羽村美和子「木葉木菟ずくずく君をそらんずる」(第174回「豈」東京句会)・・


 5月30日(土)は、二ヶ月に一度の、第174回「豈」東京句会(於:ありすいきいきプラザ)だった。以下に一人一句を挙げておこう。


  歌え舞えひねもす暗黒カタツムリ        凌

  草笛になって千年さやかなり       小湊こぎく

  人を売り武器を売る国の薄暑かな      山本敏倖

  著莪の花ぞろりと不審メール来る     羽村美和子

  ラテン語で名を書かれたる熱帯魚     伊藤左知子

  おばしまに日傘おかれて暮れにけり     川崎果連

  紅薔薇やくちびるほどに罪深し       早瀬恵子

  泣き愁い生きるいにしえ山さんご      大井恒行



★閑話休題・・大江健三郎「純粋天皇の胎水しぶく暗黒星雲を下降する」(添田馨『ゆきつく果ての護憲』〈言視舎〉p178、より)・・


 添田馨著『ゆきつく果ての護憲』(言視舎)、「第1章 なぜ“ゆきつく果て“が護憲なのか」の「8結語にかえて」に中に、


 わが国の戦後憲法とその第9条とは描いてきた、戦後の日本人のメンタリティーの構造について、主に私は論じてきた。たしかに憲法第9条にあらわれた平和主義は、理念としても素晴らしく、また、同時にきわめて非現実的な規範であり続けている。(中略)

 そして、今私たちが最も問われているのは、これまでの憲法の形姿であるよりは、これから先の時代におけるその在り方のほうであるのは言うまでもない。その場合、第9条が死者たちだけのものではなく、世界普遍性の次元で人間一般に共有される規範として受容される日が、本当に訪れるのかどうか。(中略)

 わが国の憲法体現された平和主義が、こうした世界戦争の場から生み出された以上、その思想性においてこの憲法は、どうしても国内事情をこえたある種の普遍性を帯びざるを得なかった。たまたまそれが、世界戦争の全面的な敗戦国であるわが国に、恵沢としてもたらされたのは事実だとしても、世界戦争以後の地上にあってr、日本国憲法がその身に植えつけたような平和主義は、本当は戦争に関わったすべての国の大衆によって、心から待ち望まれたものではなかったのか。(中略)

 だから、その敗者側陣営の一角を占める日本に成立したこ憲法は、見方を変えれば、戦勝国と敗戦国とを問わず、戦後世界においてどうしても必要とされた究極の理想が、日本という国家共同体の身体を借りて受肉したもののように、私には思えてならないのである。


 とあった。また「あとがき」には、


 (前略)本書は「戦後」をめぐるさまざまの問いかけに対し、私のこれまでの限られた経験のなかでものしたその時々の応答内容を、一定のテーマにそって集成したものである。とくに「護憲」という思想軸からの多面的なアプローチを意識した内容になっているが、じつは順番はおsの逆であって、「戦後」の意味を自分なりに考えていくなかでゆきついた最も大きな陸地が「護憲」という寄港地(エスカール)にほかならなかったということである。(中略)

 これと同じ理由から、「戦後」の生きた記憶というものがこの国にある(あった」として、誰かひとりが世を去っていくたびにその記憶もともに流れさる運命にあることを意識すれば、ほとんど偶然の奇跡のようにして現在に受け継がれてきた「戦後」のそうした個別的記憶群は、やはり誰かによって語り継がれねばならないとの強い思念が湧いたのだった。

 その結果、本書は、私のそうした個人的なモチベーションが否応なく引き寄せることになった「戦後」をめぐるいくつもの問いの断片群に対し、ささやかなながらもかろうじて辿りついた、地図にも載っていない無人島のはじめて見るような叙述の景観になってしまった感がある。

 著者としては、ひとりでも多くの心ある読者が、この名もない無人島に上陸してくれることでそれぞれの足跡を残し、それぞれにまたちがった眼差しによってその眺望が意味するところをそれぞれの胸に刻み込んでは、またつぎの寄港地へと船出してくれるのを心から願わずにはいられない。


 とあった。これ以上の引用は、本ブログでは無理なので、各章の目次のみになるが、挙げておきたい。「第2章 長い戦後を考える」、「第3章 平成天皇と令和の改元について」。


 添田馨(そえだ・かおる) 1955年、宮城県仙台市生まれ。



             撮影・芽夢野うのき「藤の実のゆれてゆらして母の闇」↑

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