正岡子規「人の世になりても久し紀元節」(『季語を探索する』より)・・


 高城修三著『季語を探究する』(京都新聞出版セター)、その「あとがき」には、


 日本人には稲作文化に起源をもつ春秋暦、古代大陸文明に起源をもつ太陰太陽暦(旧暦)、さらに近代になって西洋から伝来した太陽暦(新暦)という三つの異なった暦を三段重ねにして季節感を蓄積してきた。そこから文学的な季語も醸成されてきたのである。


とある。そして、「建国記念日」の項には、


(前略) 雪降つてうつくしき夜の建国日(奥田節子)

 建国記念の日の前後はしばしば大雪に見舞われる。この俳句も五・七・五では冬だが、「建国日」の一語のよって春の句とされているのである。「建国日」という表現は、「建国記念日」「建国記念の日」だと八音、九音となって、五・七・五という俳句の音数にうなく収まりっきらないので、五音に縮約したものである。(中略)

 建国記念日や終戦記念日は、新暦が国民の皮膚感覚になっていた第二次世界大戦後に制定されたものである。こうした近代になって生まれた季語は新暦に拠って考えた方が合理的だと思うが、流布している歳時記では明治五年に廃止された旧暦にむりやり季節感を合わそうとするものだから、戸惑う人も多かろう。これは五・七・五の一七音のみで自立した表現を目指した近代俳句の宿痾(しゅくあ)と言ってもよかろう。(中略)

  少しややこしい話になるが、第二次世界大戦後に小川清彦などの研究によって明らかになったところでは、『日本書紀』においては初代神武天皇から第二〇代安康天皇までは儀鳳暦(唐の李淳風[りじゅんぷう]がつくり六六五年施行〕が使われ、第二一代雄略天皇以降は元嘉暦(宋の何承天[かしょうてん]がつくり四四五年施行〕が使われているという。持統天皇四年(六九〇)以降は、百済(くだら)経由で我が国に伝わっていた元嘉暦と新しく唐より伝来した儀鳳が併用されるようになり、文武天皇元年(六九七)以降は儀鳳暦が単独で用いられた。

 こうして見ると、神武天皇が辛酉年(BC六六〇)の「春正月朔」に即位したというのは、儀鳳暦が唐において六六五年に施工され。そい後日本に伝来した時点から千三百年以上も前の出来事だから、即位当時には存在していなっかった儀鳳暦に拠って定められたということになるので、何ら根拠のないものと言わざるを得ない。おそらく養老四年(七二〇)に『日本書紀』が編纂されたとき、当時使われていた最新の儀鳳暦を用いて神武天皇の事績に年月日を施したのであろう。(中略)

  人の世になりても久し紀元節(正岡子規)

 人の世とは神武天皇以来の時代をいう。正岡子規の俳句には西紀よりも古い皇紀が厳然としてあった時代の精神が読み取れるのだが、西暦(太陽暦)と西紀(キリスト紀元)が身に染みついてしまっている今日の日本人には、その季節感と共にしっくりこないものになっている。


 とあった。その他、巻頭の「日本人と季語」「春宮と秋宮」の論考は示唆に富んでいる。興味ある方は、直接本著に当たられたい。ともあれ、以下に、本書中よりいくつかの句歌を孫引きしておこう。


 年の内に春はきにけり一年(ひととせ)をこぞとやいはむことしとやいはむ 在原元方

 門松は冥土の旅の一里塚かごもなくとまりやもなし       一休宗純

 猫の恋止むとき閨(ねや)の朧月               松尾芭蕉

 れんぎょうの金(きん)の棒振り春二番           佐藤さだ女

 夕方や吹くともなしに竹の秋                 永井荷風

 たけの秋月に小督(こごう)の墓掃かん            内藤鳴雪

 おのが葉に月おぼろなり竹の春                与謝蕪村

 暗く暑く大群衆と花火待つ                  西東三鬼


 高城修三(たき・しゅうぞう) 1947年、香川県高松市生まれ。



     撮影・鈴木純一「外側のナイフをお取りオードリー」↑

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