寺山修司「詩は力割られて芽ぐむ薪の瘤」(『寺山修司の百句/俳句からの出発』より)・・
藤原龍一郎著『寺山修司の百句/俳句からの出発』(ふらんす堂)、巻末の「寺山修司論——マルチ表現者の原点」には、
今では寺山修司といえば、前衛劇団「天井桟敷」の主宰者として、演劇関係者の記憶にのみ残る名前かも知れない。しかし、一九五〇年代後半から一九八〇年代前半までの寺山修司はマルチアーティストと呼ぶべき輝かしい存在であった。
詩、短歌、俳句、戯曲、小説、芸術評論、スポーツ評論、映画の監督、演劇の演出、写真撮影、作詞、競馬評論とレースの予想等々、彼の手がけた表現ジャンルは多岐にわたる。
単にマルチな活躍というだけでなく、それぞれのジャンルでも個性的な作品を残している。たとえば、作詞ではカルメン・マキが歌った「時には母のない子のように」は一九六九年の大ヒット曲であり、ザ・フォーク・クルセダーズのために書き下ろされた反戦フォーク「戦争は知らない」は今でも歌い継がれている。(中略)
この本で鑑賞した百句の俳句は、まぎれもなく寺山修司の表現の原点といえる。寺山の詩歌の特徴である青春性、虚構性、演劇性、風土性といったものは、すべてこれらの俳句作品に芽生えている。どの俳句がどんな短歌に変化し、詩やエッセイにアレンジされ、ついには「天井桟敷」の演劇や映画に成熟したのか、考えを巡らせてみるのも面白い。
とあった。鑑賞の2例のみを上げ、以下には、いくつかの句を挙げておこう。
目つむりいても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹 『われに五月を』
この句を冒頭句とする一連には「十五歳」という小見出しが付されており、青春性が満ち溢れている。
十五の自分をイメージしている句である。五月の青空に鷹が舞っている。その鷹と吾は心が通じ合っている気がする。(中略)
五月の鷹という雄渾な存在に十五歳の少年の無限の可能性を重ね合わせ、「統ぶ」という動詞で結び付けることで、一句に健やかな躍動感が生まれている。
青む蛙忘られやすき原爆詩 句集未収録
蛙が青さを増す着せr津。広島と長崎への残酷な原爆投下からすでに十年近くが経ち、原爆の悲劇を詠った詩歌も忘れられがちになってしまう。当然、反語として、忘れてはいけないというのがこの俳句の思いである。
原爆を素材にして書かれた表現でもっとも有名なのは、峠三吉が『原爆詩集』の序文に書いた「にんげんをかえせ」や原民喜の哀切な詩「原爆小景」あたりだろうか。原爆投下後の悲惨な人々と街の情景を生々しく表現し、反戦の思いを込めたこれらの詩を忘れてはいけないというのは、寺山の本音でもるはずだ。時代の陰翳を映しだした作品と言える。
父を嗅ぐ書斎に犀(さい)を幻想し 修司
林檎の木ゆさぶりやまず逢いたきとき
朝の麦踏むものすべて地上とし
便所より青空見えて啄木忌
花売車どこへ押せども母貧し
わが夏帽どこまで転べども故郷
かくれんぼ三つかぞえて冬となる
車輪の下はすぐに郷里や溝清水
枯野ゆく棺のわれふと目覚めずや
ランボーを五行とびこす恋猫や
テーブルの上の荒野へ百語の雨季
日なたぼこりの幻灯にわがデスマスク
法医学・桜・暗黒・父・自瀆
もしジャズが止めば凩(こがらし)ばかりの夜
胼の手かなし農夫の誰も銃とるな
寺山修司(てらやま・しゅうじ) 1935年12月10日~1983年5月4日。
青森県弘前市生まれ。
藤原龍一郎(ふじわら・りゅうちろう) 1952年、福岡県生まれ。
撮影・中西ひろ美「切れ切れに心のうちを思ほえばもの皆高く秋風ぞ吹く」↑

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