中田みづほ「今はたゞ母なきまゝに春を待つ」(『中田みづほの百句』)・・

 


  中本真人著『中田みづほの百句/日本脳外科の父』(ふらんす堂)、巻末の中本真人「『秋櫻子とみづほ』―-『秋櫻子と素十』をめぐって―ー」の「おわり」に、


  中田みづほと浜口今夜による対談「秋櫻子と素十」は、水原秋櫻子の「ホトトギス」離脱の大きな原因といわれてきた。しかし実際は、みづほも今夜も秋櫻子の俳句や作風を深く理解、高く評価しており、全く秋櫻子を否定するような立場ではなかった。

 周知の通り、この「秋櫻子と素十」は「ホトトギス」昭和六年三月号に転載されて、また新たな火種を生むことになる。「ホトトギス」転載による「秋櫻子と素十」の影響については、別の機会に論じることにしたい。


 とあった。百句のなかの一例を以下に記す。


       素十入院

   病よし南瓜(かぼちや)に顔が書いてある      昭和一三年

 入院中の素十に、妻の冨士子が子供たちを連れて見舞いに来た。その子供たちが南瓜にいたずら書きをしたのを、あとから見舞いに訪れたみづほが発見したのである。素十の元気な様子にも安心したのだろう。

 この年、素十は「ホトトギス」一〇月号の雑詠に〈ひつぱれる糸まつすぐや甲虫〉を発表した。素十たちと亀田を吟行した帰り、みづほは大きな甲虫がいるのをみつけた。素十にその甲虫をみせると「いいなあ」と喜ぶので、みづほは自宅に持って帰った。句会の閒、みづほの子供たちがその甲虫で遊ぶのをみて、素十はこの句を作ったという。


 ともあれ、以下に本書中より、句のみなるが、いくつかを挙げておこう。


  東京を春の夜汽車で発(た)ちにけり         みづほ

  花時(はなどき)の炬燵(こたつ)にあたる越後かな

  コスモスや燎乱(れうらん)として日曜日

    ハイデルベルヒ郊外

  花盗人(はなぬすひと)ほゝ笑みながら折り呉(く)れぬ

  尺取(しやくとり)は風に吹かるゝ真似もする

  金鳳華(きんぽうげ)佐渡の譚(はなし)はみな哀(あは)

  田の神もあがりて旅に立たれけり

  学問の静かに雪の降るは好き

    虚子先生連作「老の春」を見て

  八十の師に六十の吾の春  

  ストーヴや我(わ)れが一番老教授

  年忘れ素十を呼べ奈良の素十を呼べ

    虚子先生逝去

  昏睡の御手(おて)いつまでも温かき

  父よりも身近な感じ虚子祀(まつ)る

  早苗饗(さなぶり)も今はラーメン、ソーセージ

  まだ生きてゐたよワハハと炉(ろ)に坐(すわ)

  

 中本真人(なかもと・まさと) 1981年、奈良県北葛城郡(現・葛城市)生まれ。



      撮影・中西ひろ美「紅葉す神無し月の色として」↑

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