細谷源二「鳥泣きながら木のてっぺんの木の旅行」(『細谷源二の百句』より)・・
五十嵐秀彦『細谷源二百句/北方俳句への軌跡』(ふらんす堂)、巻末の五十嵐秀彦「細谷源二―-新興俳句から北方俳句への軌跡」に、
(前略)細谷源二は明治三九年に東京都小石川に生まれ、出生直後に養子にもらわれた。実の両親が誰であったか分かっていない。養父は鳶職人の三造、養母の名は仲。(中略)大正六年一一歳で旋盤工見習いとなり、以降東京下町で工場労働者として生活した。
文学との出会いは一七歳の時、工場の先輩に誘われガリ版文芸誌「錦葉集」に参加。詩、短歌、俳句と手当たり次第に書き始めた。さらに口語短歌誌「芸術と自由」の会員となり口語短歌にのめりこんだ。一九歳で堺利彦の著作を読み、労働運動に参加。大正一五年二〇歳で、内藤辰雄とともにプロレタリア文芸誌「労働芸術家」創刊。俳句との出会いは昭和七年、二六歳のとき工場の仲間に誘われて始め、しだいに熱中していった。昭和一〇年に「馬酔木」の句会に参加。(中略)
鉄工葬おわり真赤な鉄うてり 『鉄』
工場で事故で死んだ仲間の葬儀を「鉄工葬」という新しい言葉で表現。ここに現代的インパクトがこめられているのだから季語はいらない、という主張がはっきりと打ち出され、無季俳句の代表句のひとつとなった。(中略)
地の涯に倖せありと来しが雪
『砂金帯』のこの句が、細谷源二生涯の代表句となったのである。最後の希望を北海道に賭けてやってきた北の大地。そこは農地にもっとも不向きな泥炭地、そして広大な白樺林だった。開拓という言葉がイメージさせるロマンチシズムなどは、この句のごとくいとも簡単にこなごなにされたのだった。(中略)
今年また山河凍るを誰も防がず 『飲食の火』
第五句集『飲食の火』は昭和三一年刊行。五〇歳になっていた。この句には源二らしい北海道諷詠がある。これがいうなれば彼の自然諷詠であり、花鳥諷詠に置き換わる美意識というべきものだった。『地の涯』ぁら始まった北方俳句の挑戦が、リアリズムを越えてこの句に昇華している。彼の代表作のひとつだ。
ともあれ、本書より、句のみになるが、いくつかの句を挙げておこう。
寒水を焚き汽罐車を野に放つ 源二
建築主われより若く人を叱る
工場野球外野手兵となり戻らず
千人針妻ら街娼のごと佇てり
英霊をかざりぺたんと坐る寡婦
職工面会所招集令を母がもちくる
明日伐る木ものを云わざるみな冬木
父の死や布団の下にはした銭
丁丁と妻を打つわれより弱き故に
大草原渡りきる気の蝶白し
雪また雪光に泳ぐ馬やら人やら
寒妻臥せば墓などに似る墓になるな
氷のひびとび立つ鳥のどれがつけし
どの芦を折っても黄昏の音しみ出る
滝をみたやつ立琴をひとつづつ持って帰る
一人死に五人泣きあとはそらぞらしい合掌
瓦礫に瓦礫を積む風の深傷によろめき
細谷源二(ほそや・げんじ) 1906・9・2~1970・10・12 東京市小石川区(現・文京区)生まれ。
五十嵐秀彦(いがらし・ひでひこ) 1956年、北海道帯広市生まれ。
撮影・中西ひろ美「小春日のとても小さな花と種」↑

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