宮﨑莉々香「あたまから日永はなかにまぎれこむ」(「オルガン」33号)・・・
「オルガン」33号(編集 宮本佳世乃/発行 鴇田智哉)、座談会は「さて喃語俳句」、その基調は宮﨑莉々香「喃語俳句のために」、その中に、
(前略)いかに自身の身体感覚を言葉にしていくかを目指す時、言葉になりきらない、訛った、出来事としての俳句があるのだと思う。出来事を捉える言葉として俳句があるのではなく、俳句自体が出来事としてあるようにするのだ。
ただそこにあるものを、言葉によって美しく、大きく見せたり、客観的な視線で冷静に捉えることもかのうだろうが、それは「わたし」から離れた、「わたし」が抜け落ちた者として「もの」に対峙するいうことになっていくのではないか。
とあり、これらをタタキ台にして、座談会が行われている。ただ愚生には、その錯綜感がよく理解できていないので、興味ある方は、直接本誌をご覧いただいきたい。ここでは、後半の部分を少し抜き出して紹介しておきたい。
〇倫理の問題
田島 俳句的に対象との距離が維持されていないと、俳句は書けないし、虚子はその部分を「極楽の俳句」と言ったと思うんです。カラオケ的な俳句や文化資本的な俳句といった枠組みがないと、俳句はかなり書けないものになると思うんですよ。宮﨑さんのこの文章で言っていることだけを目指すと、俳句はすごく痩せてしまう可能性があると思います。(中略)
田島 櫂未知子さんに〈火事かしらあそこも地獄なのかしら〉という句がありますが、この句には客観写生に含まれる、ある種の残酷なまなざしが含まれているように思われます。詠まれている対象の過酷さに対して、それを眺めている主体はあくまでも安全な場所にとどまっている。
福田 その句は、対象を客体化しているかもしれないけれど、要するに、客体化をめぐる倫理というようなことですか。
宮﨑 私の問題提起のなかには客体化に対して物申したい、も含まれているように思います。〈春寒の灯を消す思ってます思ってます〉(池田澄子)もそうですが、そういう句を発表してもいいんですよ。ただ、もうすでに政治的なのに、俳句は政治的じゃないですよみたいな顔をして発表しているのがどうかなって思うんです。火事の句も、客観的な立ち位置に立つという政治性を持っているけれど、俳句は政治的ではない、俳句として立つみたいなことを言うじゃない?痛みをわかっていない感じが嫌なんですよ。(中略)
福田 なんだろう。そもそも他者に届けられた言葉が政治性を帯びているのって、当たり前のことなんですよ。そういう風に届くもんなんです。そのうえで〈春寒の灯を思ってます思ってます〉が言葉の政治性に無自覚なものかどうか、〈火事かしらあそこも地獄なのかしら〉が痛みに無頓着な句なのかどうかというのは、即断するのは危ういような気がします。たとえば、櫂さんの句は、芥川龍之介の『地獄変』のたんなるパロディにすぎないとも読みうるけれど、もしかすると、主体もまた何かしらの、ことによったら火事以上の「地獄」に身を置いているかもしれないわけでしょう。句は言葉のかぎりにおいて政治性を帯びてはいるけれど、同時に、その政治性は必ずしも明確ではないわけで、そこではむしろ読みの倫理が問われることにもなる。
宮﨑 そういう主体が見えない「俳句」がどうなの?ってことですよ。笑いとか諧謔とか共感性とかそんなことで俳句はいいのか、と人には強制しないけど、己には問いたくなったりする。
とあった。他に、福田若之×鴇田智哉「往復書簡『主体』について」5も興味深かったが、本ブログでは割愛する。ともあれ、以下に、「脇起オン座六句『白梅に』の巻」の両吟バージョンの巻頭のみの六句と一人一句を紹介しておきたい。
脇起ハード六句「白梅に」
曳尾庵 璞 捌
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり 与謝蕪村
画図の郷より薄墨の春 福田若之
人工の知能の音色とはこれか 浅沼 璞
左右ふたつの手ぢや弾けなくて 若之
上も下も弓張かゝへ笑ふ月 璞
うつぼかづらに入る秋の蠅 若之
鼻うたは新しいうた春の虹 田島健一
ゑがかるるかにひとりでに体操す 鴇田智哉
ゆく春に折り目があれば分けやすい 福田若之
すみれ草冷たい雨の降る時間 宮本佳世乃
菜の花のせかいのだれもゐないくに 宮﨑莉々香
撮影・中西ひろ美「語りだす前のみずみずしい言葉」↑
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