石川啄木「いたく錆(さび)しピストルが出(い)でぬ/砂山の/砂を指もて掘りてありしに」(『石川啄木の百首』)・・
小池光著『石川啄木の百首』(ふらんす堂)、巻末の「解説『歌』の原郷」には、
石川啄木は、明治十九年二月二十日、岩手県南岩手郡日戸村に生まれた。父一禎は僧職、母かつも僧職につながる家の出で、つまり悪木は寺の子である。(中略)
教員をしながら処女小説「雲は天才である」「面影」「葬列」などを書く。また前年に十三歳のとき知り合った堀合節子と結婚して、長女京子が生まれ、父親となっている。啄木の生涯を特徴づけるのはなによりその早熟性であり、またテンポの速さである。(中略)
三行書きというアイデアはこのプロセスの中で忽然と出現したものらしい。短歌を一行でなく三行で表記するというまさに革命的方法は、友人土岐哀果のローマ字歌集『NAKIWARAI』に先例があるが、ローマ字ではなく日本語で短歌を三行に書くのは啄木のまさに発明であった。短歌を三行で書くことで、いかにも読みやすい、ドラマチックな印象を際立たせるものとなった。(中略)
明治四十五年四月十三日、夜の九時三十分、小石川区久堅町の借家で永眠。母親は先月にやはり肺結核で死んでいる。枕元には妻節子と長女京子、家出先から駆けつけた父、そして若山牧水がいた。二十六年と二ヶ月の生涯であった。(中略)
近代短歌の第一人者は誰がみても斎藤茂吉であろうけれど、茂吉の歌にはついになかったものを啄木の短歌は残した。(中略)それは短歌という制限された文学の伝統的一形式でなく、むきだしの「歌」そのものといっていい。近代の無名無数の人々のこころに、そっとその失楽失意への共感と慰めをあたえる近代の「歌」を、その原郷として啄木は作ってみせたのである。
とあった。本書中よりいく首か挙げておこう。
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ
たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽(かろ)きに泣きて
三歩あゆまず
ふりさとの訛(なまり)なつかし
停車場(ていしゃば)の人ごみの中に
そを聴きにゆく
マチ擦(す)れば
二尺ばかりの明るさの
中をよぎれる白き蛾のあり
小池光(こいけ・ひかる) 1947年、宮城県生まれ。
★閑話休題・・露口啓二写真集『移住』(赤々舎)・・・
露口啓二は写真集の冒頭に、「都市、鉱山、原子力発電所、農地、住居」と題して、
ユーラシア大陸から海を隔てた東に位置する列島に、近代天皇制を枠組みとした国家が成立し、現在までさまざまな状況下で移住を強いられた人たちが絶えず生み出されてきた。本書において写真が捉えようとするもののひとつは、移住を余儀なくされた人たちがもともと住んでいた地と、その人たちが移り住んだ北方の島である。誕生したばかりの「国家」によって「北海道」と名づけられたその島は、先住民族アイヌともどもその国家に編入され、内地からの植民の対象となった。(中略)いうまでもなく写真が捉えうるものは限定された一部分、一断面にしか過ぎない。
記している。また、巻末の倉石信乃「写真史の死角から」の結びには、
本写真集でいくつかの場所と場所を点綴する露口が着目した一つに第二官園の範囲と重なる渋谷区美竹公園がある〈53頁〉。ごく最近まで行き場のない野宿者・困窮者が集い、かつ彼らの生活支援のため焚き出しの行われた公園は、2022年暮れまでに区によって完全に封鎖された。(中略)露口の写真集「移住」は、異なる複数の場所を「飛び地」のように繋げることで、われわれ観者にその場所に生きてきた人々への連想と顧慮の力を自ずと引き出そうとする。われわれは露口啓二の稀有な仕事を、時間をかけて紐解いて考えていかなければならない。これからもまた。
とあった。他の論考に、鵜飼哲「犯罪の現場に戻る」を併載している。なお、本文には英語の対訳も施されている。
露口啓二(つゆぐち・けいじ) 1950年、徳島県生まれ。
撮影・中西ひろ美「鳴神の今日はいづくに怒りかな」↑

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