妹尾健「枯芝に立ってひとりの合唱曲」(『旦暮集』)・・


  妹尾健第3句集『旦暮集/妹尾健 近詠句集』(私家版)、跋文ともいうべき懇切な「妹尾健句集『旦暮集』評―—寒林の哲学者」の中には、


(前略)蓬摘み忘れましょうと母の声

 話し言葉を俳句形式で表現しようと思えば、歴史的仮名遣いでは困難を極める。生半可な技術では無理だ。いや、健がその力を持ち合わせていないということではなく、一般論である。この忘れましょう、という口調は、彼にとって天啓だったのではないか。それを素直に受けとめるためには、この表記しかなかったに相違ない。(中略)

   今もなお鉄槌下す重信忌  

   一日を送る縁や立子の忌

 これらの作品に内在する秘密。それはとりもなおさず、情報の共有化ということになる。作者読者の間にある乖離は、この場合、妹尾健が歩み寄る必要があるだろう。実は、僕は彼が秘匿している多くの作品を識っている。たぶんこれが、もやもやとしている想いを解放させる存在なのではないかと考えている。この句集では、ないものねだりということだ。次の句集に期待しよう。


 とある。そして、扉には、献辞と献句が添えられている。


   あまりにも年若く逝かれた中川浩文先生の霊に捧ぐ

   温顔の先師を見たる夏の夢             妹尾 健


 また、著者「あとがき」には、


 昭和二四年九月日野草城は第六句集『旦暮』を刊行した。その句集の扉には有名な「俳句は諸人旦暮(もろびとあけくれ)の詩で ある」の言葉が記されている。本句集の「旦暮」はそこから来ている。(中略)

 学生の頃、私は中川浩文先生に「生生はなぜ戦後も日野草城先生のところへ行かれたのですか。」と質問したことがある。先生は微笑されながら「句会に行きましてね。まあ君の句はなんでいいのか分らんが、もらっときまさすといわれまして、あたってるなと思いました。」と答えられた。そんなものかなと当時は思ったものだが、今になってみると、この言葉はたいへん深い意味をもっている。君の句をもらっときますといわれたとき、中川先生はやはり救われたのだと私は思う。こういう言い方は適切ではないだろうが、やはり救われたのである。俳句を合評するときなど、作品の巧拙について執拗に批評批判する人がさると、私は中川先生の言葉を思い出す。「君のはなんでいいのか分らんが、もらっときます。」というのは何かそういわれるとほっとするのである(中略)

 いまの私はさきの二冊の句集を大切にしたいと考えている。しかしもし起承転結の形式があるとすれば、本句集はその転の部分にあたる。残念なことにこの転の部分を私は完全に見出していない。来たるべき第四の句集は、本句集をステップにして本格的に企てられるべきだと私は考えている。そしてもし生命が与えられたのなら、第五の句集を結としてまとめてみたいのである。本句集の弱点を私はよく承知しているつもりである。言い訳を並べ立てるのは見苦しいことを敢えて言えば、私は私の弱点をやはり生かしてこれからも俳句とともに生きていきたいと考えている。


 とあった。愚生には中川浩文には、ただの一度だが、じつに有難い記憶がある。愚生が京都在住の折り、場所も何も忘れてしまったが、関西学生俳句連盟の句会が百人近くの出席で開催され、愚生の句を誰も採らなかった。が、最後の一句の特選に、選者の中川浩文が採ってくれたのだ。その愚生の句は、「地底棲む流浪の眼玉蟹歩む」だった。代えがたい励みとなった。特選賞として色紙をいただいた記憶がある。やはり、ホッとしたのだった。ともあれ、以下に、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。


  京に入る東寺の塔に薄霞           健

  待春やもったいつけて「参照性」

  春泥に足をとられて遠会釈

  絹ごしの豆腐を買って泥田行く

  いまはまだ母のかたちや西日中

  身体のどこかが開く大西日

  八月の空よ父の右足を返せ

  天よりの道は一筋秋の蝉

  もろ手あげ男の走る星とぶ夜

  薔薇は薔薇長生きされよこれからも

  クリスマス近き頃合い人死ぬる

  耳袋かけ親書読みだす未亡人

  黙殺は最良の武器冬の雷

  しぐれ来て父を慕えば胸熱し

  母は今九十九となり冴える月

  いまひとつ好きにはなれぬ一茶の忌

  初地震は能登沖という大八島


 妹尾健(せのお・けん) 1948年、兵庫県伊丹市生まれ。



★閑話休題・・神山てんがい監督・脚本『橋と眠る』(於:Morc阿佐ヶ谷)~1月30日(木)まで・・



監督・出演者の挨拶↑

               夜の午睡(ひるね)↑

 先日のJAZZBarサムライでの俳句ライブの折に、参加されていた神山てんがい氏に観に行くと約束して、結局、行ける日が昨日しかなかった。満席であったが何とか潜り込めた。俳句ライブでは毎年連続出演の記録をもつギネマこと渦ヨーコにも会えた。映画のなかでヨーエンの歌が流れていたのは思わぬことで良かった。帰路、阿佐ヶ谷駅前の喫茶「夜の午睡(ひるね)」に寄って、久しぶりに門田氏にも会った。

 


     撮影・鈴木純一「日が沈む

             のではなくこの

             わたしが」↑

コメント

このブログの人気の投稿

田中裕明「雪舟は多く残らず秋蛍」(『田中裕明の百句』より)・・

秦夕美「また雪の闇へくり出す言葉かな」(第4次「豈」通巻67号より)・・

山本掌(原著には、堀本吟とある)「右手に虚無左手に傷痕花ミモザ」(『俳句の興趣 写実を超えた世界へ』より)・・