出口王仁三郎「山火事は数里に続き雲の色茶に染まりつゝ天日焦げたり」(『樺太を訪れた歌人たち』より)・・
松村正直評論集『樺太を訪れた歌人たち』(ながらみ書房)、その「はじめに」には、
そもそも樺太に興味を持つようになった最初のきっかけは、短歌評論同人誌「ダーツ」第六号(二〇〇四年一二月)に、「出口王仁三郎『東北日記』を読む」という文章を書いたことであった。『東北日記』は東北・北海道・樺太への巡教の記録なのだが、そこには文章とともに多くの短歌が収められている。
まず印象的だったのが樺太の地名である。「多蘭泊(たらんとまり)」「藻白帆(もしらほ)」「羽母舞(はぼまい)」、「仁多須(にたす)」、「久春内(くしゅんない)」など、ルビがなければ到底読めないような駅名が続く。アイヌなど先住民の付けた地名に漢字を当てたものだろう。それから「山火事」「養狐場」「ロシヤパン」「鰊漁」など、内地や現代とは異なる暮らしの様子にも興味を惹かれた。(中略)
その後、少し調べてみると、戦前には多くの歌人が樺太を訪れて歌を詠んでいることが分かった。北原白秋、石槫千亦、斎藤茂吉、北見志保子、土岐善麿、下村海南。(中略)
なぜ、戦前はこれだけ多くの歌人が訪れ、これ だけ多くの歌も残っているのに、今では樺太に触れる人が少ないのか。(中略)
けれども、戦前の歴史をなかったことにして忘れれてしまえば済む問題ではない。事実に蓋をしてお終いにしてしまうのではなく、歴史は歴史としてきちんと見つめることが大事なのではないか。戦前の樺太に四十万人もの人々が住み、様々な暮らしを営んでいた事実をきちんと受け止めたいと思う。
とあり、また、「あとがき」には、
(前略)「なぜ、樺太か」という問いに対する明確な答えはまだ見つからない。しかし、サハリンを訪れてみて一つだけ感じたことがある。それは「鎮魂」ということだ。鎮魂と言っても亡くなった方々への追悼という意味だけではない。戦前の樺太に暮らし、樺太という土地に様々な夢を描いた人々の思いは、敗戦によって断ち切られてしまった。それらを何らかの形で受け止めて、鎮めることが必要なのではないかと感じたのである。
とあった。愚生のブログでは、本書を紹介しきれないので、是非、直接、当たられたい。ともあれ、本書の中から、樺太在住だった歌人を含めていくつかの歌を挙げておこう。
群立ちて白鳥は陽にかがやけり遠去りゆくに声のかなしさ 石川澄水
猛吹雪に雪崩れの報は頻りなり豊真線を夫(せ)は越えゆきし 皆藤きみ子
春浅き夕べを来りオーロラの顕ちし噂など人のして行く 新田 寛
一年のなかばは雪の上にありきいま土の上を歩むしたしさ 野口薫明
逃げそこねしタコ人夫同志撲(なぐ)らせあひ手加減するタコを棒頭(ぼうがしら)が殴る 山野井洋
*「タコ」は「監獄部屋に身売する土工・自分の身を喰ふ章魚の習性を語源とす」
山峡(やまかひ)は白き地層のあらはるる断崖(きりぎし)に沿うて川流れたり
山本寛太
豊原にひと夜を寐たり庭に降る雨見てをれば京都あたりにゐるごとし 斎藤茂吉
樺太の工業会社の建造物見えつゝ真岡(まをか)の駅に入りけり 出口王仁三郎
薩哈連(さがれん)の西海岸にいでにけり大陸は見えず山ひくみかも 橋本徳壽
国境線かぎりたれども落葉松のつづける森にことなりもなし 松村英一
北の涯(はて)敷香をとめがうたふべき校歌のことをいく夜おもひぬ 土岐善麿
幌内川の洲幅ゆたかに住み慣(なら)ひギリヤーク族の子ら話すアイウエオ
北見志保子
たてぬきに切開きたる広き大き道をせばめて草おひにけり 石槫千亦
樺太の公園ゆけば菊あやめ菫たんぽぽ日に照らされて 生田花世
目鼻なき友だちの顔のしたしもよ光の中に笑いひつつ見ゆ 吉植庄亮
オホツクの波は光らずたどきなし甲板にひとつ我の足音 北原白秋
此期に及びいひのこす言はたゞ一つ恵須取の地に分骨せよと 下村海南
撮影・芽夢野うのき「天よりふるは蒼き九月のアラベスク」↑

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