澤好摩「甕抱きし双掌を解けば翼かな」(「周」第10号より)・・


  「周」(しゅう)第10号(周句会(あまねくかい)/邪馬猫亭)、横山康夫「折々の散歩道/『て』の思ひ出」の中に、


 (前略)配られた紙には「朝日俳壇」の選者・高山れおな氏の次の選句と句評が載っている。

   積みあがる駄句の山見て山笑う 

 豪快で面白いが、この「見て」のような言葉遣いをしなければ駄句は減るでしょう。

                    (「朝日新聞」二〇二六年四月五日付紙面) 

 高山れおな氏は句の内容の豪快さを面白いとしつつも「見て」に注文をつけてゐる。面白い句評で思はずニンマリとしてしまつたが、後藤秀治氏はこの「〈見て〉のような言葉遣いをしない」ことといふ部分に注目して、どう思ふかとみんなに問うたのだった。みんな少し沈黙していたが、その間私は昔のことを思ひ出してゐたのだつた。このことは澤好摩がよく言つてゐた。「何が何して何とやら」になつちやうよといふ話である。「見て」の「て」は接続助詞で、前段と後段をつなぐ役割をするが、どうしても説明的になつてしまふ。俳句は説明してしまつてはダメだよとよく言はれる。この句もそこが問題の話でせうよといふことになつた。(中略)

 その点について澤好摩が懇切に説明したことがある。それは「円錐」六三号の「戦後俳句作品鑑賞」における森澄雄の次の作品鑑賞においてであつた。

   雪嶺のひとたび暮れて顕るる

 この句の「て」は少ない成功例の一つだと言ひ、暮れて一旦見えなくなつた雪嶺が夜目に再びその姿を顕す、その時間的経過が表現されてゐるといふのだ。「見えなくなつたものが再び見えるやうになる不思議さを引き受けている」と述べてゐる。言葉を安易に繋いでしまはないことが大切なのだ。「て」は説明的になつて飛躍に乏しい。俳句は短い形式だから飛躍は生命線である。助詞の用ゐ方、一考すべきことだらう。


 とあった。ともあれ、本誌本号より、いくつかの句を挙げておこう。


  月今宵ヒーローは皆空を飛ぶ        三丸祥子

  盂蘭盆会空ㇻになりたる母の部屋      寺坂公広

  再読の「父の詫び状」春兆す       昼間くみえ

  白鷺の群れて真白を研き合ふ       渡辺ひろ子

  風に乗りたい人のあふるる春の丘      横山康夫

  野を渡り古墳を渡り風薫る         熊谷明美

  鐘の音に揺れて小萩の雨あがり      紅煤三男丸

  春泥を来て神のこと云ふ女         古寺周一

  粧いの解かれし山の大あくび       佐伯ひろみ  

  核ボタン押しちやつた猫ふんぢやつた    後藤秀治

  生涯を風に従ひ糸すすき          大塚敏広



   撮影・芽夢野うのき「鳥たちのさびしきことを知った日の唄」↑

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