高岡修「一匹の蟻が/夕暮れの広大な砂漠を/渡っていたという(略)」(『怖い詩』より)・・
倉阪鬼一郎著『怖い詩』(アドレナライズ)、その「まえがき」に、
『怖い俳句』『怖い短歌』(いずれも幻冬舎新書)に続く三部作の完結篇『怖い詩』を電子オリジナル版でお届けします。
ライフワークの一つである〈怖い短詩型文学三部作〉がついに完成しました。
とあり、また「あとがき」には、
長い旅がいま終わりまいsた。
始動してから完成にいたるまで、五年もかかってしまいました。第一作の『怖い俳句』は二〇一二年の刊行、始動がニ〇一〇年ですから、第二作の『怖い短歌』を挟んで十五年を要しています。ライフワークに数えられる仕事はほかにもありますが、この三部作も間違いなくその一つです。
紙幅には限りがあります。最も若い詩人でも一九六九年生まれという線引きになったため、現在活躍中の詩人はごく少数しか採り上げられなかったことをおわびいたします。(中略)また、本書は横並び形式のアンソロジーではなく、あくまでも『怖い詩』という「作品」につき、(前略)(中略)(後略)を多用した恣意的なテキストの引用になっていることもおわびいたします。末尾に表題作出展一覧と参考文献一覧を付してありますので、興味を抱かれた方はぜひ原テキストをお読みください。読者にとっての「怖い詩」がきっと追加されることでしょう。
とあった。ここでは、ごく一部になるが、『怖い俳句』『怖い詩』双方に収載された高岡修と俳人柴田千晶を以下に挙げておきたい。
鏡 高岡修(たかおかおさむ)(一九四八ー)
51/黒いビニール袋に入れられて、
死んだ子どもたちはいつも、
どこかの駅のコインロッカーに捨てられる /(中略)
『怖い俳句』と『怖い詩』、両方で採り上げた唯一の作者です。
『鏡』は一冊で長篇詩一篇のみの構成。ハイライトは次の部分でしょう。
54/路傍の名もない死を選んだもうひとりのきみが、
ホルマリンのにおう皮膚を剝れて、
解剖台のうえに横たわっている、
なんという美しい形而上学の木理だろう、
意味と非意味がとが一体となって、
君に集合している、
やがてきみは、
きれいな切断面を視せながら、
徐々に分解されてゆく、 (中略)
きみの見知らぬ若い手が、
きみの頭部を持ち去ると、
もうどこにも、
きみはいない、
春の闇「亡き歌手の唄ばかり夜の桜山」 柴田千晶(しばたちあき)(一九六〇ー)
切り落とされた鶏の首も、短軀の男も、路地に立つ女たちも、
死者も生者も、皆、眼を閉じている春の闇である /(中略)
誰もいない桜山に黒い花びらが流れている
落花の闇から、死んだ男の低い歌声が、地鳴りのように聞こえてくる
俳人でもある詩人は、「怖い俳句」と「怖い詩」の注目すべきコラボを手がけています。
『生家へ』にはその注目すべき達成例が多く収録されています。
「亡き歌手の唄ばかり夜の桜山」という句だけでも充分に怖いのですが、絵画に譬(たと)えるならば、付けられる詩によって微細な造形がいくつも描き足され、冥(くら)い絵にさらに奥行きが生まれます。(中略)
「ここ十年ほど、自作の俳句が内包するイメージと格闘するように詩を書き続けてきた。詩と俳句が遥かなところで強く響き合う、そんな世界を目指して」
作者の言葉です。ここではたしかに二つの世界が強く響き合い、余韻の残る恐怖を醸成しています。
とあった。本書には、50名ほどの詩人の作品が収載されいる。
倉阪鬼一郎(くらさか・きいちろう) 1960年、三重県生まれ。
★閑話休題・・ジンタらムータの「お座敷DEチンドン」(於:国立ギャラリービブリオ)・・
来る6月10日(水)19時30分~於:吉祥寺StarPine’sCafe ↑
5月31日(日)15時~、国立ギャラリービブリオで、「ジンタらムータの『お座敷DEチンドン』」に出掛けた。出演は、こぐれみわぞう(チンドン太鼓、ヴォーカル)と大熊ワタル(クラリネット他)のお二人の演奏を楽しんだ。もちろん、チンドンといえば「美しき天然」の曲もあった。後半はプロテストソングで原語でのワルシャワ労働歌(日本語歌詞でも)など、久しぶりに聞いた。愚生はといえば次回があれば、水平社の解放歌をリクエストしたいなどとふと思ってしまった。
撮影・鈴木純一「棕櫚の華トマスは傷に指を入れ」↑
5月25日 ソニー・ロリンズ 没(1930~2026)



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