沖ななも「石一つ拾いてみたり 石一つ捨ててもみたり 軽くなりたり」(『木陰の思想』)・・


  沖ななも第11句集『木陰の思想』(角川書店)、その帯には、


  何人の人と会ったのだろう何人の人と会えなかったかこの世に生(あ)れて

 木陰は光と影のあわい――。

 神と仰ぐ木、民と暮らす木、その揺るぎない存在の下に佇み、たどり着いた。

 澄みわたる詩想の記録。


 とある。著者「あとがき」には、


 前の歌集『白湯』『日和』を上梓してからだいぶ時が経ってしまった。。その間に大事な人を多く失っている。〈時〉は残酷でもあるし癒しでもある。(中略)こんどの歌集名はだいぶ大仰なものになってしまった。

 樹木が私に与えた影響は思ったより大きかったのかもしれないと思い始めた。

 また最近読んだアラン・コルバン著・小黒昌文訳『木陰の歴史』にも少し刺激されたかもしれない。


 とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの歌を以下に挙げておこう。


 あとからあとからあとからあとから落ちてくる水滴を雨とよびかえている

 「どこ行くの」「いいとこ床屋の縁の下」遠くなりたる縁の下闇

 ある時は断る理由にあるときは割引申請に使う年齢

 海に遠し山にも遠く住むゆえに海にも山にも行かず託(かこ)てる

 老いゆけば忘るることを重ねゆく忘れなければ恥ずかしからん

 一万年前の穴とて覗き込むキリストも釈迦もおらぬ宇宙に

                     (上黒岩岩陰遺跡)

 王の字にひとつ輝く雫あり玉の賞象(かたち)は雫をまとう

 わたくしが立てばわが影も立ちあがり坐れば座る 自律せよ影

 飼われいし縞馬ついに脱走し密なる自由を味わいて死にき

 竜田川に沿って歩けと教えられ沿いて歩くに道離れゆく

 酉年はとっちらかす(・・・・・・)と言われつつ散らかしたままの人生である

 木も国も組織も地球も人も病む経年劣化は公平に来る

 開けんとして開かず閉めんとして閉まらず わが玄関は頑(かたくな)である

 ゆっくりと梅のつぼみの開きゆくこの世の時間(とき)をすべらせ

 彼(か)の岸がにぎやかそうな春三月父逝き母逝き兄も昨年

 帰り来て家の明かりをつけてゆくそこここに影を生み出しながら

 咲ききれば散るほかはなくはなびらは風吹けば散る風もなく散る

 

 沖ななも(おき・ななも) 1945年茨城生まれ。 



★閑話休題・・志鎌猛展「不易流行」(於:日本橋高島屋本館6階 美術画廊x~8月3日・月まで)・・

 



那智の滝↑


志鎌猛氏と松崎由紀子氏↑

案内に、

 水が記憶するもの

 水ほど柔らかく、しなやかものはない。しかし、それに抗しうるものはついにない。

                                  ——老子

 水は不可欠な存在であり、あらゆる生命をかたちづくる根源的な要素である。

 本展「不易流行Shape of Water」は、松尾芭蕉の言葉にある。変わらないものと移ろいゆくものがひとつあるという感覚に、そっと触れる試みでもある。写真家志鎌猛は、水が見せるさまざまな相——静けさと力強さ、表層と深淵、瞬間と広がり――をめぐる瞑想的な旅へと観る者を誘う。プラチナ・パラジウム・プリントの名手である志鎌の作品は、水を単に描写するのではなく、それを「捉え」、その静かな持続性を浮かび上がらせる。

「不易流行 Shape of Water」は、よりゆっくりとした“見る“行為を促す展覧会である。それは、水とは何かを問うだけでなく、水が何をもたらすのか――どのように世界をかたちづくり、どれほど繊細な姿であっても確かな力を宿しているのか――を私たちに考えさせる。

                              デボラ・クロチコ

                       サンディエゴ写真美術館名誉館長

 とあった。

   志鎌猛(しかま・たけし) 1948年、東京都生まれ。

 

 

       撮影・芽夢野うのき「蟻の列あっちの水は甘いぞ」↑

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