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佐山哲郎「グロンサン内服液を屠蘇とする」(『わなん【和南】』)・・

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  佐山哲郎第4句集『わなん【和南】』(西田書店)、帯の表と背には、   コクリコ坂和尚と終活俳句探偵団  快作『じたん【事譚】』から名著『娑婆娑婆』をはさみ23年。  俳人は「旅宿の境界」に生きる。  稀代の俳人、最後の句集  とある。跋文は金井真紀「西念寺で遊ぶ人たち」、その中に、 (前略) 西念寺の句会には、夏と冬に名物がある。  8月19日、つまり「俳句の日」に行われるのが「短冊供養」なる謎の宗教イベントだ。烏鷺坊さんにより解説は以下のとおり。 (中略)   烏鷺坊さんは「短冊供養は当寺に江戸時代から伝わる風習」とかなんとか言っているけど、真相はわからない。  儀式は夕刻に始まる。本堂の阿弥陀如来像の前に短冊が積み上げられ、袈裟を身にまとっ烏鷺坊さんがまじめくさってお経をあげる。いつも騒々しい俳人たちも、このときばかりは神妙な顔つきで整列し、順番にお焼香をする。わたしもいそいそと前に進み出て、名目合掌。 (中略)  ずいぶん前に中嶋いづるさんが亡くなっったとき、俳句ともだちで寄せ書きをした。寄せ書きの帳面がまわってきて、なにを書こうか迷って、前のほうのページをめくってみた。長谷川裕さんが、あのおおらかでやさしい字で、  「楽しかったよ。また遊ぼうね」  と書いていて、それが強く印象に残っている。  存分に遊んで、別れ際には「楽しかったよ。また遊ぼうね」と言う。生きるってそういうことだよな、としみじみ思う。  とあった。思えば、中嶋いづるは現俳協の青年部の創設メンバーの一人だった。愚生もまた、「楽しかったよ」と言おう、と改めて思った(でも、早すぎたよ・・)。  また、著者「あとがき」には、   第三句集『娑婆娑婆』から十三年。いろいろなことがあった。大事な先輩、友人、後輩までもが次々と往詣楽邦、すなわちお浄土へと旅立った。  当人の私は、というと、重度の心筋梗塞で救急搬送され九死に一生を得たものの、そのリハビリ中に癌が発見され、既に肺と肝臓に転移があるという。  ふうん、人生最末尾、一気にいろいろ来るもんだなあ。というわけで殊勝にも終活を考えてみることにした。が、何から手をつければいいか見当がつかない。とりあえず横道へ逸れて、作りぱなっしで取り散らかったまんまの俳句でもせいりするか、という、いつもの仕儀ににあいなった。  とあった。ともあれ、愚生好みに...

放哉「一日物云はず蝶の影さす」(河本緑石『改訂復刻版 大空放哉傳』より)・・

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  河本緑石『改訂復刻版 大空放哉傳/荻原井泉水序並閲付/香風閣版(昭和十年四月七日発行』(河本緑石研究会)。巻末の「『ふらここ叢書 河本緑石作品集5』発行にあたって」には、   河本緑石生誕百十年を機会に、「河本緑石研究会」が発足しました。研究会では緑石の作品を多くの人たちに観賞していただけるように、また緑石の研究がすすんでいくことを願って、作品集を順次発行しています。 (中略)   この度の復刻に当たり資料としての意味も含めて付録として掲載しました。併せて、緑石がこの放哉論を書くに当たって小豆島を訪れた折のことを書いた紀行文も掲載しています。並行してお読みいただければと思います。 とあり、本書の奥付けにには、  1 300円/2011年(平成23年)3月31日発行  編集者 押本昌幸/波田野頌二郎  発行者 河本緑石研究会 682-0836 鳥取県倉吉市長坂新町1162 波田野方 とある。本書の序は、荻原井泉水。その中に、   彼は須磨寺にいた。最後は讃岐小豆島土庄町南郷庵の堂守として住んだ。そこで病気になり、    咳をしてもひとり  一人で咳をして一人で死んだ。彼の俳名は放哉。本名は尾崎秀雄。鳥取市の人。明治四十一年度の東京帝国大学法科出身である。  とあった。また、「後記」には、   さて、此書を読み了えた諸君に、即ち放哉に就て、著者、河本緑石の話を聴かれたであろう諸君に対して、私は改めて、緑石に就て語らなくてはならない。緑石も亦、今は亡き人だからである。 (中略)  かれ (・・) は放哉をして其純情と童心とを語っているが、緑石自身がまた稀にみる純情と童心との人であった。 (中略)  昼ちかくの頃、沖で水泳中の教官が危険信号をしているのをいち早く見てとった緑石は、人々が舟を出そうとするのを待たずに、水泳にはかなり自信があった為でもあろうが、単身、抜き手をきって其救助に赴いた。その途中、心臓麻痺をもってかれ (・・) は斃れたのだと云う。かれ (・・) の不時の死ということは、如何にも悲しいことではあるが、義と勇とに依て命をおとしたということは如何にもかれ (・・) らしい最期であったとも云えよう。 (中略) 墓碑には—「緑石院大嶽義行居士」とあった。緑石 (○○) は彼の号、大嶽 (○○) とは大山に因んだもので、大山は鳥取の名山であり、彼が私と同行する...

加藤治郎「すきとおるオニオンスライス酢にひたす兵役のない国に生まれて」(「長周新聞」第9212号・2025年1月6日)・・

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 「長周新聞」第9212号・2025年1月6日(月)(長周新聞社)、4面に加藤治郎(未来短歌会)は「短歌で時代とどう向き合うか」との題で以下のように記している。   二〇二四年にノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が受賞した。うれしいことである。核兵器廃絶という世界の意思がはっきり表明されたのである。「核兵器は人間と共存できない」(日本被団協)という理念があらためて光る。  世界の意思に現実は追いつくか。まだ長く困難な道のりがあるだろう。如何に国家が動くかが問題である。 (中略)   私はどうなんだ。戦争を知らない子供たち」(北山修作詞)は、大人になり高齢者となった。兵役がない。殆どの人は拳銃で実弾を発射した経験がない。こんな平和な国の外濠は既に埋められている。いつ戦争の当事者になるかわからない。それでもぎりぎり持ちこたえている現在である。  ヘリコプター二機着陸すどちらかに大統領は乗っていない、着 オバマ大統領は、広島の前にアメリカ軍岩国基地を訪問した。極東の平和のために任務を遂行する兵士たちを激励したのだ。アメリカの兵士は何を思っているのだろう。何を支えに異国の地にいるのだろう、大統領の訪問を心から歓迎したにちがいない。アメリカこそが心の拠り所なのだろう。兵役のない私が平然と見ることはできないはずだ。ヘリコプター二機が広島に着陸した。 (中略)   オバマ大統領に謝罪の言葉はなかった。一個人の問題では済まない。アメリカの歴史と国家を否定することに繋がるからだ。被爆者と抱き合うオバマ大統領の姿が強く印象に残った。シンパシーを感じた。あれはポーズではなかった。人間としての心があった。誠意を感じた。それで十分ではないか。いや、やはり足りない。歴史家の検証ではない。アメリカ国民が原爆投下を検証する。国民の総意に基づき国家として謝罪する日を待ち望む。(中略)   アトミックボム、ごめんなさいとアメリカの少年が言うほほえみながら  金髪の少年は純真無垢である。歴史への自覚が芽生えたとき少年は素直に原爆投下を謝る。何年先か先のことを思い描いてみた。いや、この声はまだ私たちに届いていないだけかもしれまい。きっと今この少年はいる。 とあった。同時掲載のほかの短歌を二首のみになるがあげておこう。  マッシュルームクラウドと言え溶けだした叫びの量 (かさ)...

辰巳泰子「鳥どちは蒼天を摩り蒼天は容れてかなしむ ちぎれんばかり」(「月鞠」第21号)・・

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 「月鞠(げっきゅう)」第21号(編集発行人・辰巳泰子)、その「編集後記」に、   皆さんにお知らせ。月鞠の会は、この21号にて、結社としては解散し、小誌は創刊時と同様、個人誌のていに帰して継続。 (中略)  この変化は、私個人の事由によります。2023年の半ば頃からバセドウを病みました。現在は回復し、長年口に糊した編集校正の業務に復帰していますが、個人のペースを死守しつつ、すべきことに集中したいと思うようになりました。   そんななか、古典研究を、短大時代の恩師、出雲路修先生に師事します。 (中略)   この「『定家十体』考」からご助言を頂戴しております。研究は、すでに次の著作物のための準備を始めており、その調査や、考えの途中経過を「鬼さんノート」、「鬼さん考」として公式ブログ上に示しています。  誰もが、はかないこの世を生きている。そのなかで、はかないなりに、何らかの痕を、生きたしるしを、残そうとする者がある。十年ひと昔前の小誌、旧号の編集後記に、私の歌は墓標のようなものだと書きました。しかし今、研究にまことの師を得て、自分の墓標ではなく誰かの、道しるべとなるような歌を詠みたいと、強く思うようになりました。  2024年、晩秋。髙瀨一誌さんと母の月命日の日に、これを記します。                                    辰巳泰子  とあった。本誌の他の目次を示しておくと、辰巳泰子/歌論「『定家十体』考」、百首歌「アイアン・ボトム・サウンド」、俳句小論「松木靖夫さん。そして境涯詠のことなど」。石川実(サンタ)現代説話集「ディアブロ/帰還兵」。  ともあれ、以下に、本集より、辰巳泰子の歌を、いくつか挙げておきたい。  ウオトカの安きを提げて醸すなり不遇のおんなのごとき果実を      泰子   干さるるというにあらねど非正規の雇用の谷を閑居している  音階や色彩JIS そのどれでもなく 想いにあえぬ私でありぬ  やんばるくいな よあけのばんにでて轢かれ 視えざる者ら踏む交差点  さいころを振れば真赤き目はひとつ 炉の火といえば鬼めくごとし  そのかみは飛び移る火でありしもの 生命維持の電気をおもう  無修正版グリム童話のなかに棲むまひる人妻とまぐわう牧師  兵馬俑あざやけく絵付けせし人も囚われびとか ブルーノ・シュルツ  鬼しこの草...

-城貴代美「落葉狂いつつあり夜更けくるうのか」(『逢魔日記』より)・・

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  城貴代美・飛鳥けい子句集『逢魔日記』(制作 文藝春秋・企画出版部)、序は、高城修三「『逢魔日記』に寄す」には、   何とも大胆な試みである。向陽俳句会の二人の美女が「ジョイント句集」と銘打っての句集であるが、片や師匠、片やその弟子という。城貴代美さんは三十余年の俳句歴を持ち、若くして『曼荼羅撩乱』を世に問うて少なからぬ注目もあつめた人である。一方、飛鳥井けい子さんは向陽俳句会に参加して句作を始めたというから、俳句歴も三年ばかりである。その二人が一つの句集をつくるというのも驚きだが、城さんは祇園の花街で浮き名を流した妖艶なる和装の美女であり、飛鳥井さんはモンペ姿で向日市議会に通いつづけて勇名をはせた恐れを死なぬ快活な美女である。祇園の女と市民運動をリードする女性議員、この異色の二人が自らになくてはならぬ表現形式として俳句を選び、それを『逢魔日記』と題して一つにまとめようというのだから、尋常なこといではない。 (中略)   正岡子規が「発句は文学なり、連俳は文学に非ず」と断案して以来、近代俳句百年の歩みは、五七五の十七文字で自立した表現世界を創出しようとする試みに他ならなかった。発句が俳句としてじりつするたには付句のもつ表現の可能性を切り捨てなければならなかった。その一つに恋があった。恋が詠みづらくなった俳句の世界に、城さんの句は時に露骨な性表現を見せながら、特異なエロチスムを匂い立たせる。    男の首抱え揺さぶる冬の竹    逢いたくて二月の廊下踏み鳴らす    猟犬に女盛りを嗅がれおり  飛鳥井さんの恋の句は率直でさっぱりした表現が新鮮である。    春の闇君は女と言い放つ    きらいです消える命の石鹸玉    天罰も何するものぞ夏薊  こうした恋の句のはざまに、ふと浮かんでくる逢魔の時がある。  とある。また城貴代美「水のささやき(あとがき)に代えて)」には、   水のある風景が好きだ。水をみつめていると、過去も未来も、大きなかたまりになって私にせまってくる。両腕で支えきれない過去が、ぽろぽろとこぼれ落ちるのを、両手で水をすくうように拾ってゆく。私にとって俳句とは、水をすくう手のひらのようなもの。手のひらは、俳句のせかいとなって未来の夢もいっぱい溢れている。できれば千手観音さまのような、たくさんの手が欲しい。 (中略)  彼が会長、私が顧問として向陽俳句会...

綾部仁喜「息欲しく声欲しき日や竜の玉」(『綾部仁喜全句集』)・・

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 藤本美和子編著『綾部仁喜全句集』(ふらんす堂)。その帯には、    寒木となりきるひかり枝にあり  石田波郷を師系とし、波郷の唱えた韻文精神を生涯かけてつらぬいた綾部仁喜の全句集。 「や、かな、けり」の切れ字への信頼はゆるぎないまのがあり、饒舌を排し、もの言わぬ俳句をめざしつつ、作品は深い余情を宿す。補遺として句集未収録の「鶴」投句時代の作品を収録。  既刊四句集に「俳句日記」「『沈黙』以後「補遺」『鶴』投句時代」を加え、2443句のほか、解題、年譜、初句索引、季語索引を収録。  とある。 また、藤本美和子「あとがき」の中には、  (前略) 平成二年、石田勝彦から第三代「泉」主宰を継承後は「俳句以外のなにものでもない俳句」「純粋俳句」を私共に説き続け。実践に務める歳月でもありました。なかでも第二句集『樸簡』の「あとがき」に記した「俳句は造花の語る即刻の説話と考へてゐる。俳人はその再話者である」は綾部の俳句観を示す言葉として知られています。  しかしながら、平成十六年三月末、七十五歳の折、肺気腫による気管切開のため声を失いました。筆談に頼る日々でしたが、   綿虫や病むを師系として病めり     仁喜  と自身の境涯もまた「師系として」受け入れ、十年ぶりにおよぶ入院生活を送ったのであした。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、ここでは、句集『沈黙』刊行以後の句と「補遺・『鶴』投句時代」から、いくつかの句を挙げておきたい。因みに、本日、1月10日は、綾部仁喜が、2015(平成27)年に没した日である。享年85だった。   北空を鳥翔けあがる大暑かな         仁喜    一日の桜の窓を閉めにけり   うすうすといのちの汚れ木の実にも   声失せて言葉かがやく白露かな   桜濃し死は一人づつ一夜づつ   波郷忌のなほ病みたらぬ弟子一人      失神   意識ややもどりて来たるほととぎす   名月を懐に入れ戻るなり   わが病みてむささびを見ず鬼女を見ず   妻恋ふは即ち謝する柿紅葉   百日紅働く水を蓋で飲む      わが家を含めて近隣の土地強制収用ときまる、     反対闘争も空しく潰ゆ    吏の前や一語にも汗したたらせ   ふたたび見ず万国旗上の秋燕   葬さむし汝やストマイ初期患者   片蔭もなき母の墓買ひにけり   木瓜に出て祭のごと...

田丸千種「落ちさうに咲き咲くやうに落椿」(『弄花』)・・

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 田丸千種第二句集『弄花』(朔出版)、著者「あとがき」には、  第一句集『ブルーノート』以来、はや八年が経過した。その間の二〇一六年から二〇二二年六月までの句をまとめた。 (中略)   句集名は、わが家に時々掛ける軸「弄花香衣」からとった。これは私の結婚祝に禅寺の住職が揮毫し贈って下さったもの。祖父の代から随分親しくお世話になった方で、本書冒頭の登場人物でもある。  軸の言葉は、唐の「春山夜月」という詩の一節から来ている。   掬水月在手 水を掬すれば月手にあり   弄花香満衣 花を弄べば香衣に満つ  深い意味があるかもしれないが、私はこの文字通りに季節の中で軽やかに俳句と遊びたい、とその境地を勝手に解釈している。  とあった。 ともあれ、集中より、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておこう。    風薫る滝頭より人の声          千種    水ほどに形代流れゆかざりし   生き死にのなき吹かれやう蛇の衣    汚れざる絵皿も露の世の遺品   山深きここも右京や竹の春   寝かせれば寝釈迦ともなり石の秋    七回忌七たび秋を深うせり   AIに雑味足らざり桃青忌   一本は杞陽の植ゑし冬椿   雪女郎雪男には振り向かず   平凡な水に戻りしうすごほり   かき餅がなくなるまでは春小鉢   病まれしも逝きたまひしも花の頃   活版の戀と印字や紙の春   初蝶もこぼるる花もけふ虚子忌   見覚えの赤を帰天の花衣   明王の古りし憤怒の日永かな    田丸千種(たまる・ちぐさ) 1954年、京都府生まれ。 ★閑話休題・・中尾淑子「争わず順待つ子らの細き腕」(立川市シルバー大学「俳句講座」第5回)・・  昨日、1月8日(水)は、立川市シルバー大学「俳句講座」第5回(於:立川市曙福祉会館だった。兼題は「眼・目」と「争」で計2句持参。以下に一人一句を挙げておこう。    己の年の厄を払うや不動の眼        堀江ひで子    夢舞台シード争い駆ける友          島田栄子   戦地の子涙の果ての虚ろな目        赤羽富久子    目を凝らす木々は新芽を抱えいて      白鳥美智子     母譲りやっと身につく目分量        小川由美子    大年の天声人語争三つ            林 良子    初レースバンクに風と掛声と    ...

阿部完市「ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん」(『俳句以後の世界』より)・・

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 宇井十間著『俳句以後の世界』(ふらんす堂)、その「フォルムと語り―ー序にかえて」の中に、   「俳句」とは偶発的何かでしかないが、同時に一つのフォルムであるだろう。本書はこの偶発性とフォルムをめぐる種々の考察である。長いようでしかし短い定型詩の歴史の中で、フォルムと歴史的実在は、いつも合わせ鏡のように表裏をなしている。フォルムとは、一方で「俳句は俳句である」という自同律の主張であり、他方でしかしその俳句そのものの偶発性を反映する何かである。 (中略)   俳句とは一面で一つのフォルムであるが、同時に一つの出来事であり、多くの作り手はその事を忘れている。換言すれば、それは制度であると同時に生活である。兜太において韻律の一様性と多様性は、この両面を映す鏡である。 (中略)   端的に言えば、本書はフォルムという可能性と不可能とその究極的な不可能性についての著作である。俳句という偶発的な何かは、確かに一面で明確なフォルムであり、リゴラスな形式であるものの、その内実は、語りの不安定さや多様さとともに歴史の中で必然的に動揺していくはずである。それ故、兜太が当時微弱かに予感していた未来は、すでに我々にとって思いの外確かな実体を持っているのである。  とある。本書は、大きく「Ⅰ 俳句と俳句以後」、「Ⅱ 多言語化する俳句」の二章から成っている。ここでは到底紹介しきれないので、興味ある方は、直接、本書に当たられたい。ともあれ「 歌謡と戯れ―ー阿部完市論 」の部分を以下に挙げておきたい。  (前略) つまり、阿部完市は、その論と作品の両面において、概念化され、馴化された意味性としての現在を一度解体して,そこにひとつの生成を発見し、それを俳句の言葉の上に表現しようとして格闘しているという事である。俳句形式においてそのような実験を試みた事が、阿部完市の理論的な面での新しさであり、また当時の事情を鑑みればそれはひとつの発明、発見でさえあった。もっというならば、その類いまれな韻律感覚なしには、阿部完市作品といえども、単なる(・・・)「前衛」、単なる (・・・) 「難解俳句」4にすぎなくなってしまうのである。 (中略)  阿部完市は、むろん(さまざまな理由で)暗喩という方法をあまり信用していないだろうが、それでもシュルレアリズムが暗喩においてめざしていたものを、もっと別の方法で探求して...

村上千秋「一茶忌やかなしき句をばひろひ読む(40年11月)」(『猫を棄てる』より)・・

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 村上春樹著・高妍 絵『猫を捨てる/父親について語るとき』( 文春文庫)、初出は「文藝春秋」2019年6月号とあり、中身を読んで愚生は、当時、発売されたばかりの雑誌で読んだことを思いだした。それは村上春樹やその父の物語に興味があった、というよりは、村上春樹の父が生れた京都粟田口の「安養寺」のことが書かれていたからだ。 愚生は、京都に18歳から21歳の3年間を京都で過ごした。その折に、今は亡き、俳人・さとう野火(「立命俳句」の創設者)と、その夫人・城貴代美に連れられて、その寺にゆき村上四明の句会に参加した。どんな句を出したかは記憶にない。ただ寺の縁側から眺めた山の景色をなんとなく覚えている程度だ。後に知ったのだが、その句会は、さとう野火の師事した山口草堂の「南風」の句会だったようだ。城貴代美は鷲谷菜七子のファンだった。思えば、愚生は、さとう野火に出会わなければ、俳句を続けていたかどうかは分からない。その縁かどうかは不明だが、「京鹿子」傘下の句会にも行ったことがある。  愚生は18歳で故郷山口を出てからは、ほとんど帰郷せず、年末年始には野火さん宅でご飯を食べさせていただいたり、ある時は風呂を使わせてもらったこともある。随分と世話になったのだ。家のあった場所は、鴨川から二筋くらい入った路地だったが(何度行っても道に迷った)、目の前の家が保守派の論客で、著名だった京大教授の会田雄次邸だった。                  絵・高妍↑  本書『猫を棄てる』で村上春樹は、以下のように記している。 (前略) 父は京都市左京区粟田口にある「安養寺 (あんようじ) 」という浄土宗のお寺の次男として、大正6年(1917年)12月1日に生を受けた。おそらくは不運としかいいようのない世代だ。物心ついたときには、束の間の平和な時代、大正デモクラシーは既に終わりを告げ、昭和のどんよりと暗い経済不況へ、そして、やがて始まる泥沼の対中戦争、悲劇的な第二次世界大戦へと巻き込まれていく、そして戦後の巨大な混乱と貧困を、懸命に必死に生き延びていかなくてはならなかった。 (中略)   安養寺は檀家を四、五百軒は持つ、京都としてはかなり大きなお寺だから、なかなかの出世と言ってかまわないだろう。  高濱虚子がこの寺を訪れたときに詠んだ句に  「山門のぺんぺん草や安養寺」  というのである。(中略)   父...

宮崎二健「鳥がいない鳥居を仰ぐ」(第31回「独演!俳句ライブ31」)・・

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 「R7新春《独演!俳句ライブ31》」(於:JazzBar サムライ)、主催は宮崎二健(みやざき・じけん)の「俳句志もののふの会・第117回俳句活動/Haila sinece 1998.3.1」とあるから、愚生は、ほぼ四半世紀ぶりにお邪魔したことになる。当時、二健は天狗の面つけて朗読していた。会場は満員で50人くらいは入っていたが、一昨夜はさすがに、その熱気(血気)は無かったものの、十分にゆったり味わえた。「豈」同人だった宮崎二健のジャズバー・サムライには、生前の攝津幸彦もよく来ていた(「豈」の句会もここでやっていた時期がある。招き猫の収集の店でもある)。以下に、写真と出演者の句を挙げておこう(メモができた方のみで・・)。 辻村麻乃↑ 木村哲也↑ 笠原マヒト↑ 神山てんがい↑ 宮崎二健↑     からくりの念仏じょんがら秋の雨       宮崎二健    暖簾まで油であげたか串カツ屋       笠原マヒト    酔うか写真展展示違うよ  (回文句)    木村哲也    雲もなく最後のしとね跨線橋       神山てんがい    ~消 えゆく三鷹跨線橋を惜しんで~『端と眠る』 (於:Morc 阿佐ヶ谷・ 1月24日〈金〉~1月30日・〈木〉:全日19時半~ )/監督・脚本 神山てんがい)↑     狐火のひとつは手のなる方へと       辻村麻乃     恩師逝く御国で踊れ春の国  Kulala+佐野友美    ららら恋の唄踏んだら折れたわ霜柱      ギネマ   撮影・鈴木純一「捨てられて踏まれ真っ直ぐなお温し」↑

桝村節子「初春や余生力まず暮らさうか」(『追憶』)・・

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  桝村節子句集『追憶』(蛎殻出版)、序は山﨑十生、その中に、     桝村節子さんが「紫」に参加されたのは、平成二十年からである。それ以前には、東松山市の「七耀」で活躍されていた。「七耀」は永井由清氏が主宰していた俳句雑誌で、我が師関口比良男とも懇意にしていた。私自身も埼玉県現代俳句協会を通じてご厚誼頂いていた。その「七耀」からは、小林克治氏が県内だけではなく、広く若い俳人に呼びかけて「炎」という同人誌を出していた。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで俳壇に登場した青年俳人であった。私も初学時代に「炎」に加わった。その小林克治氏と東松山市の「土曜句会」で五十年ぶりの再会の機会を得たこともあり、東松山市には遠からぬ縁がある。 (中略)   第三章からの作品で、特に心が魅かれたのは    昭和史の中の自分史月今宵    考えても考えなくても桜散る    沈黙の力を秘めし冬木立  な等である。節子さんに依頼されて、平成二十年から令和六年までの作品を「紫」誌から抄出している中で思ったことは、やはり、節子さんの人生を強く感じたことである。節子さん自身の人生が照射されていると言っても過言ではない。しかし、それは節子さんにとって「追憶」に収斂されてしまうのかも知れないが。  とあり、著者「あとがき」には、   学生の頃は、短歌を少し作っておりました。埼玉県松山市に転居し「七耀」という俳句会に誘われ入会しました。しかし、十年で解散になり、その後、「紫」の友人の紹介で山﨑十生先生の句集を読ませて頂き、すばらしい作品の数々に魅了され、すぐに「紫」に入会させて頂きました。二〇一〇年のことです。二〇一四年に同人となり現在に至っております。 とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておこう。    白牡丹見つめてゐると消えさうに         節子    自由なはずなのに不自由なさるすべり   銀河とは数えきれない便りかな   台風来三日逢はねば三日老ゆ   己にも人にも飽きず年明ける   生くるとはジグソーパズル返り花   気の合ふも合はぬもかつて心太   明日ありと咲き明日なしと咲く牡丹   古井戸の底まで青葉映しをり   心置くように影置く初冬の蝶   人生の残り大切冬薔薇   桝村節子(ますむら・せつこ) 1932(昭和7)年、広島県呉市生まれ。  ★閑話休題・・...

石飛公也「無、皆無、八月六日、茸雲」(「俳句人」1月号より)・・

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 「俳句人」1月号・第765号(新俳句人連盟)、「2024 年鑑」であり、特集に「 祝 ノーベル平和賞/共に核兵器のない世界に向って 」が組まれている。執筆陣は、和田征子(日本原水爆被害者団体協議会・事務局次長)「被団協設立から68年」」、家島昌志(東友会代表理事)「ノーベル平和賞を受賞して」、田中陽「絶望と希望ー諦めるな(ネバー・ギブ・アップ)ー」、秋尾敏「文学の仕事ー核兵器のない世界にむかってー」、衣川次郎「未来への光明」、石川貞夫「日本原水爆被害者団体協議会に/ノーベル平和賞の感動ー東京での活動にも触れてー」、石寒太「さあ、これから」、大井恒行「石飛公也(東友会・理事)氏からの俳句」、小林貴子「〈共に核兵器のない世界へむかって〉」、渡辺誠一郎「核廃絶は容易ではないが、声を発すことから」、飯田史朗「未来の子ども達に核のない地球を」、早乙女文子「祝 ノーベル平和賞」、田中千恵子「壁の中の少年は いま」など。招待席の作家は秋尾敏「音がよい」5句。その中に、    冬ざれのものさし少し縮んだか        秋尾 敏    冬の月昔の鉄は音がよい  があった。ここでは、愚生の寄稿した稿について、石飛公也氏に関する部分を紹介しておきたい。 (前略) 東友会(東京都原爆被害者協議会)の理事・石飛公也氏は、愚生も参加させていただいていた「遊句会」の大先輩であります。氏は朝鮮半島から引き揚げ、原爆投下直後に市内に入り被曝しました。この度『俳句人』からの原稿依頼をいただいた時、私は氏に、是非とも、ノーベル平和賞受賞後の感想を聞きたいと思い、併せて、俳句を作って下さいとお願いしました。公開を含めて、氏は快く引き受けて下さいました。以下にその便りを紹介させていただきます。  私、石飛公也は、四歳九ヶ月の時、広島で被爆しました。  市内に入ったのは、二日後の八月八日でした。市街地は一面焼け野原で、多数の死体が焼かれていました、毎年八月になるとあの光景と臭いを思い出します。  二〇二四年十月十一日(金)日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞しました。被団協の構成団体である、都内の被爆者で作る、「東友会」の一員である私としては、非常に晴れがましい思いです。核兵器の恐ろしさが改めて注目され、世界から核が無くなる契機になればと切に願うものです。   無、皆無、八月六日 茸雲...

神野紗希「ひかりからかたちへもどる独楽ひとつ」(『アマネクハイク』より)・・

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  神野紗希著『アマネクハイク』(春陽堂書店)、その「はじめに」の結びに、  (前略) あまねく、俳句。この世界に俳句ならざるものはない。アイスティーのグラスの水滴も、残業の帰りに見上げる月も、遠い砂漠に目をつむるラクダも、はるか宇宙の星の砂粒もひとかけらも、目の前のベランダで夏空に揺れている息子と私の靴下も、すべては移り過ぎいつか消え去る。だからこそ、どんなささやかな出来事だとしても、すべての瞬間、すべてのものが、あまねく尊いのだ。俳句はその「あまねく尊い光」を歓ぶ詩である。  とあった。エッセイ「ミんナノ、ネガイ」の中から、 (前略) 戦禍の爆撃とは比ぶべくもないが、私もここ数年、厳しい外圧に晒(さら)され続け人生を悲観した苦しみの中で、俳句だけは手放すまいと決めていた。言葉は、私の心おsのものだったからだ。他の何を奪おうとも、私の心は、絶対に、渡さない。瓦礫に染みあたってゆく彼女の旋律には、怒りとともに強靭な意志が輝いていた。   奪いえぬものに心やアネモネ抱く           紗希  キッチンの窓辺に飾ったままの七夕竹。息子の書いた短冊が秋風に揺れている。「ミんナノ、ネがイガ、かナイマスヨウニ」。カタカナを習ったばかりで表記がちぐはぐだが、それゆえに祝詞(のりと)のように、言葉そのものの意味が純粋に透きとおって光る。どうか彼女が安心してくらせる部屋でまたピアノが弾けますよいうに。どうか子どもたちが爆撃に怯(おび)えることなく優しい夢を見られますように。どうか。どうか。ミんナノ、ネがイガ、かナイマスヨウニ。  ともあった。ともあれ、本書中から、神野紗希の句のみになるが挙げておきたい。    細胞の全部が私さくら咲く               紗希    つわり悪阻 (つわり) つわり山椒魚どろり   切株に詩を書く初雪は光   鯛焼を割って私は君の母   窓眩し土を知らざるヒヤシンス      神野紗希(こうの・さき) 1983年、愛媛県松山市生まれ。 ★閑話休題・・筑紫磐井「来たことも見たこともなき宇都宮」(「現代俳人・近代文人色紙即売展(軸装も)」於:OKIギャラリー))2025年1月6日(月)~1月24日(金)午後1~5時(月・火・木・金曜日開催)・・ 沖積舎&OKIギャラリーが半世紀にわたり収集した作品群!! 宇多喜代子・池田澄子・安西篤...

夏石番矢「空飛ぶ法王何度も何度も砂を嚙む」(『俳句は地球を駆けめぐる』より)・・

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  夏石番矢著『俳句は地球を駆けめぐる』(紅書房)、帯には、先ず背に「 世界俳句の騎手による国境を越えた熱い句の交感 」あり、表1帯には、  今や地球上で共通の詩型である「俳句 (HAIKU) 」、  各国の人々が母国語の粋を駆使して詠いあげる〈世界俳句〉の実例の数々。  世界の作家たちとの感性の交流にも心おどる、待望の書。  世界俳句のさらなる可能性を追い求め、番矢 (バンヤ) の空行く旅は終らない。  とある。本書は3章 「Ⅰ講演 二〇〇四~二〇二一/地球を駆けめぐる俳句」、「Ⅱ 評論・エッセイ 二〇〇四~二〇二三/言語・国境・ジャンルを超える視座」、「Ⅲ エッセイ 二〇一六~二〇一七/世界俳句紀行・十五か国の俳句事情」 からなる。このブログでは、到底、多くを触れることが出来ないので、是非、直接本書にあたられたい。冒頭の「世界俳句のために」には、 「 世界俳句」ということばは、平和であると同時に痛ましい。「世界俳句」は、「世界平和」を思い出させるから、平和であり、もう一方で、「世界大戦」を思いだ出せるから、痛ましい。「世界」と「俳句」のあいだには、普通ではない関係があると言わねばならない。 (中略)    空飛ぶ法王 戦火は跳ねる蚤か    空飛ぶ法王何度も何度も砂を嚙む 「空飛ぶ法王4」(「吟遊」第一八号、日本、二〇〇三年)  ある日、私の夢で「空飛ぶ法王」ということばを、私自身がつぶやいた。それから「空飛ぶ法王」がなにを意味するのかわからずに、「空飛ぶ法王」俳句創作を始めた。「空飛ぶ法王」のイメージは、かなり明瞭だが、キリスト教を茶化したものでしかないかもしれない。  この俳句連作を続けているうちに、とうとう次のことが理解できるようになった。 「空飛ぶ法王」という移動する視点から、地球上に起きうるすべての出来事が観察できる。限定されていない、移動する、想像上の視点を、今世紀、私たちは獲得した。  それゆえに、世界俳句は前途有望である。もしも、それぞれの国の俳人が、私たちの新世紀にふさわしい、真に詩的な方法を、見つけるのならば。   そして、「あとがき」の中には、  俳句は世界共通の短詩となり、いかなる言語でも可能で、詩のエッセンスであるとの確信はますますかたまりつつある。二十代から、新しい俳句の作り方の開拓に句集ごとに挑戦して、それなりの成果を上げたと自負し...