光末紀子「昼寝覚みんなどこかへ行ったきり」(『誰の眠りでもなく』)・・
光末紀子第一句集『誰の眠りでもなく』(朔出版)、序句は花谷清、 小鳥来る書架にフロイト三論文 花谷 清 帯文も。それには、 蛇穴を出づるを見たりアンナ・O アンナ・Oは、精神分析の成立のきっかけとなった人物の仮名とされる。掲出句中の「見たり」は、単なる描写にとどまらず、幻影めいた気配を漂わせている。 本句集には、虚と実を往還し、その境界を問い続ける世界がある。 とあり、著者「あとがき」には、 (前略) 句集のタイトルを『誰の眠りでもなく』としたが、これはわたしが若い頃から影響を受けてきたオーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケ(一八七五~一九二六)が、亡くなる前の年に、自分の墓碑銘のために作った短い詩から取った。リルケは晩年、日本の俳諧に惹かれ、「ハイカイ」と題する三行詩を書き、同じような形式でフランス語による詩も二つ書いている。次にあげる墓碑銘となった件の詩も、これらの三行詩と同じ圏域にあるものと言われている。 薔薇よ、おお、純粋なる矛盾、 そんなにも沢山の目蓋の奥で、 誰の眠りでもないという喜び。 解釈の難しい詩である。「沢山の目蓋」は、開き切らずに重なっていて、閉ざされた目蓋のように見える。薔薇の花弁を表していると思われる。「目蓋」のドイツ語でLider(リーダー)で、綴りは少し違うが、同じ発音のLiederが直ぐに連想される。こちらの方の意味は歌あるいは詩である。リルケ自身そのような連想を充分に意識していた。 (中略) リルケはまた、詩とは「真に言うこと」であると言っており、そして、存在するものは真に言われることによって、存在するもの自身が思っていたよりなお一層本格的に、それ自身として存在させられるようになるとも言っている。わたしの作る俳句が、「真に言うこと」に一歩でも近づければと思う。 ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。 行く秋や何に響いて石の橋 紀子 梅の香の満ち来る過去の中に母 揺れを揺れ揺れに揺すられ小判草 醜草を引き醜草とねんごろに 梅雨空のどこかに光の蔵のあり 降ろされし亡骸になお遠雪崩 病む鳥の畳めぬ翼さみだるる ひと駅で降りる電車や草の花 男郎花よりもほがらか女郎花 昼よりも...