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四ッ谷龍「蘭化墓所梔子の実に指染めて」(「むしめがね」第25号)・・

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 「むしめがね」第25号(「むしめがね」発行所)、特集は「『編棒を火の色に替えてから 冬野虹詩文集』」、外部執筆者に高遠弘美「寛衣からヴァイオリンへ―ー俳句から見た冬野虹」、中井尚子「日々の輝きを告げる天使」。四ッ谷龍の連載に「再論・田中裕明/図と地のたわむれ―ー田中裕明『花間一壺』を中心に」と補論として「『地図』と『地』が意味するもの―ー映画を例にして」。   特集記事中の高遠弘美は、  (前略) その後でも句は揺るぎなく立つてゐるだらうか(あへて注を挟む。。安住には「あぢさゐの藍をつくして了りけり」といふ名作があることは重々承知してゐるが、それすら「あぢさゐのかくまで藍を深めしよ」なる決して名句とは言ひ難ひ句と並べるとその緊張感の薄さが際立つてしまふ)。   銀杏ちる兄が駆ければいもうとも   (だからどうした)  安住敦の六句から改めて冬野虹の六句に戻ると印象は驚くほど変はる。例の科白を幾度繰り返さうとも、冬野虹の句はすつくと立ち、足許がぐらつくこといさへない。それどころか、かかる問ひを発したことが莫迦莫迦しくなつて、顔が赤らむ気さへする。 とあり、また、中井尚子は、   最後に、背熱ながら、私信を。  虹さん、私もバシュラールや散歩、モンテーニュやヴェンダースが好きです。  勝手に一方的に親近感を抱いています。  私がとっておきの紅茶を淹れたら、いっしょに飲んでくださいますか?   大好きです、虹さん。  ずっと、ずっと。  とあった。表紙絵は冬野虹。「 ボール紙に赤ボールペンで描いたいたずらがきである。素描というよりも漫画のようなものであるから、虹の画集には載せなかった。しかし彼女の人柄を表すユーモラスな一品なので、機会があればご紹介したいとも思っていたものである」 とある。ともあれ、本号より、四ッ谷龍の句をいくつか挙げておきたい。    風紋も見せて氷りぬ蓮の鉢          龍    咳 (しわぶき) が梅の紅さを縫い付けぬ   垂直に立つ花活や変声期   ぼんやりと突く肱重し仙翁花 (せんのうげ)    わが内なる死体が我をはみだせり   よじ登る子ごと吹かれて楡枯木   スポイトの尖から我の落つる夢              撮影・中西ひろ美「こんなのを忘れて行った雪女」↑

妹尾健「枯芝に立ってひとりの合唱曲」(『旦暮集』)・・

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  妹尾健第3句集『旦暮集/妹尾健 近詠句集』(私家版)、跋文ともいうべき懇切な「妹尾健句集『旦暮集』評―—寒林の哲学者」の中には、 (前略) 蓬摘み忘れましょうと母の声  話し言葉を俳句形式で表現しようと思えば、歴史的仮名遣いでは困難を極める。生半可な技術では無理だ。いや、健がその力を持ち合わせていないということではなく、一般論である。この忘れましょう、という口調は、彼にとって天啓だったのではないか。それを素直に受けとめるためには、この表記しかなかったに相違ない。 (中略)    今もなお鉄槌下す重信忌      一日を送る縁や立子の忌  これらの作品に内在する秘密。それはとりもなおさず、情報の共有化ということになる。作者読者の間にある乖離は、この場合、妹尾健が歩み寄る必要があるだろう。実は、僕は彼が秘匿している多くの作品を識っている。たぶんこれが、もやもやとしている想いを解放させる存在なのではないかと考えている。この句集では、ないものねだりということだ。次の句集に期待しよう。   とある。そして、扉には、献辞と献句が添えられている。     あまりにも年若く逝かれた中川浩文先生の霊に捧ぐ     温顔の先師を見たる夏の夢              妹尾 健  また、著者「あとがき」には、  昭和二四年九月日野草城は第六句集『旦暮』を刊行した。その句集の扉には有名な「俳句は諸人旦暮 (もろびとあけくれ) の詩で ある」の言葉が記されている。本句集の「旦暮」はそこから来ている。 (中略)  学生の頃、私は中川浩文先生に「生生はなぜ戦後も日野草城先生のところへ行かれたのですか。」と質問したことがある。先生は微笑されながら「句会に行きましてね。まあ君の句はなんでいいのか分らんが、もらっときまさすといわれまして、あたってるなと思いました。」と答えられた。そんなものかなと当時は思ったものだが、今になってみると、この言葉はたいへん深い意味をもっている。君の句をもらっときますといわれたとき、中川先生はやはり救われたのだと私は思う。こういう言い方は適切ではないだろうが、やはり救われたのである。俳句を合評するときなど、作品の巧拙について執拗に批評批判する人がさると、私は中川先生の言葉を思い出す。「君のはなんでいいのか分らんが、もらっときます。」というのは何かそういわれるとほっとする...

垂水文弥「吹雪野をからくれなゐのヘッドホン」(「門」1月号・第457号より)・・

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  「門」1月号・第457号(門発行所)、「編集後記」には、「 令和7年、隔月刊のスタート。新しい加藤閑さんの表紙デザイン気に入っていただけましたか」 とある。その加藤閑は「現代俳句月評」で、筑紫磐井の「俳句」11月号作品16句について、次のように評している。   (前略) 現在様々なところで詠まれる俳句、特に俳句総合誌に掲載される作品は、みな同じような方向に向いて洗練され過ぎているという印象を持つことがある。行儀よく形づくられているが、その分個性や面白みに欠ける。 (中略) その名も「シュルレアリスム宣言(1924)」。 (中略) しかしそんなことより衝撃的だったのは、この16句の作品は他の俳句作品から感じられる「俳句感」がないことだった。俳句の形をしているのに俳句の韻律や息遣いが感じられない。内容的にも解りやすい三句を挙げる。    科学的な、あまりにも科学的なてにをは      筑紫磐井   第四のアバンギャルドに虚子るなり   我は婆伽凡しあわせ夏の青い薔薇   (中略)   一句目は言うまでもなくニーチェの「人間的な、あまりに人間的な」のもじりである。しかも対象は「てにをは」。ということは作者の頭には生成AIによる俳句の作例への揶揄があるのかもしれない。二句目は第四のアヴバンギャルドへの虚子のコミットを想定し「バズる」や「映える」のノリで「虚子る」と言ってのけた痛快さ。三句目の「婆伽凡」は言わずと知れた赤塚不二夫の代表作「天才バカボん」そのもの。実際赤塚不二夫はこのタイトルに仏教的な背景があると述べているという。  断っておくが、これらの句が名作かどうかはわからない。筑紫磐井もそんなところでこの作品を書いてはいない。大事なのは今まで書かれたこのとのいない声をもった作品が書かれ、発表されたということだ。  とあった。もう一つ、付言しておくと筑紫磐井第二句集には『婆伽凡』(弘栄堂書店刊)がある。他に、「門作家作品評」に大塚凱、また、「第27回門賞」に石山ヨシエ、「第36回門新人賞」に芳尾志保、第23回「兼題賞」に中島悠美子、「第38回東門賞」に垂水文弥とあった。ともあれ、本誌より、以下にいくつかの句を挙げておこう。    輪廻転生・眉唾・闇阪・凍豆腐         鳥居真里子   雪激し戦場も斯く雪降るか           石山ヨシエ    寒の水...

水原紫苑「ちちははの交はりを見し十歳のわれは極光放ちたりけむ」(『わたしの神聖なる女友だち』より)・・

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   四方田犬彦著『わたしの神聖なる女友だち』(集英社新書)、その「おわりに」の中に、 (前略) 取り上げた方々のなかには、「女友だち」などと呼ぶにはあまりにも畏れおおい方々もいらっしゃいます。またもう泉下の人となり、わたくしにとっては自分の魂のなかでしかお会いすることのできなくなってしまった方々も、少なからずいらっしいます。けれども、もろもろの些末なことはお忘れください。 (中略) もう逢えなくなってしまった方々も、ここに収められた文章を書いている間はなんだかその方々が身近にいらっしゃるような気がして、もっぱらそのことの悦びのために書き続けてきたのですから。  とある。ここでは、愚生もちょっぴりお会いしたことのいある水原紫苑の章を少し紹介しておきたい。  水原紫苑 (しおん) はいつもわたしを当惑させる。ハラハラさせる。大丈夫かなと、ついつい心配になってしまう。  いきなり連絡が来る。 「今、30年ぶりにパリに来ちゃったのだけど、カルチェラタンに気に入った部屋があるので、買ってみようかなと思って。でも、みんなに反対されてるんですけど。」 「ええっ? どの辺?」 (中略) そうかと思うと、こんなことがあった。 現代詩の大御所がわたしにいきなり電話をかけてきた。怒り狂った声である。なんでも水原紫苑が年長の彼の忠告を聞かず、無礼なことをしてしまったらしい。ああ、またやっちゃったんだな、とわたしは思った。彼女はときどき、まったく無意識のうちに約束を反故 (ほご) に したり、直前になって重大事をキャンセルする常習犯だ。わたしもあるとき腹が立って、2年間ほど口をきかないということがあった。またこの病気が再発したのだ。 (中略)  アンソロジーの作成者としての水原紫苑は傑出していると思う。師であった春日井建のアンソロジーを編む水原紫苑は冴えわたっている。とりわけ彼の晩年の作品のどれを採り、どれを捨てるかといった手つきにおいて、感動を覚えた。  春日井建についてはもう一つ、彼女は「銀河」という短編小説を書いている。  ともあれ、引用された水原紫苑の短歌を以下に挙げておきたい。  虎の母虎を生みたる地のしづか さくらの森が吸ひし夕焼け        紫苑   殺してもしづかに堪ふる石たちの中へ中へと赤蜻蛉 (あかあきつ)  ゆけ    その他の、愚生は、ほとんど...

正岡子規「人の世になりても久し紀元節」(『季語を探索する』より)・・

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 高城修三著『季語を探究する』(京都新聞出版セター)、その「あとがき」には、   日本人には稲作文化に起源をもつ春秋暦、古代大陸文明に起源をもつ太陰太陽暦(旧暦)、さらに近代になって西洋から伝来した太陽暦(新暦)という三つの異なった暦を三段重ねにして季節感を蓄積してきた。そこから文学的な季語も醸成されてきたのである。 とある。そして、「建国記念日」の項には、 (前略)  雪降つてうつくしき夜の建国日(奥田節子)  建国記念の日の前後はしばしば大雪に見舞われる。この俳句も五・七・五では冬だが、「建国日」の一語のよって春の句とされているのである。「建国日」という表現は、「建国記念日」「建国記念の日」だと八音、九音となって、五・七・五という俳句の音数にうなく収まりっきらないので、五音に縮約したものである。 (中略)   建国記念日や終戦記念日は、新暦が国民の皮膚感覚になっていた第二次世界大戦後に制定されたものである。こうした近代になって生まれた季語は新暦に拠って考えた方が合理的だと思うが、流布している歳時記では明治五年に廃止された旧暦にむりやり季節感を合わそうとするものだから、戸惑う人も多かろう。これは五・七・五の一七音のみで自立した表現を目指した近代俳句の宿痾 (しゅくあ) と言ってもよかろう。 (中略)   少 しややこしい話になるが、第二次世界大戦後に小川清彦などの研究によって明らかになったところでは、『日本書紀』においては初代神武天皇から第二〇代安康天皇までは儀鳳暦(唐の李淳風[りじゅんぷう]がつくり六六五年施行〕が使われ、第二一代雄略天皇以降は元嘉暦(宋の何承天[かしょうてん]がつくり四四五年施行〕が使われているという。持統天皇四年(六九〇)以降は、百済(くだら)経由で我が国に伝わっていた元嘉暦と新しく唐より伝来した儀鳳が併用されるようになり、文武天皇元年(六九七)以降は儀鳳暦が単独で用いられた。  こうして見ると、神武天皇が辛酉年(BC六六〇)の「春正月朔」に即位したというのは、儀鳳暦が唐において六六五年に施工され。そい後日本に伝来した時点から千三百年以上も前の出来事だから、即位当時には存在していなっかった儀鳳暦に拠って定められたということになるので、何ら根拠のないものと言わざるを得ない。おそらく養老四年(七二〇)に『日本書紀』が編纂されたと...

岡崎るり子「鯛焼にある糊しろに似たるもの」(『クールベからの波』より)・・

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 木戸博子著『クールベからの波』(石榴社)、帯の惹句に、  本書の精読者は、読むほどに、自分が見知らぬ場所に来ているのに気づくだろう。あなたはどこまで行くのか?         ―小久保 均   偏愛する本、絵、映画、旅を巡る超エッセイ とある。また著者「あとがき」には、   文芸誌『石榴』を発刊してから十年が経つ。『石榴』に書いた書評を中心に、他の雑誌に書いたエッセイや考察をまとめてみた。 (中略)   先日、トスティの歌曲『別れの歌』に「出発すること、それは少し死ぬこと」という一節があることを知った。このニ、三年、大切な人たちとの別れを経験した私も、本書を編むことによってあらたな場所に向って出発したいと願っている。   とあった。ブログタイトルにした「鯛焼にある糊しろに似たるもの」岡崎るり子の句は、本書中の「糊しろに似たるもの―ー香月泰男展『平和への祈り』その生涯とシベリアシリーズ ひろしま美術館」に出てくる句。その他に、「網走監獄博物館雑感」の項では、読み人知らず、無記名の句として『塀の中の歳時記』から受刑者の句として、以下の句が紹介されている。    音だけの花火に郷愁うづを巻く   転落の底から草芽這い伸びる   愛欲しバラのたわみに掌を支う   耐える日は無言枯菊びしと祈る   虫聴き合う共に悲しさには触れず   禁歩行区カンナほろほろ燃えている  著者の木戸博子は昨年、秋山博江の名で句集『全肯定』(私家版)を上梓されている。  木戸博子=秋山博江(あきやま・ひろえ) 1949年、広島県三次市生まれ。 ★閑話休題・・羽村美和子「目交に狐火が棲む帰還兵」(第166回「豈」東京句会)・・  1月25日(土)は、隔月開催の「豈」東京句会(於:ありすいきいきプラザ)だった。以下に一人一句を挙げておこう。    むささびを見た夜は青い眠り薬        羽村美和子   見つめ合っているうち凍鶴になる       杉本青三郎    日脚伸ぶ弖爾乎波はまだ手くらがり       川崎果連    貝塚の重なりを見てより吹雪          仲村初穂    初鏡ふて寝の夫が映り込む          伊藤左知子    寒星やぎっしりと齟齬の煌めき        川名つぎお    去年今年レディミルルの毛繕い         早瀬恵子    海荒れる能...

田村明通「煮凍りや潮の匂ひと夜の色」(第181回「吾亦紅句会」)・・

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1月24日(金)は第181回「吾亦紅句会」(於:立川市高松学習館)だった。句会の後は新年会であった。兼題は「煮凝り」。以下に一人一句を挙げておこう。   祖父の杖夫が持ち行く初大師          佐藤幸子   煮凍りやカンラカラリとうるさき世       牟田英子    縫い始めまず手始めに干支の蛇         武田道代   天地人狂ひしままの初昔            松谷栄喜    感動の盗打随一去年今年           折原ミチ子    枯葉踏むタップリズムでアン・ドウ・ツゥア   笠井節子    春星忌雪の人家に灯り入る           齋木和俊    わだかまりほどけぬままに雪催         渡邉弘子    煮凝や白き目玉のしずみおり          奥村和子   日向ぼこ最後のひとりまで生きて        田村明通    女正月リハビリ中のバースデー         関根幸子   なずな打つ芹は欠かせぬ朝げかな       吉村自然坊    傘寿宴 (さんじゅえん) 煮凝り光る黄水晶    村上さら     仲たがいつづけば崩る薄氷           西村文子    煮凝は鰈の煮つけ寺の膳           三枝美枝子    日常の青さ短かし年惜しむ          佐々木賢二   日暮れると思えば暮れる寒椿          大井恒行 次回、2月28日(金)、兼題は「冴え返る」。 ★閑話休題・・佐藤幸子「野生馬の波うつ腹や秋の海」(図書館俳句ポスト・立川高松図書館・入選・10月選句より)・・           撮影・中西ひろ美「コーヒーの落ちるはやさや冬木の芽」↑

攝津幸彦「幾千代も散るは美し明日は三越」(「俳句界」2025年2月号)・・

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 「俳句界」2025年2月号(文學の森)、特集は「俳句という芸術」。執筆陣は、復本一郎論考「芭蕉俳句の芸術性」、エッセイに筑紫磐井「俳句芸術説ふたつ」、上田日差子「芸術性は創造性」、依田善朗「作者こそ主人公」、千葉晧史「名句・秀句に思う」、恩田侑布子「かさね合う息」、池田瑠奈「五度ずらす」、岩田奎「ポップ」。それぞれ「芸術性を感じる俳句5句」を挙げているが、その5句選でもっとも面白かったのは岩田奎で、挙げられた句は、    なみがしらなみだの楼をなしながら     小津夜景    やさしいね涼しいね生きていたいね     神野紗希    出歩いてハート撃ち抜かん業平忌     高山れおな    太陽にぶん殴られてあつたけえ       北大路翼    はろーわーるど白木蓮なるほど       中矢 温 また、岩田奎の論「ポップ」の結びには、 (前略) 碑が除幕され、自治体の広報紙にうやうやしく載るばかりになることを俳句は注意付深く拒まなければならない。あるいはそのような最も公共的な手続の蓑を借りながら火薬を仕掛けることこそ、芸術のなかでリレーショナルアートとしての俳句がなしうる最も先進的な実践なのかもしれない。  とあった。あるいはまた、筑紫磐井「俳句芸術説ふたつ」の結び近くには、  (前略) 虚子の〈去年今年貫く棒の如きもの〉、こんな俳句が伝統的だというのは噴飯ものだ。難解で、意味不明で、潜在意識の下で作られている。古いと思われていた「花鳥諷詠」を眺めると、その一部には、実は第四のアバンギャルドと言ってもよい面もあるのである。  と言挙げしている。もう一つの特集は「人生の苦難と共に~俳句の力」。執筆陣は、小倉青蛙・伊藤伊那男・村上喜代子・小杉伸一路・園田欣也・佐藤成之・兼久ちわき。境涯を語って涙ぐましい。他に第15回「北斗賞/古田秀」の発表など、読みどころ満載。ともあれ、本誌より、いくつかの句を挙げておこう。    風船を咥へて都市の苦さかな        古田 秀    胎の子は夜行性らし雪起こし        玉眞千歳   初鏡老いの力を眉に寄せ         伊藤伊那男    雪達磨パンデミックのまだつづく     村田喜代子    清明の天を鳥語の彩れり          古澤宏樹   約束を交はすには息白すぎる       藤井あかり    L...

野谷真治「ことだまじいぷひゆとひいらぎ」(『赤ちゃんしぐれ』)・・

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    野谷真治作品集『赤ちゃんしぐれ』(青ひげ書房・1985年2月刊)、昨日の本ブログ「第一回 令和俳人展」つながりで野谷真治。会場で販売されていた作品集『赤ちゃんしぐれ』について、その解説が来空だったので、なつかしく、思わず手にとった。来空氏は、独力で『河東碧梧桐全集』を編纂刊行し続けた短詩人である。かつて、愚生と同じ小金井市に住まわれていたので、何度か呼び出されて、武蔵小金井駅前の喫茶店でお会いしたことがある。その解説の中に、   野谷真治は日大藤沢高校在学中に短詩をはじめた。      人間の暗号が犬のクエスチョンマーク   (中略)  一行詩、それはコトバで書くマンガ。 (中略)     まちすじじれんまたいぷすりっぶ  写植や邦文タイプ(それは整然と、別の意味で混沌とあるコトバたち・・街筋)の中の 一文字を一個人とすると、二つくっつく時にまぐわい(目交・・媾ひ・・間交・・間具合)、三つの時を一子の誕生と。  コトバ、それは社会の仕組みそのものとして、私達の目前に!。私達はジレンマし、タイプ(記録)し、そうしてスリップもする。 (中略)  野谷は、自己の感性に率直で忠実なのだ。そのことで、短詩成立の情念を内包する。発祥のプロセスは時代をつらぬいて等しい関係であろう。  野谷は、誤またず、スタートラインに立っている。ためらうことなく、ひたすら出航せよ!果てなき希望の海へ。                   (来空)  とあった。集名に因む詩行は、    おやすみよたったみ竜馬と赤ちゃんしぐれ       真治  であろう。本集発行(「阿呆丸出帆NO.1」)から、ほぼ40年の歳月を閲している。ともあれ、本集よりいくつかを挙げておこう。    落日や案山子のままで空へゆく   あしがらこがしすだれたつなみ   いろとりどり来いもようしらかばすてっぷ   てのひらうらないてのひらかえす   きさまさかさまわからぬわかさま   秋れたぁ木でふらわあそんぐ   おらあふひとぶこあらけむらな   黒髪大地ななかまどしぶき   はたたびたなびくゆげさと待つり  野谷真治(のや・しんじ) 1961年生まれ。        撮影・芽夢野うのき「ここからは枯れた一本持って冬」↑

安西篤「産土はいつも痣色夕焼雲」(第一回「令和俳人展」より)・・

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                            安西篤「産土はいつも痣色夕焼雲」↑                                      第一回「令和俳人展」(於:ギャラリーGK)、1月20日(月)~25日(土)・12時~19時(最終日16時まで)が開催中である。愚生も参加しているので、お近くまでお越しの際は、お立ち寄り下さい。          市原正直「追いかける鬼にくわるゝ鬼ごっこ」↑ 乾佐伎「シーラカンス東京をうまく泳げない」↑         上野貴子「月にだつて人が花を咲かせるかも」↑                      大井恒行「雪花菜(きらず)なれいささか花を葬(おく)りつつ」↑ 鎌倉佐弓「ぎしと鳴る冬の夕陽に近づくな」↑ 佐佐木あつし「やわ肌や娘ごころの餅ふたつ」↑ 杉浦正勝「寅さんは今日も何処かで草の笛」↑ 髙津葆「この珍味変な生き物黒海鼠」↑ 夏石番矢「劇風や火の車押す鼠千匹」↑ なつはづき「月光やかつては人魚だった泡」↑ 野谷真治「言葉の花束そろえる陽だまり」↑ 蜂谷一人「石室の四神眠らぬ星月夜」↑ 藤田三保子「どこででも揉んでもらえば風薫る」↑ 山本紀夫「買うものを忘れ百年冬銀河」↑ 吉田悦花「嘘つきか優柔不断か返り花」↑ 案内のハガキには「銀座の真ん中で今活躍中の俳人による俳句展」とある。 世話人は、金子兜太の弟子の、現在は「海原」の同人の市原正直、そして、山口県防府市出身の俳号は山頭女(さんとうじょ)こと藤田三保子。嫌がる愚生を引っ張り出していただき、けっこうお世話になりました!! 撮影・中西ひろ美「菜箸が足りぬ年神びんぼう神」↑