大井恒行「聖霊(スピリット) にんげんを創造しなおす淑気」(「現代俳句12月号)・・
「現代俳句」12月号(現代俳句協会)、巻頭の「直線曲線」は高橋修宏「多行形式をめぐって」、その中に、
(前略)一碗ごとに焼く楽茶碗と多行形式の俳句―-。そのすぐれて魅力的な比喩には、はからずも林氏の昨今の俳句情況に対する鋭利な批評さえ書き込まれているのではないか。彼が編纂した多行形式のアンソロジーに、くり返し、その「序」として次の高柳重信の言葉が掲げられていることからも了解させされるのである。
端的にいうならば、多行表記は、俳句形式の本質が多行発想であることを、身にしみて自 覚しようとする決意の現れである。したがって、、俳句表現を、一本の垂直な棒の如きものとし て認識しようとする人たちには、もちろん、多行表記が存在し得るはずはないのである。まし て、俳句形式について、如何なる洞察を持たないか、。あるいは、それを持とうとしない人たち には、はじめから、一行も多行も、それこそ、何も存在しないのである。
(高柳重信、「俳句評論」九十三・九十四号より)
ところで、あらためて高柳重信の全句集を繙くと、ひと言で多行形式といっても、けっして当初から安定した表記ではなかったことがうかがわれる。(中略)
ともあrふぇ、多行形式の俳句は、すでに現代俳句の歴史のなかに独自な足跡が刻み込まれている。われわれは、そこから何を見い出し、また何を受け取るべきなのだろうか。少数の実践者による、確かな成果が提示されているにも拘わらず、そにの可能性が十分に汲み尽くされていると言い難く感じるのは、私だけではないはずである。
とあった。ともあれ、本誌本号より、いくつかの句を挙げておきたい。
水鳥におほぞら深く底ひあり 正木ゆう子
毬栗は四万六千本の棘 坊城俊樹
まず海馬ぬれてにんげん時雨かな 谷口慎也
まだ父がサンタと知らず子の寝顔 望月哲士
白杖の地をたしかめていわし雲 和田浩一
林檎剥くわたしの時計だけ遅い 鈴木卯ノ花
ぐしやぐしやの手紙忍ばせ牡丹焚く 武田貴志
治らず死なず十六夜の月仰ぐ 水口圭子
球場に響く校歌よ敗戦日 北川光春
春の土手長いよ肉體も長いよ 大石雄介
豊かなる風のにおいの九月かな 山崎せつ子
憲法記念日山椒魚は動かない 東 國人
夕闇と桜傷つけ合っている 岡田恵子
手探りの行方頑固なる熾火 小湊こぎく
降るは光八月六日九日と 佐藤清美
みちのくは光棲む国桃青忌 佐藤成之
戦争の終はらぬ星の星祭 三輪初子
向日葵直立圧倒的なさみしさ 山本左門
撮影・芽夢野うのき「怪しげにあかるく彼岸の実は冬よ」↑

コメント
コメントを投稿