん)宿りて「絶滅」す   早川ひろ美

  野分去り朝一番のカシオペア         上阪則子

  木槿吹かれるソウルメイトに囲まれて     大井恒行


 次回は、11月9日(月)、兼題は「帰り花」

  


      撮影・中西ひろ美「どこの子が泣くのか天が高いのか」↑

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